第187話 最初の側室
帰参を願い出る者たちが庭先に居並ぶ岡崎城。そこでは、家康が三ツ下の本多三弥正重へ言葉をかけようとしていた。
「三弥」
「ははっ!」
「そなた、七郎右衛門と鉄砲を用いての一騎打ちをしたそうではないか」
「はいっ!いたしました!結果は七郎右衛門殿の勝ちにございましたが……」
針崎勝鬘寺へ攻め寄せた大久保党の大久保七郎右衛門忠世と鉄砲を用いての珍しい一騎打ちを展開した本多三弥。彼の瞳は、そのことで何か咎められるのではないかと警戒しているように見受けられる。
「見事であったと七郎右衛門より報告を受けておる」
「み、見事であったと……!?」
「そうじゃ。結果だけを見れば、そなたは負けた。されど、七郎右衛門とて無傷では済まなかった。その健闘を褒め称えておるのじゃ」
「ありがとう存じまする……!」
まさか鉄砲の腕前を評価されようとは思いも寄らず、本多三弥は戸惑いと喜びが複雑に混ざり合った表情へと変化する。しかし、その手は冷たい汗を握りしめていた。
「また、そなたの弟である藤左衛門からの嘆願もある。そなたも弥八郎も許すつもりでおる」
「そ、某だけでなく、兄もお許しいただけると!?」
「そうじゃ。その旨、上野城に籠城しておる兄にも伝えてやってはくれまいか。さしもの弥八郎も弟二人から降伏を勧められたとあっては、一考せざるを得まい」
「……承知いたしました」
「加えて、そなたの帰参も許す。処罰もないゆえ、案ずるでないぞ」
家康よりの言葉に正直者の本多三弥は胸を打たれ、涙を流した。加えて、実弟である本多藤左衛門重貞の取り成しにも感謝するほかなかった。本多藤左衛門が家康方に与して武功を挙げていなければ、今回の処置は到底あり得ないことであったからだ。
しかし、本多三弥の帰参を取り成したのは弟・藤左衛門だけでなく、彼と鉄砲を用いての一騎打ちを繰り広げた大久保七郎右衛門も関わっていたなど、当の本人は知る由もない。
「安藤次右衛門定次!」
涙を乱雑に袖で拭う本多三弥に微笑みかけた後、家康が名を呼んだのは安藤次右衛門であった。家康より齢は二ツ上の二十五歳の若武者である。
「はっ、これに!」
「そなたは佐々木上宮寺に立て籠もり、わしに背いたな」
「はいっ!」
「案ずるな。そなたを罰しようなどとは思うてもおらぬ。そなたの兄である杢助は立派に旗奉行を務めてもおる。これより先、兄に劣らぬ忠勤を期待しておる」
「勿体なきお言葉!この安藤次右衛門、殿の御為、犬馬の労も惜しみませぬ!」
安藤次右衛門は凛とした声音で家康へと思いの丈を告げる。その声に、言葉に偽りはないと感じた家康は瞠目して頷くのみであった。
「鳥居又右衛門尉!」
「ははっ!」
次に家康に呼び出されたのは鳥居又右衛門尉重正。まだ齢十五の少年であり、汚れを知らぬ真っ直ぐな瞳の持ち主であった。
「そなたも安藤次右衛門と同じく佐々木上宮寺に立て籠もったが、その罪を許すことといたす。汚名返上の機会などいくらでもあるゆえ、励むがよいぞ」
「ははっ!これよりは心を入れ替え、誠心誠意尽くさせていただきまする!」
老臣・鳥居伊賀守忠吉や近侍・鳥居彦右衛門尉元忠とは同族ということもあり、鳥居又右衛門尉を助けることとした家康。若武者相手には穏便に済ませたいという意向もあり、助命を基本的に許すこととしていた。
「倉地平左衛門!前へ!」
「ははっ!此度の一揆に加担したこと、まこと申し訳ございませぬ!」
「よい。そなたは額田郡米河内の領主であろう。今後は領民のことを考え、行動するようにいたせ」
「殿のお言葉、肝に銘じておきまする!」
表情が強張ったまま平伏した倉地平左衛門は、地面を見やりながらしたり顔をするのであった。
そうして倉地平左衛門が下がった次には鳥居家の家臣である山田八蔵と小谷甚左衛門尉が呼び出され、これまた寛大な処分が下され、大半の者がおとがめなしという結果に終わったのである。
一向一揆に加担した門徒武士らの中でも帰参を願う者たちへの処分を済ませた家康は阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛康景、鳥居彦右衛門尉、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政ら近侍を伴い、築山の屋敷を訪ねた。
