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アルケイア三国戦記  作者: 広瀬 舞
第4章 最後の使者
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銀の印

女王の密命が下ったのは、大神官会議が割れた翌日のことだった。


聖林の社で、アウローラはエレオノーラをただ一人召した。


「共和国へ、使節として行きなさい」


女王の声は、いつもの急がぬ調子だった。


「帝国の宣戦に対して、王国と共和国が、共同戦線を結べるか。その目があるかどうかを——お前の目で、測ってきなさい」


エレオノーラは深く頭を垂れた。控えの間で自ら唱えた策が、こうして自分の足で果たす務めになった。望んだことではある。だが、その重さは望みとは別のものだった。


女王は、卓上の勅書を差し出した。急がぬ手つきだった。緑の封蝋が、梢の光を受けて鈍く光る。


「行って、見てきなさい。それだけでよい」


それだけでよい——女王の言葉は、いつもそこで終わる。結べ、とも、結ぶな、とも言わない。判じるのは、行った者の目だ。委ねられているのか。それとも、突き放されているのか。三百年を生きる者の言葉は、短い。その短さの底にあるものを、人間の身で測る術は、なかった。


大神官会議は、割れたままである。聖林の護りを固めよという声と、国境の外に出て共和国と結べという声。評定は三日に及び、結論は出なかった。女王はどちらの声にも頷かず、ただ、一人の使節を選んだ。軍を出すのでも、城壁を固めるのでもない。言葉を、出す。使節は軍を連れない。連れてゆけるのは、言葉と、印だけだ。それが、この森の国に残された、最後の手だった。


聖林の社は静かだった。天蓋の梢から、淡い陽が幾筋も落ちている。緑の匂いが満ちていた。帝国の高座を縁取る、あの燭台の闇とは何もかもが違う。ここには光があった。生きた木の、息づく光が。


だが——その光の中でも、戦は止まらぬ。光があろうと、緑があろうと、人は剣を取る。守るべきものが、美しいほどに。エレオノーラは社の梢を一度だけ仰いだ。そして、背を向けた。


その日のうちに、エレオノーラはわずかな護衛とともに出立した。


護衛は、四騎だけを連れた。多くを率いれば、それは使節ではなく示威になる。慎ましさもまた、口上の一部だった。


馬車は霊脈の森を抜け、街道を西へ急いだ。


揺れる車中で、エレオノーラは手のひらの中の小さな祝福印を握りしめていた。祝福魔法の媒となる銀の印である。神官位の証であり、護りの要でもあった。


印を授かったのは、十代の終わりである。神官の位を得た朝、老いた導師は言った。これは護るための印。奪うための印ではない、と。以来この印は、彼女の手のひらの熱を、幾度も吸ってきた。祈りのたびに。迷いのたびに。


窓の外を、王国の緑が流れていく。


街道沿いの村々は、静かだった。木組みの家。痩せた畑。軒先のわずかな薪。子供らが馬車の紋を見て道の端に寄り、頭を下げる。緑は、豊かだった。だが、豊かなのは緑だけだった。この国の民は森に生かされ、森とともに、慎ましく生きている。銃も、機体も、この村々からは生まれない。


戦の影は、まだこの街道まで届いていない。


道端に、祠があった。木の根に、白い布が結ばれている。祝福を願う古い作法である。布は、新しかった。誰かが、つい先日、結んだのだ。


触れは、まだ回っていない。だが、民は、もう知っている。


この暮らしの上に、やがて徴募の触れが回る。畑の男は槍を持たされ、水車は軍の粉を挽く。それを止められるかどうかが、己の口先ひとつに懸かっている——そう思うには、荷の中の口上書は、あまりに軽かった。


ふと、思った。


自分がこの務めに動けるのは、自分が生きているあいだだけだ。人間の、短い一生のあいだだけ。あと何十年か。長く見ても、それきり。


「アウローラ陛下は——三百年、見続けるおつもりなのね」


声に出さず、呟いた。


女王の「考えておこう」を、急がぬ怠慢と責めることはできない。三百年を生きる者にとって、一年の遅れは瞬きほどのものだろう。だが、人間にとっての一年は、一年だ。失われれば、戻らない。長命の女王と、短命の補佐官。同じ時を見ても、その重さは違っていた。


幾刻、馬車は走った。窓の外の緑が、少しずつ痩せていく。豊かな広葉の森が、低い灌木へ。やがて、乾いた草地へ。風の匂いにも、わずかに煤の気配が混じり始めた。国境が、近い。


御者台から、護衛の長が低く告げた。


「使節様。この先、共和国の検問にございます。あちらの兵は——気が、立っております」


「ええ。承知しています」


エレオノーラは祝福印を握り直した。銀の印は手のひらの熱を吸って、ほのかに温んでいた。


馬車はやがて、王国と共和国の国境に着いた。


共和国側の、検問所。


低い土塁の上に、歩兵が、数人。そのうちの一人が、肩から、長い筒を、下ろした。プネウマリア・ライフル。銃身の魔導陣が、薄く、光を帯びる。


「止まれ。何者だ」


銃口が、馬車に、向けられた。


エレオノーラの護衛が、剣の柄に手をかける。だが、エレオノーラはそれを、手で制した。


ここで、剣を抜けば、使節ではなくなる。


エレオノーラは馬車を降り、ゆっくりと進み出た。そして、片手を、軽く、かざした。


「——加護結界(ベネディクシオ・テグメン)」


短い、祝詞。


彼女の身の周りに、淡い、光の膜が、薄く、立った。攻撃の術ではない。ただ、自らの身を、護るだけの、最小限の結界である。万一、引き金が引かれても、一発くらいは、受け止められる。それだけの、慎ましい守りだった。


引き金が引かれれば、この膜は、一度だけ、それを受ける。そして、消える。二発目は、ない。


それでも、攻撃の術を、選びはしなかった。剣を抜き、術を展ければ、この国境が、そのまま、戦端になる。たった一人の使節の振る舞いが、二国の運命を、分かちかねない。慎ましさは、臆病ではない。それも、外交だった。


そして、もう片方の手で、王国の使節印を、高く、掲げた。


「聖霊王国フェルネスの使節、エレオノーラ・サクラメント。共和国議会に、火急の用向きがあって、参った」


歩兵たちが、顔を、見合わせる。


若い兵だった。まだ、戦を知らぬ目をしている。その目が、淡い光の膜と、掲げられた銀の印とを、せわしなく、行き来した。引くべきか、止めるべきか、判じかねて、いる。銃身を支える手が、わずかに、汗ばんでいた。


銃口は、しばらく、彼女に、向けられたままだった。光の膜と、魔導陣の光が、国境の土塁を挟んで、静かに、対峙した。


やがて、検問の長らしき兵が、銃を、下ろさせた。


「……通れ。ただし、議会棟までは、我らが、同行する」


エレオノーラは結界を解いた。光の膜が、音もなく、消える。


「結構です。案内を、願います」


馬車が、再び、動き出す。


先導に、共和国の騎馬が、二騎、付いた。護衛というより、監視である。街道の要所ごとに検問があり、そのたびに馬車は止められ、使節印が検められた。宿場の壁には、徴募の触れ書きが貼られていた。


議会は、まだ何も決めていないはずだった。だが国は、もう戦の支度をしている。決めることと備えることは、別なのだ——この国では。


日が傾く頃、遠くに、煙突の列が見えた。数え切れぬ煙が、まっすぐ、暮れの空へ立ち上っている。森の民が目にすることのない、眺めだった。


国境の向こうは、もう、鉄と煤煙の国だった。緑は、どこにも、なかった。

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