10 川を上る三人
こうして3人は川の上流へ向かった。はるか遠方にはカラマン山脈の白い山麓が夏の日差しを受けて銀色に輝いていた。8月の棚雲は遥か上空の彼方に長い尾を引いて走っていた。トウヒの濃い緑の森から真夏の山林の生命の匂いが漂っていた。山は狩りの季節だった。
この抜けるような青空と渓流がもたらす静謐な空気の中3人は川を上っていった。
オルド川の透明な水の中にはたくさんのニジマスが泳いでいた。 平和な日常であるならすぐにでも村に戻って3人で釣竿を出すところだった。鱒はアイルたちの足音に反応してどこか下流へと逃げていった。
上流から夏の爽やかな風が吹いた。3人は黙って歩いていた。そのとき突如森で何かが動いた。
狩人の習性から3人は即座に身構えた。
猪が森の隙間から顔を出した。そして川の水を飲もうと一歩小道へ足を踏み出した。ヤゴーが滑らかな動きでそれまで肩にかけていた弓をかまえ、そのまま矢を引き絞り放った。矢は猪の眉間をドスリという音を立てて貫いた。
「無駄な殺生はするな」ゲイルが言った。
「なあに血抜きで川に放り込んでおいて帰りに持って帰ろうと思ってね」ヤゴーが答えた。
「なるほど」ゲイルは一言だけ言った。
3人はイノシシの喉を割いた。そして1分足らずで腹を開いて腸を取り去った。後ろ足に石を括り付けた後川の淀みに沈めた。吹き出した血が煙のように水中で吹き出し水面を赤く染めた。
3人はまた川を上り始めた。
また森から獲物が出てきやしないかとヤゴーは足取り軽く歩いていた。しかし森に動物の気配はなかった。それどころか上流へ進むにつれて森は静かになっていった。
「何も出てこねえな」ヤゴーはいった。
川辺の森からは虫の声すら聞こえなくなってきた。ただ渓流を流れる水の音だけがこの谷の隘路に響いていた。3人は押し黙って歩いた。冬場の森でもここまで静かではなかった。アイルはいつのまにか自分の肌が粟立っていることに気付いた。
やがて彼らは森に潜む危険を確信した。この異様な感覚は危険な魔物が近くにいるときのそれだった。狩人の本能が彼らの足を鈍らせた。ただ村から託された責務が彼らに後退を許さなかった。しかし前進するにつれ異様な気配はさらに濃くなった。
「一旦村に戻るか?」ゲイルが聞いた。
「いや、このまま進む」ヤゴーが答えた。「ここまで森が嫌な感じだと村の皆もすぐに気づくだろう。あの兵には義理立てがある。砦の兵にもだ。はやく訃報を知らせないとな」3人はそのまま進んだ。
やがて彼らはオルド川の対岸に掛かる吊橋にたどり着いたが、道の異様はますます濃くなっていた。吊橋がなにか大きなものを支えたかのように大きくへたり込んでいたのだ。そして底板の何枚かが抜け落ちていた。明らかになにか大型の獣のようなものが吊橋を通過したのだった。
彼らは対岸に渡り川辺の小道を進んだ。対岸の森もまた静まり返っていた。ただ道の先の滝壺だけが轟音を発して流れていた。その静謐な霧を浴びると晴天の真夏の日差しの中にもかかわらずアイルは寒気を覚えた。アイルは何となく滝を見ていた。
その滝上の渓流の流れを一人の人間が流されてきた。瞬間アイルは走っていた。
そして川に飛び込み人間に掴みかかると、浅瀬まで引き寄せ岩と自分との間に押しとどめた。苔むした岩場の表面が剥げ落ち流れていった。
気付くとアイルの右手は血で真っ赤に染まっていた。アイルは何事かと顔を上げて目の前の人間を見た。
彼は兵士のようだった。胸当てははずしていた。肩口から胸まで上から切りつけられおびただい血を流していた。腰から下げた長剣が川の流れに揺られかつんかつんと岩を打ち付けていた。
兵士は何かを喋ろうとし口を動かした。アイルは耳を男の口元に寄せた。兵士は言った。
「オークの襲撃だ。砦がオークどもに襲われた」
兵士は苦痛に顔を歪ませ肩で息をしていた。そして続けた。
「アマンダ様は頼む」
「アマンダ?それは誰ですか?」アイルが訊いた。
兵士の顔は脂汗でぐっしょりと濡れていた。兵士の喉は血の痰がからみゴロゴロと鳴っていた。「追っ手がもうすぐくる」
アイルは上流を覗き込んだ。二人のオークが腰まで川に浸かりながら大股でこちらに近づいてきた。アイルはヤゴー達を振り返り手振りで上流を示した。彼らはオークを確認すると、強く頷き森の奥へ入っていった。
アイルは兵を引きずり滝壺へ飛び込んだ。滝壺の底は冷たく美しく青かった。何万もの小さな気泡がアイル達を取り囲んだ。見上げた水面は太陽に照らされ眩しく輝いていた。
彼は浮き上がり兵士を引っ張り上げて滝のくぼみに入り込んだ。
オーク共が滝上から覗き込んでいた。アイルは息を潜めた。しかし滝の流れに遮られてオークどもはこちらを視認できなかったようだった。二人のオークは上流へゆっくり帰っていった。
再びアイルが兵士を見ると、彼は息絶えていた。3人は兵の認識票を受け取った。遺書は探したが見つからなかった。ヤゴーは兵の長剣と盾を受け取った。兵の鎧をすべて剥ぎ取ると3人は目を瞑り手を組んで祈った。そして川の流れに兵を葬った。兵士は静かに川下へと流れていった。
3人は上流へ進んだ。




