7.我慢の果て
――その笑顔にどっろどろのチョコレートケーキを顔面にぶつけてやりたい。
そんなことを考えながら、私はにっこりと笑顔を浮かべた。
副学園長や教授がいる前で、こちらが不利になる行動をすべきではない。少しでもそんな素振りを見せれば、ビビアンがここぞとばかりに足をすくってくる。
ただ、ビビアンの言葉もすべてが嘘というわけではない。伯爵家にとっては願ったり叶ったりなのは確かだろう。
だが、私にとっては違う。何が幸せなのかは私が決める。嘘で私の価値を下げてこき使うつもりの相手に決めてほしくない。
「ビビアン様。気にかけていただきありがたいのですが、私は自分で道を切り開きたいと考えています。そのためにアカデミーに通っておりますので」
「なぜそこまで頑なになるの? 遠慮しないで私を頼っていいのよ」
このような仕打ちを受けても、相手に気を遣って話さなければいけないことが情けない。それでも、卒業が確定するまではなるべく穏便に済まさなければいけない。
あと三日だ。この三日さえ乗り切れば自由を得られる。そう言い聞かせ、爆発しそうになる気持ちにブレーキをかける。
――冷静にならないと。あの父よ。もともとわかっていたことじゃない。
父にとって娘である私がビビアンに仕えることは、イレイド侯爵家に義理が果たせ都合がいい。
だから、ろくに私の気持ちなど考えもせずこれで気持ちが楽になると喜んだに違いない。ついでに借金の一部でも私が返してくれたらいいなと思っていそうだ。
これまで文句を言いながら動いてきた私なら、きっと伯爵家のために返してくれると自分に甘い父はそう考えている。
「大丈夫です。自分の人生は自分で背負いますので」
「あんなに伯爵様たちは喜んでいらしたのに」
「私は私の考えがありますので、家の者が言っていることは忘れてください。それは私の意思と違いますので、せっかくの申し出ですが辞退させていただきます」
父に悪意がないからこそ、腹が立つしものすごく虚しくなる。
血が繋がっているからこそ切り捨てられずそれらに身心ともに振り回され疲弊し、だからこそ私は完全に距離を取ることを選んだのだ。
こんなことになっても、裏切られたと思う気持ちがあったのにも驚きだ。
家を出た時点で情を捨てたつもりであったが、やはり血が繋がっているためどうしてもわかってくれるのではないかと期待していたようだ。
だが、これでうっすらと残っていた情が綺麗さっぱり消えていった。なんだか感情という感情がなくなっていく気がした。
ふぅっと息を吐き出し、ビビアンを見る。
これまでは見ていても一歩引いてハストン家の娘として接していたが、初めてクロエとして彼女と対峙した。
深く考えるとやっていけないためいけ好かない人くらいで感情をとどめ自衛していたが、嫌いな女性としてはっきりと嫌悪を抱く。
「後悔しないかしら?」
ビビアンは周囲の目があるため笑顔のまま目を眇め、小さく首を傾げた。
周囲には守ってやりたい女性として可愛く映っているようだが、私にはその仕草が小賢しく映る。
「脅しですか?」
「違うわ。心配しているからこその言葉よ」
「それはありがとうございます。ですが、最初から言っていますが私は何も悪いことをしていませんので、その心配自体が無用です」
刺激はしたくないが、していないことをしたと黙ったまま悪者にされるつもりはない。
そこは譲らないときっぱりと言い切ると、ビビアンの取り巻きたちが騒ぎ出す。
「ここまできても白を切るつもりか?」
「ビビアン嬢、こんな女さっさと見切りをつけたらどうですか? あなたのもとで庇護される価値もない」
「そうですよ。ビビアン嬢の足を引っ張るしか能のない女なんて放っておけばいい」
散々な言いようだが、今更他者の意見など気にならない。
無視を決め込んでいると、アルバーン教授が激高した。
「その不遜な態度はなんだ。失礼すぎるだろ!」
「不遜? 無実を主張してなぜそうなるのですか?」
「イレイド嬢がそう言っているのだ。素直に聞き入れればいいものを。そんな可愛げのない性格だからこういうことになるんだ」
教授はわかりやすく権力に媚びるタイプで、理不尽に私を責める。
イレイド侯爵家はアカデミーに多額の寄付をしており、イレイド家を敵に回したくないアルバーン教授はビビアンのイエスマンである。
「アルバーン教授。クロエはまだわかっていないだけなんです。本当ならこれを言わないでおこうと思ったのだけど、あなただってこのまま退学になるのは嫌でしょう?」
「退学?」
このタイミングでのそのワードに眉をひそめると、ビビアンの赤い唇が綺麗な弧を描いた。
アルバーン教授が威圧的に机を叩く。
「そうだ。普通なら退学となるがイレイド嬢が助けたいとおっしゃっているのだ。これはお前の不正の糾弾だけではなくイレイド嬢の助けだというのに、その態度はあまりにひどい。反省したまえ」
貶めるの間違いじゃないのか。
最悪だ。すべての過程を終わらせてきたのに、ここにきて退学をちらつかされた。
ようやく、ここにステン副学園長がいる意味を理解する。
あと三日で彼女との悪縁が切れ、家のしがらみからも解放され、自分のために生きることが許されるはずだった。
自由を得るまでもうすぐそこなのに、まさかの形でそれらを潰されようとしている。
「私を助けるための提案?」
「そうよ。退学はかわいそうだと私が言ったの。私のもとで償いながら働くなら、卒業証明書は発行してくださるそうよ」
ビビアンが嘘で私を追い込んでいるのに、恩着せがましく上から言われ納得できるわけがない。
今後も私に面倒なことを押し付け、使い続けようという魂胆のようだ。
それだと伯爵家にいた時と何も変わらない。間接的に伯爵家に、直接ビビアンに支配されて何も変わらず私に自由はないままだ。
またしても私のこれまでの我慢も頑張りもなかったことにされそうで、虚しさが押し寄せる。
「働き先も決まっておりますが?」
ビビアンでは話にならないと副学園長に訴えると、髭をひと撫でして眉を下げた。
その顔をされるたびに、その髭を引っこ抜きたい気持ちになる。
「こうなった以上は仕方がない。先方にはすでに話はつけ、君の代わりの者が就くことに決まった」
「私に何の断りもなくですか?」
勝手だ。勝手すぎる。人の人生をなんだと思っているのか。
怒りで声が震えた。
「ああ。もちろんだ。怪しい人物を学園のお墨付きで国の機関に薦めるわけにはいかない。だが、多少問題はあったとしてもここまで残った生徒を退学させるのは惜しい。卒業生としてイレイド侯爵家の世話になるのは素晴らしい選択となろう」
我ながらいい采配をしたと、自画自賛で副学園長が笑う。
「イレイド嬢は君のそういったこともわかって受け入れてくれるのだから感謝しなさい」
アルバーン教授がふんと鼻を鳴らして言い放ち、ビビアンが勝ち誇ったような顔で私を見据えた。
自由のために勝ち取った働き口さえも勝手に潰され、目の前が真っ暗になった。