「これはお殿さま、奥方様に御用でしょうか」
「そうじゃ。瀬名は中におるか」
「はい。若君と亀姫様を平岩様や石川様にお預けになり、奥の間にて市場様や田原御前様と談笑しておられまする」
「そうであったか。於葉、暖かくなってきたとはいえ、くれぐれも体を労わるのじゃぞ」
「ありがとう存じまする。ささっ、お殿さま。中へお入りくださいませ。奥方様へお殿さまのご来訪を報せて参りまする」
家康一行を出迎えたのは築山殿付きの侍女・於葉であった。家康と年も近く、立ち居振る舞いから育ちの良さを窺わせる彼女に心動かされながらも、家康は一切それを面に出すことなく、屋敷へ上がっていく。
「殿、奥より与七郎殿や七之助殿の声がいたしまするな」
「うむ。竹千代や於亀の他にも声がするゆえ、於市の子らとも遊んでおるのであろう」
「なるほど」
奥より聞こえてくる声に耳を澄ましていた榊原小平太は家康の予測を聞き、得心したと言わんばかりに幾度も頷き、奥へと取次に向かった於葉の方を見やっていた。
そして、家康一行が思っているよりも早く、築山殿と市場姫とともに於葉は広間へとやって来たのである。
「殿、お待たせいたしました」
「瀬名、こうしてゆっくりそなたに会いに来れるのも久方ぶりじゃ」
「妾も殿にお会いできて嬉しゅうございます。されど、ご用があるのは妾ではないのでしょう」
「さすが瀬名じゃ。察しが良い。うむ、今日は妹の顔を見に来たのじゃ」
築山殿は流石に家康の正室であった。弘治二年に縁を結んだ日より八年の月日が流れた今日、互いの考えることを自然に理解できる関係性へと昇華されていた。
あの頃、十五歳であった新郎は二十三歳となり、十八歳の新婦も二十六歳となっているのだから、月日が経つのは早いものである。
「兄上……」
「於市、すまぬな。わしが荒川甲斐守と縁組させたばかりに、このような辛い目に遭わせてしもうた。そなたの夫を国外へ追放した兄のこと、さぞかし恨んでおろう」
「はい。されど、兄上には兄上の、良人には良人の考えがあってのこと。それを一人の女子が口出ししてよいものではございませぬ。何より、兄上が八ツ面城をお攻めにならなかったのも、我が良人の一命を助けてくださったのも、妹であるわたくしに配慮してくださったものと信じております」
「そうか、そなたはそう思うたか」
異母妹・市場姫の言葉を鼻で笑った家康であったが、その本心は市場姫はもちろん、正室・築山殿にも理解することが出来た。
二人には身内だから情けをかけたわけではないという意地を表に出し、本心は裏へと隠そうとしていることが丸わかりであったのだ。
「兄上、わたくしだけでなく、子どもたちもお許しくださったこと、この場を借りてお礼を申し上げます」
「構わぬ。荒川甲斐守が子とはいえ、わしにとっては可愛い甥や姪。それも幼子ばかりではないか。これを助けぬなど、人道に背く行いであろうが」
吐き捨てるような言葉。その言葉に見え隠れする異母兄の、良人の気持ちを慮り、二人の女性は顔を合わせて笑いあう。
「瀬名、於市。何ぞおかしなことでも申したか」
「いいえ、そのようなことはございませぬ」
何か隠し事があるのかと、茶をすすりながらむっとした視線を向ける家康に対してかぶりを振る築山殿。何やら疑われているのではないかと察知した彼女は、別の話題を提示することでその場の空気を換気してしまおうと考える。
「殿」
「なんじゃ、瀬名。改まって様子で……」
「側室をお持ちなさいませ」
「ぶっ!?」
於葉が出したお茶をすする中での築山殿の発言に家康は口に含んでいたものを吹き出し、むせてしまう。その背中を本多平八郎と榊原小平太がさする中で築山殿は様子を見ながら話を小出しにしていく。
「殿はまだ側室をお持ちになられておりませぬ」
「そうじゃが、それがいかがしたか。わしはすでに瀬名がおるし、一男一女に恵まれてもおる。これ以上の幸せがまたとあろうか」
「ございまする。妾もあと四年で三十路ともなりまする。子を産むことも厳しくなりましょうし、殿には側室を持っていただきたいのです」
