凶星降る
車から降り、まだ青い楓に縁取られた石段を仰ぐ。
最後に訪れたのは、一昨年の冬だった。もう、それほどに月日が経ったのだと、ぼんやりと思う。
この一年、託宣の拝領は、文で済ませていた。どこにも出かけたくなかったし、何より、あの隔たりのある態度に接するのがつらかった。
しかし、真神の社への参拝は、帝として、欠くべきではない最重要の神事である。いつまでも放り出しておくわけにもいかず、とうとう来てしまった。
雄童が、先触れに駆けていく。軽やかな足取りに、我が子が重なる。来年、七歳となり、東宮として、参拝に上がるのだ。
変わり果てた父親に、何かを察したのか、初星は、とんと寄ってこなくなった。様子を見に渡ったところで、行儀よく話すだけだ。
申し訳ないと思いながらも、情が薄らいでいることは、確かだった。
どうすれば、白梅の記憶が戻るのか。あの美しい微笑みを再び見るには、どうしたらいいのか――そればかり、考えてしまう。
桔梗は、態度にこそ出さないが、会話は格段に減った。ただ体裁として、后の務めを、淡々と果たしている。
己さえ踏み出せば、まだ修復は叶うだろう。しかし、白梅がいなければ、空しいだけだ。
斎子の案内で、本殿へと行く。おもむろに、白木の扉が開いていく。
「お待ち申し上げておりました、主上」
純白の美しい顔が、淡く微笑む。親しみのない、形式だけの笑み。現実が、まざまざと迫ってくる。
「……早速であるが、始めてほしい」
これ以上、この残酷な景色を、直視したくはなかった。
白梅が、丁重に礼をして、舞い始める。袖を振り、足を擦り、鈴を鳴らす。
歩む度に揺れる、結い上げた白い髪。ほどけて流れる様は、まさに天の川のようだった。そして、肩に鼻をうずめた時の、あの匂い。
これほど隔たった今でさえ、濃密に香ってくる。この雌子こそ、真の伴侶なのだと告げてくる。
慎ましやかな唇が、託宣を述べる。
血色の透けた、鮮やかな赤。確かに、柔らかく、甘く、美しかった。
呼びかけられて、はたと覚める。怯えと嫌悪の滲む、真朱の瞳。静かだが、厳粛な声が、はっきりと語る。
「――主上。ひとつ、ご忠告申し上げます。御治世が、吉となるも、凶となるも、御聖断次第にございます。どうか、御心を強く、お持ちあそばされませ」
途端、上りすぎた熱い血が、波のように引いていく。おもむろに瞼を閉じ、深く呼吸する。
(青星よ。己はまた、恋しき者を泣かせるつもりか)
見たいと切に願う姿を、思い浮かべる。
慎ましやかで清淑な微笑み。心配りに満ちた、優しい声。泣き叫ぶような思いをさせるなど、全く本意ではないのだ。
ゆっくりと、目を開ける。真朱の瞳を、真っ直ぐに見つめて告げた。
「申し訳ありません、大御巫様。ご忠告、しかと心に刻みます」
「御治世と御身の行く末に、幸多からんことを」
慮り、慈しむ声。新しい繋がり。心が醒める思いで、丁重に礼をした。
篠突く雨が、煩わしい。
妻戸と蔀を閉め、耳を伏せても、陰気な轟音は、鼓膜を叩く。
秋の長雨。足止めされて、もう三日目だ。ぬかるんだ道では、車は出せない。落ち着くまで、社の宿所で過ごすこととなった。
遠く、衣擦れの音が聞こえる。遣いにやった雄童かと思ったが、床をこすっている。雌子の衣だ。
妻戸の前に立つ気配。朗らかな声が、訪いを告げる。
「――失礼つかまつります。山吹にございます。大御巫様のお申しつけによりまして、参りましてございます」
入るよう伝えると、おもむろに戸が開く。傍らには、火櫃があった。
炭が入っていて、重いのだろう。慎重に廂を歩み、手前に置いて座すと、恭しく礼をした。
「この雨続きでは寒かろうとの、お計らいにございます」
「お心遣い、痛み入る。大御巫様に、礼を申してくれ」
山吹は、承知の意を告げ、身舎へと足を踏み入れた。手首に提げた袋から、火打石を取り出す。
「久方ぶりであるな、山吹。いささか、丈が伸びたか」
「――はい。長袴が、ようやく、ちょうどよくなってまいりました」
豊かな白金の髪を彩る、濃色の組紐。まだ子供である、その証。
「今年、いくつになった」
「十三になりましてございます」
石の擦れる硬質な音が響き、一瞬、高く燃え上がる。ぱちぱちと、炭が、軽やかに爆ぜる。
「もうすぐ成巫か」
「大御巫様は、そのように仰っております。昨年、裳をつくっていただきました」
はにかむ笑み。心は読めないようだが、白梅が、雌童に選ぶくらいなのだ。きっと、相当な力を持つのだろう。
「……そなたが、次の〈要〉の巫子となるのか?」
「それは、神々の御心次第にございます。ただ、大御巫様のご期待に沿えれば、まこと、うれしく存じます」
