96.ケリーの忠義
遠い、遠い昔の話だ。
それはケリーがまだジェイダという幼名で呼ばれていた頃のこと。
ケリーの母が元気だった頃のこと。
父に似て当時から気の強かったケリーは、よく近所の子供たちと喧嘩した。あまりよく覚えていないが、原因はいつも些細なことだったと思う。
女のくせに軍人になりたいなんて変だと言われてカッとなったり、お前の父ちゃん貴族の落ちこぼれなんだってなと笑われて殴りかかったり。
そうやって同じ年頃の男の子たちと取っ組み合いの喧嘩をし、ボロボロになって家へ帰る。すると母はいつも困った顔をして、仏頂面の娘を椅子に座らせると「ジェイダ」と、優しくも諫めるような声でケリーを呼んだ。
「何度言っても分からない子ね。父さんも母さんも、あんなに口を酸っぱくして喧嘩はダメだって言ってるのに。どうして女の子らしくしていられないのかしら」
「だって、あいつらがバカにするから――」
「だってじゃありません。父さんがどうしてあなたにジェイダって名前をくれたのか、まるで分かっていないのね。その名前はあなたが真っ黒お化けに攫われてしまわないように、父さんがお守りとしてつけてくれたのよ」
「ランキー・ブギー……?」
腕に包帯を巻いてくれる母の手から目を上げて、幼き日のケリーは尋ねた。すると母も顔を上げ、いつになく深刻な表情をする。
「そうよ。ランキー・ブギー。名前のとおり痩せっぽちで、全身真っ黒の怖い怪物。見た目は人に似ているけれど、私たちとは食べているものが違う」
「ランキー・ブギーは何を食べるの?」
「そいつの好物はね、悪い子の魂よ。大人の言うことを聞かない子を攫っては、胸から魂をぐいっと掴み出して食べてしまうの。だけどランキー・ブギーが食べられるのは、本当の名前が分かっている子の魂だけ。だから父さんはあなたにかりそめの名前をつけたのよ。本当の名前を隠すためにね」
「ウソだぁ」
「本当よ。嘘だと思うなら、今度道具屋のお婆ちゃんにも訊いてごらんなさい。お婆ちゃんだってきっとこう言うに決まってるわ。あんまり悪いことばかりしていると、ランキー・ブギーがお前を攫いに来るぞって」
……そうだ。当時ケリーは、近所にあった道具屋のお婆ちゃんが大好きだった。優しくて気前が良くて、遊びに行くといつもにこにこしながらお菓子をくれたお婆ちゃん。
そのお婆ちゃんもランキー・ブギーを知っている、と言われて、初めてケリーは不安になった――もしも本当にそんなお化けがいたらどうしよう。都の外には怖い魔物がいるって言うし、それなら悪い子を攫うランキー・ブギーも本当にいるんじゃないかって。
「……で、でも、わたしには父さんがつけてくれた名前があるから、食べられないよね?」
ケリーがつい上目遣いになってそう尋ねると、母は声を上げて笑った。
そうして両手で包み込むように撫でてくれる。喧嘩のあとでボサボサになった、母譲りの草色の髪を。
「そうよ、ジェイダ。大丈夫。何があっても、あなたのことは父さんと母さんが守るから――」
――束の間、そんな追憶に耽ってしまったのは目の前の現実を受け入れたくなかったからだろうか。
ランキー・ブギー。
人型でひょろ長で、全身真っ黒な巨人に似た化け物。
体長は一枝(五メートル)ほどもあるだろうか。ケリーたちがクアルト遺跡の地下で戦ったゴーレムより更に大きい。
だがケリーは知っている。あれは本物の真っ黒お化けじゃない。トラモント黄皇国の伝承に出てくるその化け物にそっくりだからそう呼ばれているだけだ。
あの魔物の本当の名は――
「影人」
苦虫を噛み潰したような顔で、隣のウォルドがそう言った。更にその隣では、怯える馬を宥めながらカミラが青い顔をしている。
「影人? そんな魔物、聞いたことない!」
