プロローグ
俺の名前は、小鳥遊 一。
名前だけなら、少しばかり格好がいい。
初対面の人に「たかなし」と読んでもらえたことは、あまりなかったけれど。
それでも、名前負けしていると言われたことはない。
そもそも、名前に負けるほど人と関わる機会がなかった。
俺は、人生において一つだけ、これだけは誰にも負けない自信がある。
働きたくない。
それはもう、働きたくない。
できることなら一生働きたくない。
朝早く起きるのも嫌だ。
満員電車も嫌だ。
上司に頭を下げるのも嫌だ。
同僚との気まずい雑談も嫌だ。
何より―金のために自分の時間を売るという行為が、どうしても好きになれなかった。
別に、仕事そのものが嫌いなわけじゃない。
いや、やっぱり嫌いだ。
ただ、誰かに決められた時間に起きて、決められた場所へ行き、決められた仕事をして、決められた時間まで帰れない。
そういう生活を何十年も続けるのが、どうしても想像できなかった。
もちろん、働かなくても生きていけるほどの金があるわけじゃない。
宝くじに当たったわけでも、親の遺産が転がり込んできたわけでもない。
それでも、なんとかなる。
実家にいれば、屋根はある。飯も出る。
小言を聞き流す技術だって、長年の暮らしで身につけた。
働けと言われたら、聞こえないふりをする。
将来どうするんだと言われたら、今を生きていると答える。
部屋の掃除をしろと言われたら、あとでやると答える。
その「あとで」がいつ来るのかは、俺にもわからない。
あとでとお化けは出てこないと言うが、それはその通りだと思う。
そんな俺は、三十歳。
無職。
童貞。
実家暮らし。
そして、堂々たるプロニートだった。
世間から見れば、ただの駄目人間だろう。
親から見ても、たぶんそうだ。
でも俺には、俺なりの理屈があった。
人生は一度きりだ。
なら、嫌なことを無理に続けるより、できるだけ楽しく過ごしたほうがいい。
そう考えて、気づけば何年も経っていた。
今日も昼過ぎに目を覚まし、冷蔵庫を覗いて、残り物を適当に食べた。
それから自分の部屋に戻り、動画を見たり、ゲームをしたり、ネットを眺めたりして過ごす。
いつもと変わらない一日。
代わり映えはしないけれど、不満もない。
少なくとも、そのときの俺は本気でそう思っていた。
「…まあ、こんな人生も悪くないよな」
誰に言うでもなく、俺はそう呟いた。
働いていなくても飯は食える。
屋根のある場所で眠れる。
好きな時間に起きて、好きなことをして、眠くなったら寝る。
最高じゃないか。
少なくとも俺は、そう思っていた。
―あの瞬間までは。
◇
「…ここ、どこだ?」
目を開けた瞬間、俺は見知らぬ場所にいた。
天井がない。
代わりに視界いっぱいに広がっているのは、青い空だった。
雲が流れている。
風が頬を撫でる。
草の匂いがする。
「…………」
俺はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと上半身を起こす。
「いや、待て」
おかしい。
俺は確か、部屋にいたはずだ。
いつも通りエ〇ゲーをやりながら、オ〇ニーして……
そこから先の記憶が、妙に曖昧だった。
テクノブレイクでもしてしまったのだろうか。
「…夢か?」
頬をつねる。
「痛い」
夢ではないらしい。
立ち上がろうとして、俺はそこで違和感に気づいた。
「……ん?」
体がおかしい。
明らかにおかしい。
まず、視界が妙に低い。
そして―
「…………」
俺は自分の身体を見下ろした。
見慣れない服。
細い腕。
小さな手。
そして、明らかに以前とは違う身体つき。
「…………」
数秒、思考停止。
さらに数秒。
現実逃避。
そして―
「は?」
声まで違った。
高い。
明らかに女の声だ。
「……は?」
もう一度声を出す。
やはり女の声。
「いやいやいやいや」
慌てて立ち上がり、身体を確認する。
間違いない。
俺は――。
「女になってるぅぅぅぅぅ!?」
青空の下。
俺の妙に可愛らしい絶叫だけが虚しく響き渡った。
◇
どうやら俺は、異世界というものに来てしまったらしい。
そう判断するまで、それほど時間はかからなかった。
なぜなら。
「……魔物だ」
遠くの森を歩く、巨大な生物。
見たこともない植物。
そして何より―
「…魔法?」
目の前で、少女が手をかざした。
次の瞬間、炎が生まれた。
俺はその場に固まった。
「…………」
炎。
本物の炎。
ライターでも、火炎放射器でもない。
少女の手のひらから、何もない空間に炎が生まれている。
「マジかよ……」
剣と魔法。
そんなものが存在する世界。
つまりここは――
「異世界……?」
自分でも驚くほど、その言葉がすんなり口から出た。
普通なら喜ぶところなのだろう。
異世界転生。
チート能力。
冒険。
魔王。
勇者。
美少女との出会い。
そんな夢のような展開を期待するのかもしれない。
無論、俺も少しばかり心が躍っていた。
剣と魔法の異世界なんて、ラノベやアニメで散々見てきた。
だが、俺には一つだけ、絶対に譲れないものがあった。
「…剣とかは嫌だな」
剣を振る。
魔物と戦う。
危険なダンジョンに潜る。
命懸けで冒険する。
そんなのは無理だ。
働くのも嫌なのに、命まで懸けて働くなんて論外である。
ならば―
「魔法だ」
俺は拳を握った。
「魔法を極めよう」
幸い、この世界には魔法がある。
ならば話は簡単だ。
剣士になる必要はない。
冒険者になる必要もない。
危険な仕事をする必要もない。
魔法を極めて。
誰にも負けない力を手に入れて。
その力で、誰にも邪魔されない生活を作ればいい。
朝起きる時間も自由。
寝る時間も自由。
働かなくてもいい。
好きなときにいつも通りオ〇ニーして。
飽きたら昼寝をして。
腹が減ったら飯を食って。
そしてまた寝る。
「…最高じゃないか」
俺は笑った。
異世界に来た理由なんてどうでもいい。
なぜ女になったのかも、今はどうでもいい。
元の世界に戻れるのかも知らない。
いや、戻らないほうが両親の為にもいいかもしれない。
だったら―
「この世界で、最高のニートになってやる」
そのためなら、俺は本気で生きてやる。
魔法を覚える。
研究する。
鍛える。
極める。
そして、誰にも文句を言わせないほどの力を手に入れる。
すべては…
「不労所得の為に...!」
こうして。
元・三十歳無職の男による、異世界ニート生活への挑戦が始まった。
―ただし。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この世界で魔法を極めるということが、想像していた以上に、とんでもなく面倒なことになるということを。
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