僕は友だちがいる
信じられないようではあるけれど僕には友達がいる。僕に友達ができるなど考えたこともなかったけれど、それでも出来てしまったのだ。それも二人も。一人は天才的で万能で僕とはかけ離れた性質をもっていた。もう一人は努力家だけれど努力が結果になかなか結び付かない、言ってしまうと要領の悪い奴だった。こんな言い方をすると誤解を生むに違いないから補足をしておくと、努力の量に対して結果が芳しくないだけであり、客観視すると十分すぎるほど彼は優秀だ。何故彼らと仲良くなれたのか、小学生の時以来まともに友人を作れたことのない僕には全く分からなかった。彼らに言わせてみれば友人関係に理屈など無いのだろうけれど、何にしても僕と親しくなることもなかっただろうに。類は友を呼ぶ、という格言を信用している僕には全く理解できないことだった。けれど今にして思うとなんだかんだ言って僕は彼らとある程度の共通点があったのだ。
彼らと一緒に過ごすことは一言で表してしまうと、とても楽しかった。けれどそんな一言だけで表すのは無謀でしかなく、事実は歪曲されて伝わるだろう。物事は常に多面性を持っている。喜びも怒りも悲しさも楽しさも、どの感情をとっても純粋ではありえない。喜べばそれが崩れることに不安を感じている。怒ればその開放感を心のどこかで満喫している。悲しければ浸っている自分に陶酔している。楽しければそれを手放すことを恐れている。僕の場合は楽しさと負の感情とが拮抗していた。ごく僅かに楽しさが勝っていた、というよりかは嫌な感情から目を逸らしていたのだ。だから一言で表すと、彼らと過ごすのはとても楽しかった。何て言うのは最初だけだ。友人がいるということに慣れてしまった僕はそのうち彼らの荒、とはとても言えないが、僕を苦しめる要因を彼らに見出し始めた。仮に才能あふれる彼を芦屋、努力家の彼を坂東としよう。実際のところ彼らはどちらも人間的に善良である、ということは今となっても疑いようがない。問題は僕の在り方、それのみだった。僕は初め芦屋に嫉妬していた。何でも出来て何からも選ばれていた彼を同時に尊敬もしていた。その上で言わせてもらうと僕と彼は人間性のあり方が非常によく似通っていた。彼は才能を持った僕であり、僕は才能を持たなかった彼なのだ。これは実際に彼と対してみなければわからないことだろう。彼には一切の向上心がなかったのだ。本当に才能のみで生きていた。それで人並よりはるか上の能力を手にしているからこそ、僕のようにはならなかっただけなのだ。彼は素晴らしい才能を確かに持っている。けれどそれが大成することはあり得ないのだと彼は悟っていた。なぜなら努力をしないから。というより出来ないのだ。彼は何もしようとしなくても出来ることは何でも出来てしまうけれど、出来ないことはしようともしないのだ。
芦屋と坂東を同時に語っているが、実は彼ら二人の間に交流はない。別々の関係だ。仮に彼らが出会ったところで、良好な関係を築くことは出来ないに違いない。彼ら二人にはあらゆる意味で接点がなかったから。坂東が芦屋を見れば、なぜ簡単な努力さえしようとしないのか疑問に思うだろう。けれど努力をすることがどれだけ難しいのか、努力を出来る人に理解は絶対にできない。芦屋が坂東を見れば何故そこまで実らない努力ができるのか疑問に思うだろう。けれど努力しないことがどれだけ無為であるか、才能だけで生きる彼には理解できない。
次は坂東について話してみよう。彼ははっきり言えば僕と同じくらいに無能だ。けれど僕とはっきりと違うのは向上心の有無だ。彼の向上心は常軌を逸していると言って差し支えなく、それはある意味では間違いなく才能といえるものだった。その意味で言うと彼は特殊で選ばれた人間に違いない。とはいえ、彼ともやはり共通点はあるのだ。それは無能であるということのほかに、心の底でお互いを見下しあってるということだ。もちろんそれは本心からではなくほとんど反射のようなものだ。無能な癖に努力さえしようとしない僕を蔑む彼と、無能な癖に必死に努力をしている彼を蔑む僕は反転した自分を見ているようで心が休まらない。歪んだ同族嫌悪であり意味のないいがみ合いだ。
僕にとって芦屋の持っているような素晴らしい才能は羨ましくはあるが嫉妬の対象ではない。才能にかまけて努力を怠る姿には親近感さえ湧く。真に嫉妬しているのは坂東のような努力家の持つ向上心に対してだ。といっても彼ほど徹底した向上心ならばそれほど妬ましいとは思わない。それは立派に才能と呼べるうえに、彼自身もその特殊性をある程度は理解しているからだ。しかし努力によってのし上がる者の大半は僕のような努力をしない者に対してあからさまな嫌悪を向ける。それは僕にとっても同じことだ。努力を普遍的な、誰にでもできる行為だと信じて疑わない彼らに対し僕は嫉妬し同時に心の底から嫌悪する。それはあくまで負け惜しみで、不細工な男が美人の女を連れているのを見て感じる嫉妬心と大した違いはないだろう。どのみち彼らは努力できない凡人を見下しているに違いない。少なくとも僕ならば、僕が仮に努力できたのだとすれば、努力できない誰かを見下すだろう。与えられた駒で出来ることさえしようとしない愚図野郎だと。それが想像できるからこそ努力努力とのたまっている人間が妬ましくて仕方がない。恨めしいといっても差支えないだろう。凡人でありながらそこまでのし上がったのだという自負心が見え透いて気分が悪くなる。
努力する能力とは生まれつき備わっているものに違いない。物事にどれだけの向上心を持てるかは生まれつき決まっているに違いない。世において不在証明が非常に難しいものであることは周知されているはずだ。努力できる人がいることを理解するのは簡単だが、出来ない人がいることを理解するのは非常に困難だろう。才能も向上心もない僕の立場からしてみると努力至上主義者は慢心の塊のようなものだ。自分に対して自信を持つな、他人を侮るな、とは言わない。ただ僕を放っておいてくれないだろうか。僕もあなたたちには関わりたくないから。