「そりゃそうだろ。あの魔物は普通、瘴気の濃い場所にしか姿を見せない。つまり地裂の傍でしか確認されてない魔物ってことだ」
「そ、そんなのがどうしてここに? このあたりには地裂なんて……!」
「さあな。あるいはルシーンが呼んだんじゃねえか? 生命神の神子を捕まえるために」
冗談なのか本気なのか分からない口調で吐き捨てて、ウォルドは唇の端を歪ませた。そこには影人に追われて逃げ惑う人の群がいて、既にあちこち赤黒い血溜まりができている。
襲われているのはどうやら隊商のようだった。白い幌を被った馬車が何台も放置され、あるいはひっくり返り、積み荷が散乱しているのが丘の上からでも分かる。
その隊商に加わる商人が雇った傭兵だろうか。混乱の中果敢にも武器を抜き、影人へ挑みかかる戦士たちがいた。
しかし魔物は左手を大きく振り抜くと、鋭い爪で傭兵を鎧ごと串刺しにする。胴を貫かれた傭兵はしばらくもがいていたが、やがて真っ黒い口の中へ放り込まれ、噛み砕かれてバラバラになった。
血の雨が降る。平原に肉塊が散乱し、商人たちの悲鳴が上がる。
さすがの傭兵もこれは無理だと悟ったのだろうか。所詮は金で雇われただけの臨時の護衛だ。
彼らはさして粘りもせずに、守るべき商人たちを置いて逃げ出した。激しい非難の声が聞こえるが、人間、誰しも自分が可愛い。生きるか死ぬかの瀬戸際で、他人のために命を投げ出せる者などほんのわずかだ――けれど。
「おいカミラ、待て!」
突然ウォルドの怒声が聞こえて、ケリーははっと我に返った。見ればカミラが馬腹を蹴り、全速で丘を下りていく。
どうやらほんの一握りの奇特な人間がここにはいたようだった。赤い髪を翻したカミラは愛馬だという芦毛を襲歩で駆けさせ、惨劇の中へと飛び込んでいく。
その途中で彼女は鞍を飛び降りた。そうするように調教されているのだろう、芦毛は乗り手を失うと方向転換して魔物から遠ざかっていく。
地面を転がったカミラは飛び起きるや否やすぐに駆け出し、剣を抜いた。緩慢な動きで歩いてくる魔物の行く手に、腰を抜かした商人がいる。カミラが助けようとしているのはあの男だ。
「くそっ、あの馬鹿……!」
無謀でしかないカミラの行動に舌打ちし、ついにウォルドが駆け出した。ケリーもほぼ同時に馬腹を蹴り、斜面を駆け下りていく。
すぐ後ろからジェロディたちの声が聞こえた。彼らも追ってきたようだ。しかしケリーが後方の様子を確認するより早く、爆音が轟き渡る。
「火箭!」
今にも商人に襲いかかろうとしていた魔物が、顔面に炎弾を受けて仰け反った。濛々と煙が立ち込め、影人の動きが止まる。
カミラはその隙に商人へ走り寄り、隣から腕を引っ張った。それで正気に戻ったらしい商人は目を見開き、やや肥満気味の体を震わせる。
「あ、ぁ、あぁ、あんたは……!?」
「通りすがりの傭兵よ! 魔物はあいつ一匹だけ!?」
「あ、あぁ、そうだ、あの化け物、何もない地面から突然ぬっと現れて……!」
「地面から――? まあいいわ、とにかくここは私たちが引き受けるから早く逃げて!」
「け、けど、それじゃ積み荷が……!」
「積み荷と命、どっちが大事なのよ!? 命あっての物種でしょ、ほら立って!」
もたついている商人を叱咤し、カミラは更に彼の腕を引っ張った。しかし商人も腰が抜けて思うようにいかないのだろう、立ち上がりかけてはまた尻餅をついている。
しかも体重が体重だ。カミラも一人では持ち上げられず、ついに剣を捨てて両手で商人を引っ張り上げようとした。だが刹那、
「カミラ、逃げろ!」
疾駆する馬の背でウォルドが叫んだ。
はっとしたカミラが振り向いた先で、影人が左手を振り上げている。
神術を顔面に受けておきながら、もう立ち直ったのか。息を飲むと同時に、カミラが傍にいた商人を突き飛ばした。
それを見たケリーが「あ、」と声を上げた、直後。
