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プロローグ第一話「シャー」

剣より頭、魔法より読み。


平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。


ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。

 ヴェルタ歴209年、夏。

 トロンの村の路上に、人垣ができていた。

 中心にいるのは14歳の少年——マイトランド・ラッセルだ。

 彼の前には石畳の上に並べられた駒。

 シャトランジ。

 先ほど負けた鍛冶屋のドワーフが持ち込んだものだ。

 南方から伝わったばかりのその遊びが、今やヴェルタ中を熱狂させていた。

 子供も大人も関係ない。

 シャトランジ——シャー(王)を追い詰めたら勝ち、現代のチェスに似た遊びだ。駒は石ころで代用もできる。それだけで誰でも楽しめるこの遊びは、娯楽の少ないヴェルタ中に、あっという間に広まった。

 対面に座る壮年の男が、腕を組んだまま動かない。

 額にじわりと汗が滲んでいた。拭おうともせず、ただ盤面を睨み続けている。

 マイトランドは何も言わない。盤面を見つめたまま、微動だにしない。

 やがて男が、ゆっくりと駒に手を伸ばした——その瞬間。

あ、終わった。

 マイトランドの目が、ほんの少しだけ細くなった。

 男の指が止まった。

 盤面を睨んだまま、動かない。一手、また一手と読んでいるのだろう。だがどこに駒を動かしても、出口はない。男はそれをゆっくりと悟っていくようだった。

「……参った。」

 男がその場に静かに駒を置く。これで三度目の敗北だった。

 溜息をつきながら腕を組み、しばらく盤面を見つめたまま動かなかった。それから、ふと顔を上げる。

「……もう一局、いいか。」

 マイトランドは少し驚いた顔をしてから、静かに頷いた。

 ——そしてまた、マイトランドが勝った。

 ジェラルトは呆れたように呟いた。

「マイト……こいつまた勝ちやがった。」

 それから急に声を上げた。

「って何回目だよ!?さっきのおっさんも、その前の鍛冶屋のドワーフも、誰一人勝ててないじゃないか!何か必勝法でもあるんだろ!?俺にも教えろ、正直に言いやがれ!」

 マイトランドは小さく息をついた。

 嬉しいというより——ほっとした、に近かった。

 それから少し俯きながら、頭を掻いた。

「……必勝の方法なんてないよ。負けないようにしてると、相手が勝手に負けるだけで。」

「だからその方法が聞きたいんだって!」

「う、うまく説明できないんだ。ごめん。」

 ジェラルトが盛大に頭を抱えた瞬間、先ほど負けた男が立ち上がり、マイトランドに声をかけてきた。

 口髭を蓄えた、がっしりとした体格の男だった。

 服こそ旅塵にまみれているが、その立ち居振る舞いには、農夫とも商人とも違う、研ぎ澄まされた気配があった。

「坊主……面白い打ち方をするな。追い込んでいるのか、追い込まれているのか、わからんかった。わしも結構強いんだがな。」

 マイトランドは慌てて顔を上げた。

「……追い込んでるつもりは、ないんですけど。負けなければ、相手が勝手に負けてくれるので。」

 男は少し目を細め、口の端を上げた。

「そうかい。……だがな、戦っとった俺からすりゃあ、シャーがいつの間にやら、お前の都合のいい場所に追い込まれとった。そんな気がしてならんのだ。」

 マイトランドは何も言わなかった。

 言葉にならなかったからだ。盤面が語りかけてくる感覚を、どう説明すればいい。駒の一つ一つが、未来への道筋を叫んでいるように見える、あの感覚を。

「俺はオルメアってんだ。グエスタから来た。少なくともグエスタじゃ、お前以上に強い奴は見たことがない。」

 グエスタ——ヴェルタ中心部に近い、かなり大きな街だ。

 軍改革の恩恵を受け、近年急速に発展した鍛冶と革なめしの街。辺境のトロンとは、比べるべくもない。

「グエスタか……行ってみたいな。……おじさんは兵士なの?」

「おいおい、おっさんとはご挨拶だな。俺にゃオルメアって名前があるんだぞ?……まあ、45にもなりゃ仕方あるまいが。」

「あ、お、おじさんって言ったんですけど……。」

 マイトランドが小さくなる横で、ジェラルトが口を挟んだ。

「でも見た目完全におっさんじゃないですか!俺もそう思いましたよ!」

「ジェル!」

「ガハハ!正直な坊主どもだ。」

 オルメアは笑いながら続けた。

「で、兵士かって話だったな。そうだ兵士だ。訓練は地獄だがな、慣れちまえばなんてことはない。腹いっぱい食えるぞ。やせ細っちゃあいないだろうが、俺は。」

 マイトランドは自分の腕を一瞥した。何も言えなかった。

「で……なんでこんなとこに?」

「なんだ、知らんのか。」

 オルメアの声が、わずかに低くなった。

「隣のイスペリアで戦さが起きとる。俺は先遣隊として先に来とるんだ。馬を休ませながら、道々作戦でも練らにゃならんしな。明日にゃ国境まで行く。」

 戦さ。

 ジェラルトが「おおっ」と声を上げる隣で、マイトランドは気づけば自分の手を見つめていた。

戦争って、人が死ぬんだ。

 盤面の上でシャーを倒すのとは、違う。

 オルメアは懐から黒パンを取り出すと、マイトランドに向かって放った。

「まあそう固くなるな。これは俺に勝った戦利品だ、ありがたく受け取っておけ。」

 受け取ったパンは、ずっしりと重かった。

 ライ麦の黒パン——辺境のトロンでは滅多にお目にかかれない代物だ。

「……い、いいんですか?」

「かまわんかまわん、どうせ食い飽きとったところだ。子供はな、貰ったもんは黙って食うもんだぞ。」

 オルメアは立ち上がりながら、マイトランドをもう一度だけ見た。目が細くなる。

「……軍に入ったら、俺の参謀にでもなってくれや。未来の軍師殿。」

 笑いながら手を振り、男は路地の向こうに消えていった。

 しばらく沈黙が続いた。

 先に口を開いたのはジェラルトだった。

「……かっこいいおっさんだったな!」

「うん。」

「なぁ、マイト!」

 ジェラルトの目が、爛々と輝いていた。

「戦争、見に行ってみないか!?俺達だってそのうち行くんだ、今から見といて損はないだろ!」

 マイトランドは黙って黒パンを見つめた。

 それから半分に割って、ジェラルトに手渡した。

「……食べ物、どうする。」

「1週間、配給を半分にすりゃ溜まるだろ!川の水があれば腹くらい膨れる!それにほら、このパンもあるじゃないか!」

「……お前、それで平気なのか。」

「平気じゃあないさ!でも、どうせ毎日腹減ってるし変わらねぇだろ!?それよりマイト、行くってことだよな!?」

 マイトランドはパンを一口かじった。

 麦の香りが、口の中に広がった。

 こんな味を、毎日食えるのか——軍に入ったら。

「……1週間後な。ジェルもちゃんと我慢するんだぞ。」

「おうっ!任せとけ!」

 ジェラルトが拳を突き上げた。

 路上のシャトランジ盤の上で、倒れたままのシャーが、夏の日差しを静かに浴びていた。

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