09 カゴの中の小鳥
次の日。うちで作ったポトフを小鍋ごと持参し、屋敷の厨房で温めなおす。
それを銀のトレイに載せ、ダンテ様に見つからないようにこっそりと廊下を進む。
例の部屋の前で立ち止まると、周囲を確認してからノックした。
「……はい」
と返事が返ってきたので、わたしは扉を開けて部屋の中に滑り込む。
初めて入ったその部屋は、広さは他の部屋と大差ない。といっても、わたしの家の倍くらいの広さがある。
部屋の隅のほうには大きなベッドがあって、中学生くらいの男の子が横たわっていた。
男の子はショートカットにパジャマ姿で、子鹿みたいに大人しそうな顔つきに、透き通るような青白い肌をしている。
赤い瞳は潤みがちで、目を離したとたんに雪のように溶けてしまいそうな儚さを醸し出していた。
ヒザの上にはたくさんのマッチ棒と、作りかけのパーツが転がっている。
どうやらマッチを必要としていたのはダンテ様ではなく、こっちの美少年だったようだ。
美少年は、いきなり知らない人間が入ってきたことでちょっぴり驚いている。
「誰……?」
「えっと……」
なんて答えようか迷っていると、「新しい……メイドさん?」と勘違いしてくれたので、わたしはすぐさま乗った。
「はい。初めまして、ルシファー様。わたしはセリージャと申します」
「セリージャ、さん……?」と言葉を覚えたばかりの子供のように繰り返すルシファー様。
瞳はずっと不安げに揺れていて、それだけで抱きしめたくなるほどかわいい。
わたしは怖がらせないように、つとめてやさしい声で言った。
「ルシファー様に、ポトフをお持ちしました」
「ポトフ……?」
「とっても美味しくて、栄養があるスープですよ。食べるときっと元気になりますから、召し上がってみてください」
「……いい。どうせ、臭くてマズい料理なんでしょ?」
「まあまあ、そうおっしゃらずに」
わたしは持っていたトレイをベッドテーブルに置く。
小鍋のポトフにはフタがしてあったんだけど、それを取ったとたん、
……ほっこり。
と湯気がたちのぼり、スープのいい香りが部屋じゅうに広がった。
「えっ……?」
ずっと暗かったルシファー様の瞳に、わずかな光が戻る。
「な、なにこれ……? こんな食べ物、初めて見た……。すっごくいい匂いがする……。これが、ポトフなの?」
お腹がキュンとかわいく鳴って、はにかむルシファー様。
わたしもキュンキュンしながら、木のスプーンを差し出した。
「はい、とってもおいしいですよ。熱いから気をつけてくださいね」
おそらくルシファー様は、というか世界の人のほとんどはポトフを知らない。
メラゾーマスとアイアンプレート以外の初めての食べ物のはずだ。
大人だったら警戒されていたかもしれないけど、まだ幼い彼は疑うことを知らないのか、ドキドキワクワクが顔にあふれんばかりであった。
さっそく木のスプーンでニンジンとジャガイモをすくい、ふーふーと息を吹きかけてから、ぱくっと一口。
それでも熱かったのか、はふっ、ほふほふっ! と口の中で冷ましている。
ごくんと飲み込んだあと、一輪の大きな花が咲いた。
「わあっ!? すっ、すごい……! こんなの、初めて食べたよ! 本当においしい! すっごくおいしいよ!」
それからルシファー様は、わんぱく坊主になったみたいにガツガツとポトフを平らげる。
最後は鍋を持ち上げて、底に残ったスープまで全部飲み干してしまった。
「ぷはぁーっ! ご……ごちそうさまっ! なんだか、すっごく元気が出てきたよ! ありがとう、セリージャさん!」
ルシファー様の青白かった顔がほんのりと桜色に染まり、額には爽やかな汗。
ずっと小さかった声にも張りが出てきている。
ポトフの効果は予想以上だったので、わたしも嬉しくなった。
「喜んでいただけたなら何よりです。それではこれからも、ポトフをお持ちしましょうか?」
「ほんとに!? いいの!?」
「もちろんです。家で毎日作っておりますから、それをお持ちしますね」
「やったぁ! 約束だよっ!」
「ただし、ひとつだけお願いがあります。このことは誰にも内緒ですよ? ふたりだけの秘密です」
「うん! わかった! じゃあ、指切りしよっ!」
水たまりに映る太陽のような、まぶしい笑顔で小指を差し出してくるルシファー様。
わたしは子供に戻ったような気分で、彼と小指の約束を交わした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから、わたしに新たな日課ができる。
掃除のアルバイトの合間の、密かな逢瀬。
ポトフを差し入れたついでに、ルシファー様とはいろんな話をするようになった。
ルシファー様は造型芸術に興味があるようで、マッチ細工だけでなく、いずれは彫刻や絵画をやってみたいそうだ。
しかし彫刻は力が弱いので彫ることができず、絵画は顔料のアレルギーがあって医者に止められているという。
あ、そうだ、医者といえば……。
「ルシファー様、ちょっと早いですけど、今日はこれで失礼いたしますね」
「えっ、もう行っちゃうの?」
「ええ、もじき検診の先生がいらっしゃいますから」
神族専門の医師が、ルシファー様の容体を看るために週1回やって来る。
わたしがポトフの差し入れをしているのはもちろん秘密なので、鉢合わせたら大変なことになるだろう。
わたしは不満を漏らすルシファー様をなだめながら、部屋の外に出ようとしたんだけど……。
扉の向こうから、こんな声が聞こえてきた。
「おや、ブラッドジャック先生、今日は早いですね」
「前の往診が早く終わりましてな」
「ルシファーさんのほうはどうでしょうか?」
「それが、ここ数日で見違えるくらい元気になりましたよ。今まではこんなことは無かったのに……」
わたしはつい聞き耳を立ててしまったが、会話の途中でブラッドジャックと呼ばれた医師の話し声が近づいてくる。
目の前にあるドアノブが回るのを見て、思わず飛びあがりそうになった。
こっ……このままだと、見つかっちゃう……!