影人の長い腕が振り抜かれ、カミラの体が吹き飛んだ。彼女は鞠のように弾き飛ばされると、半壊した馬車の荷台へと突っ込んでいく。
木箱やら何やら諸々が崩れる音がして、馬車の車輪が飛んでいった。助けられた商人は情けない悲鳴を上げるやようよう立ち上がり、まろぶように逃げていく。
「カミラ……!!」
とても無事では済まない一撃だった。事実、カミラは馬車から出てこない。
しかも馬車に近づくにつれ、見える。
崩れ落ちた荷物の間から覗くカミラの脚。
その脚を伝うようにして、鮮血が滴り落ちていた。
カミラは動かない。気を失っているのか――それとも。
「そんな、嘘よ、カミラ……!!」
「待てフィロ、お前はそこにいろ! ティノ、マリー! お前らはフィロを!」
フィロメーナが我を忘れてカミラへ駆け寄ろうとした気配を察したのだろう。振り向きながらウォルドが怒鳴り、ケリーも後方を確認した。そこではジェロディがフィロメーナの馬の轡を押さえ、何事か叫んでいる。
だが既に彼らの姿は遠く、何を叫んでいるのかまでは聞き取れなかった。分かるのはフィロメーナが髪を振り乱して馬を下りようとしていることと、他の二人がそんな彼女を押し留めていることだけだ。
「まずいね……ウォルド、あんたはカミラを! 魔物は私が引きつける!」
「だがお前一人でどうにかなる相手じゃねえぞ!」
「時間を稼ぐくらいはできるさ! 行きな!」
馬蹄の音に掻き消されぬよう叫び、ケリーは馬を飛び下りた。自分の馬とウォルドの馬が方向を変えて並走していくのを見届けてから、槍を手に走り出す。
影人は相変わらずのろい動きで、カミラへ歩み寄ろうとしていた。だが行かせるわけにはいかない。ケリーは己の身の丈の二倍はあろうかという魔物の脚へ走り寄り、槍を構えて、喚く。
「あんたの相手は私だよ、化け物!」
こちらの声を聞きつけたのか、魔物が珍しい昆虫でも見つけたみたいに振り向いた。瞬間、ケリーは渾身の力で槍を突き出す。
「せっ――!」
気合を上げて、人間でいうところの脛のあたりに槍の穂先を捩じ込んだ。途端にドロッとした黒い液体が、腐臭を上げて流れ出す。
瘴気に冒された魔物の血だった。影人は鈍重な雄牛のような声を上げると、煩わしそうに左手を払う。しかしケリーもすんでのところで反撃を避け、再び魔物と距離を取った――こちらの攻撃は、一応効いてはいる、のか……?
「ウォルド、カミラの容態は!?」
手応えは五分。だが魔物の注意は自分に向いた。それを確認したケリーは、鼻が曲がりそうなほどの瘴気の臭いに耐えて叫んだ。
少し離れたところでは、馬を下りたウォルドが馬車に半身を突っ込んでいる。その様子をフィロメーナも見守っているはずだ。
ほどなくウォルドは体を起こした。下手に動かすべきではないと判断したのか、カミラは馬車に寝かせたままだ。
「相当やべえが生きてる! マリー、悪いが手を貸してくれ!」
一体いつからマリステアを〝マリー〟と呼ぶようになったのか、いや今はそんなことを気にしている場合ではないのだが、ウォルドに野太い声で呼ばれると、マリステアは戸惑いつつも返事をして駆け出した。
しかし相当やばいとはどのくらいやばいのか。マリステアは確かに癒やしの術を使えるがそこまで神術の素養があるわけではない。中度の外傷までは治せても、あまりにひどい傷は無理だ。
それに水刻の力は外傷こそ治せるが、骨折や内臓破裂などの内部の傷は治せない。よほどの神術の使い手で、水刻の上位種である蒼淼刻なら可能性はあるかもしれないが……。
(なんだってこんなことに――)
内心舌打ちを漏らしつつ、けれど魔物の注意がマリステアに向いたのを察知して、ケリーは再び駆け出した。
今度は突き刺すのではなく、横に薙ぐ。すると穂先が黒い巨人の脛を裂き、またも鈍い悲鳴が上がった。やはり効いてはいるようだ。