「じゃが……」
言葉を濁す家康であるが、側室を迎える際に正室である築山殿からの許可を得る必要があることを思えば、むしろ正室から側室を持つ事を勧められるというのは好都合なことではあった。
「されど、側室となるような女子がおろうか」
「この場におりましょう」
「この場におると……?」
家康が室内を流し見れば、女子は三名しかいない。正室・築山殿と異母妹・市場姫。そして、築山殿の侍女・於葉。
そして、必然的に築山殿が言っている側室候補は於葉へ絞られるのは自明の理であった。そのことを理解した於葉は家康と目が合うなり顔を朱に染めて俯いてしまう。
「殿、於葉は気立ても良く、妾にも良く尽くしてくれる律義者にございます。於葉であれば、側室として迎えることを認めまする」
「じゃが、於葉は……」
「ええ、柏原鵜殿家に仕える加藤善左衛門義広の娘にございます。殿が家柄のことを気になされると仰るならば、その主筋にあたる鵜殿藤助長忠の養女としたうえで娶ればよろしい」
もはやそこに家康の意志は介在していなかった。築山殿から同意を求められ、於葉は首を縦に振ってしまうし、はなからそれを勧めるつもりであったのであろう、都合よく鵜殿藤助が築山の屋敷を訪ねてきたのだ。
「藤助、ここにおる妾の侍女である於葉はそなたの家臣の娘じゃ」
「いかにも。某の家臣である加藤善左衛門が娘にございますれば」
「この於葉は殿の側室として迎えることとなりました。よって、於葉をそなたの養女としたうえで迎えたいが、その儀について承引願えませぬか」
「ご、御前様からの仰せとあらば、引き受けないわけには参りませぬ!某の養女が殿の側室にとは、これほど光栄なことはございませぬ!」
まさか自分の家臣の娘が主君の側室になろうなどとは思ってもみなかった鵜殿藤助。屋敷を訪れた当初は面食らった様子であったが、それが喜びへと目に見えて変化していく。
おそらく、家康がこの日に築山の屋敷を訪れることを築山殿は知っていた。それゆえに、ここまで周到に支度を整えられたのだ。これは妻に一本取られた、というのが家康の抱く感情であった。
しかし、当時の大名としても側室を持つ事は当たり前のことであった。尾張の盟友・織田信長も齢三十一でありながら正室・濃姫との間に子ができないこともあり、三名の側室から三男二女が誕生しているのだから。
「於葉」
「はいっ!何でございましょうか、奥方さま」
「その呼び方はやめよ。そなたも殿の妻の一人となるのじゃ」
「はっ、はいっ!恐悦の極みに存じます……!」
「殿へ嫁ぐにあたり、そなたの父の主筋にあたる鵜殿藤助が養女となる。そのこと、聡いそなたならば理解しておりましょう」
築山殿の言葉に於葉は静かに首を縦に振る。家康もまた、鵜殿藤助の養女として於葉を側室に迎えることを了承したこともあり、縁談話はとんとん拍子に進行していく。
「お殿さま……いえ、殿。よしなにお引き回しのほどを」
「こちらこそ頼む。突然のことで戸惑っておろうが、わしとて同じこと。まぁ、なんじゃ。妻として気兼ねなく接してくれればよい。奥での作法は瀬名に近侍しておったゆえ心得ておろうが、改めて瀬名より説明を受けるがよかろう」
「はい、そういたしまする」
理解の早い於葉は丁寧に手をつき、家康へ一礼すると、改めて正室である築山殿へも礼をする。側室ということもあり、築山殿の時のような式が催されることはなかったが、立派に側室として松平家に迎え入れられたのであった。
そうして縁談がまとまった頃、落ち着いた足音が広間へ接近し、閉じられていた障子が慎重に開かれる。
「殿、ついに側室を持たれましたそうな」
「なんじゃ、与七郎。聞き耳立てておったか」
「はい。いついかなる折も主君の話には耳を傾けるものにございますれば」
「左様か。じゃが、その面持ち、ただ祝辞を述べに参ったわけではなかろう」
「はっ!この場をお借りして殿へお願いしたきことを言上させていただきたく」
堅物な家老・石川与七郎数正が背筋を正して述べようとするお願いとは何なのか。家康は固唾を飲んで石川与七郎が動かそうとする口元を注視するのであった。