「グモオォォ……」
食事するにもケリーの存在が邪魔だと判断したのだろうか。低い鳴き声を上げ、魔物は体ごとこちらへ向き直った。
見た目こそ人に近い形をしているが、どうやらこいつは魔族語も人語も解さないらしい。本物のランキー・ブギーは邪智に富み、言葉巧みに子供を攫うというから、それに比べたらこいつはただデカいだけだ。
だったらまだやりようがある。
無理矢理そう言い聞かせ、ケリーは口角を持ち上げた。
「来な、デカブツ!」
とにかく今はマリステアがカミラを癒やす時間を稼がなくては。ケリーは無意味に槍を振り回して魔物を挑発した。
すると明かりにつられる虫のように、魔物がゆっくりこちらへ向かってくる。今度は左手を突き出してきた。影人の手は五本の指すべて黒く尖っていて、あんなもので貫かれたらひとたまりもない。
ケリーは攻撃を横へ避けながら、思った以上の敵の射程にぞっとした。対人戦ならその面でいくらか有利なケリーの槍も、あんな巨大生物の前ではちょっと鋭利な楊枝でしかない。
だがここまでの魔物の動きを見ていて、ケリーには一つ分かったことがあった。
魔物に利き腕というものが存在するのかどうかは知らないが、もしあるのだとすればあれは左利きだ。先程から攻撃はすべて右から来る。それならこちらが手の裏側――右側へ回り込んだらどうなるか。
ケリーは一瞬の閃きに賭けた。槍を構えたまま全速で魔物の右側へと馳せる。
魔物もそんなケリーを視界に捉えようと向きを変えるが、あの遅々とした動きでは追いつけない。そのことに業を煮やしたのかどうか、魔物は突然立ち止まって、左手を後ろ向きに振り抜いてきた。
自分の腕を動かしてみれば分かるが、人間の腕は前にも後ろにも動く。だが同じ腕の一部でも後ろには向けられないものがある。それが指だ。
あの化け物の体の構造は人間によく似ている。だからもしやと思って試したが予想どおりだ。
影人はケリーが正面を避けると、今度は手の甲で薙ぎ払おうとしてきた。だがこちら側ならあの黒い爪の脅威に晒されることはない。下手を打って影人に捕まる心配もない。ただ振り抜かれる長い腕に気をつければいいだけだ。
――これならイケるかもしれない。
思ったときには、行動に移していた。再び影人の右側へ回り込む。魔物の脚の間から、馬に乗ったまま戦況を見守るジェロディの姿が確認できた――彼を守らなくては。
ジェロディはガルテリオの愛息子であり、アンジェの忘れ形見であり、今のケリーの主人だ。そして同時に、大切な弟でもある。
兄弟のいなかったケリーにとって、弟ができるというのは戸惑いの連続だった。彼とは十一も歳が離れているし、ヴィンツェンツィオ家に引き取られた当時はあまりにも幼い彼を前に、どう接すればいいのか分からなかった――乱暴者の自分なんかが触れたりしたら、簡単に壊れてしまいそうで。
けれどたどたどしい言葉つきで、初めて名を呼ばれたときに弾けた喜び。ケリーを見かける度に、小さな足で必死に追いかけてきてくれたあの姿。
そういうものを見ているうちに、戸惑いは愛しさに変わった。自分はひとりぼっちなんかじゃない、と教えてくれたのは彼だった。
その彼を守るためなら、恐ろしいものなど何もない。だから。
「ゥォオオォオォオゥン!」
ちょこまかと動き回るケリーにいよいよ苛立ったのかどうか。魔物が再び後ろ向きに左手を振り回した。
高速で迫りくる黒い手を前に、ケリーは身構える。そこから一気に駆け出し、跳んで――魔物の手に槍を振り下ろした。
ケリーが特別力を込めずとも、向こうから突っ込んできた形で槍は深々と突き刺さる。魔物はさすがに悲鳴を上げた。人間が熱いものに触れたとき、とっさに手を離すような動きで左手を持ち上げる。
ケリーはその左手の甲に両足を踏ん張り、槍を支えに張りついた。穂先が完全に埋まるほど深く刺さっているおかげで、槍は簡単には抜けそうにない。
魔物もそれに気づいたのだろう、左手に人間がくっついていると分かると手首を使って激しく振った。ケリーは槍の柄を抱え込むようにして、どうにか猛烈な揺れに耐える。
「ケリー!」
下からジェロディの声がした。
ふとそちらに目をやって、あまりの高さに眩暈がする。
しかし青い顔でこちらを見上げるジェロディと視線が搗ち合ったところで――つい、笑みが零れた。
大丈夫だ。彼のためなら、自分はやれる。
「オォオォォオォ……」
影人はついに動きを止めた。どんなに振り回してもケリーが離れないと分かって方法を変えることにしたのだろう。
代わりに真っ黒な口を開けた。上下には剣山みたいな黒い牙が生えている。その口でこちらを喰うつもりか。けれどケリーも、このときを待っていた。
左手が魔物の口へ近づく。大人しくしていれば囓りつかれる。
だからケリーは槍を抜いた。
抜くと同時に、地面と水平になった魔物の腕を駆け上がる。
そこから渾身の力で跳び上がり、槍を頭上高く構えた。
こちらを見上げる魔物の間抜け面が眼下にある。
それを見たケリーはニヤリと笑い、そして――槍を振り下ろした。
「ギュギエェエェェエエェエェ!!」
この世のものとは思えぬ絶叫が上がる。ケリーの槍は人間でいうところの左目のあたりを貫いていた。
魔物の頭部に脳と呼べる器官があるのなら、間違いなくそこに達しているだろう。ケリーがそう思った刹那、黒い巨体が傾き出す。
影人の動きは倒れるときまで緩慢だった。ズズン、と地震に似た音を上げ、魔物が背中から倒れ込む。
その直前に、ケリーは槍を抜いて跳び離れていた。着地と同時に後退し、槍を構えたまま次の動きを警戒したが、魔物が起き上がる気配はない。
そうこうするうちに影人の体が溶け始めた。いや、溶ける、という形容は正確ではない。体の一部が霧のようになり、消滅を始めたのだ。
魔物の中には死んだあとこういう消え方をするものが稀にいる。やつらの死骸が放つ黒い霧は瘴気によく似たものだ。
本物の瘴気ほど凶悪ではないが、吸い込めば肺を冒され昏倒する。ケリーは右腕で鼻と口を覆いながら下がった。
魔物の肉体が完全に消え去るまで、この霧の脅威は続く。しかしそれでも霧化しているということは――終わったのだ。
「勝った、のか」
他人事のように呟き、ケリーは深く息をついた。ようやく全身の緊張を解き、構えていた槍も下ろす。
――良かった。今回もジェロディを守り切ることができた。
あちこち魔物の血を浴びて最悪な臭いがするが、勝利は勝利だ。もう半分くらい霧化している影人の亡骸を見て、ほっと安堵の息をつく。
「ケリー! 無事かい!?」
ほどなく背後から呼び声が聞こえた。それが大切な弟の声だと気づき、ケリーは体ごと振り返る。
馬を捨てて駆けてくるジェロディの姿が見えた。不安にまみれているその顔を少しでもなごませようと微笑する。
「私なら大丈夫です、ティノ様。幸い怪我も――」
「――ケリー、後ろだ!」
瞬間、また呼び声がした。今度の声はジェロディのものじゃない。
ああ、そうか。だとすれば今のはウォルドか。
そう納得したところで、ズッ、と腹に衝撃があった。
何だ、と見下ろした先に、何か黒いものが生えている。
……これは、魔物の爪、か。
ゴホッと咳き込むと同時に血を吐いた。
おかしい。影人は既に倒したはず。
なのに何故、こんなもの、が、
「ケリー……!!」
目の前で、ジェロディの顔が絶望に染まった。
そんな顔をしないでほしい。
彼にはただ、笑っていてほしい、のに。
「ティノ様――」
そう呼びかけたつもりが、声にならなかった。
力を失くしたケリーの手から、槍が落ちる。