炭火で、明々と照らされた顔が、朗らかに笑む。
腰結を務める白梅と、鬢削ぎして臨む山吹。奥ゆかしくも華やかな光景が、心に浮かぶ。
「叶うとよいな」
「ありがとうございます。そう願って、励みます」
それではと、退出の礼をしかけたところを、呼びとめる。
座り直す姿。努めて平静に尋ねた。
「大御巫様は、今いずこに?」
「ご自身の局で、休まれておいでです。託宣のあとに、この長雨では――お疲れが出るのも、無理はございません」
まるで、天啓のように、その言葉を聴く。
これほどの好機は、滅多にない。ただ、誰の邪魔もなく、語り合えればいい。白梅が思い出すよすがになれば、それでいいのだ。
「主上……? いずこへ?」
「……小用だ。火の番をしておれ」
「承知つかまつりました。どうぞ、ごゆっくり、お行きになられませ」
丁重な礼を目の端に映し、妻戸へと、足を向けた。
外に出ると、案の定、簀子縁は水浸しになっていた。
すかさず身を震わせ、降りしきる雨の中へと躍り出る。化身すれば、煙る視界など、何ら障害にもならない。
雨粒を弾いてなお、静謐な森を駆けていけば、変わらず、竹垣の板戸があった。
鼻先で、軽く押す。鍵はかかっていなかったようで、軋みながら、ゆっくりと開いた。
眼前に広がる、懐かしい景色。しかし今は、蔀が、きっちりと閉じられている。
階を上り、単廊の軒下で、身をよじりつつ震わせる。濡れた毛が、一気に水滴を散らしていく。
さっぱりした心地で、似姿になると、妻戸へと歩み寄った。そっと開き、様子を窺う。
神々に近しい白梅には、寒いのだろう。涼気を遮るように、几帳が隙間なく立てられている。しかし、身舎にいることは、気配で、はっきりと察せられた。
忍び足で、廂を行く。帳をわずかに上げると、はたして求めた姿があった。
脇息に上体を預け、うたた寝しているようだ。歩み寄り、座して声をかける。
「白梅……」
すると、純白の耳が、ぴくりと震え、長い睫毛が、ゆっくりと上がっていった。驚き、飛び起きる様子が可愛らしくて、顔が綻ぶ。
「やはり、そなたは疎いな――そこもまた、愛らしいが」
「主上……! どうして、このようなところに……っ」
戸惑う面立ち。久方ぶりに、心から現れた表情を見た気がする。弾む思いで、言葉を紡ぐ。
「そなたと、語らいとうてな。幼き頃のように、この内院の局で」
「……畏れながら、幾度も申し上げておりますように、この身に覚えはございません。そして、こちらは、雄子禁制の神和寮にございます。どうか、御理解賜りませ」
丁重ながらも、厳粛な口調。真朱の瞳に、非難する色が、ありありと浮かぶ。
ただ心を打ち明けたいだけであるのに、あの慎ましやかで清淑な笑顔が見たいだけなのに、どうしてこうも、聞かぬ気がないのか。
「まこと、どうしたというのだ、白梅。朕は、七歳の頃より、幾度も、あの板戸から訪ね、そなたと多くを語り合った。美しいそなたを慕い、一心に想うてきた。そなたとて、悪しからず思っていたはずだ。それなのに、なぜ、かように冷たく当たる?」
純白の顔が、怯えて歪む。そして、何かに気づいたように、はっと左右を見渡した。
「――山吹……! 山吹や、いずこにいるのです?」
「かの者は今、火櫃の番をしている」
察して、白い眉が寄る。息を吸ったところを、すかさず手で阻んだ。
「酷いものだ、そなたは。これほど恋し愛でる心を伝えているのに、追い払おうとするのだな」
豊かな髪に、指を絡めて握る。鼻をつければ、濃密な匂いが、全身に響いた。
この、えもいわれぬ芳香。狂おしいほどにたまらなくなる、真の伴侶の証。それなのに、白梅は、どうして嫌厭たる表情で、己を見つめているのだろう。
「……そこまで、思い出せぬと申すなら――」
華奢な肩を突き、押し倒す。脇息が転がり、悲鳴が上がる。
「何をなされますの⁉ どうか、おやめあそばされませ……!」
力を失った時、〈要〉の巫子は、遷移するか否か。試した者はいない。誰も、その結末を知らない。
――ならば、試してみればいい。
「思い出させてやろう――あの夜の、続きだ……」
おもむろに、顔を寄せる。
そむけて逃げる唇。顎を掴んで向かせ、重ねて貪る。儚く抗う肢体を押さえつけ、長袴の腰紐に、手をかけた。
呼びかけに、瞼を開く。
美しく尊い姿。はっと、その貴い名を口にしかけて、喉が詰まる。
「白梅。吾は、残念でならぬぞ。これほど格別に愛でてきたそなたから、かような裏切りを受けるとは」
開かぬ口のまま、きつく頭を振る。ぼろぼろと、涙が落ちる。
輝く指が、身体の中心を指し示す。見下ろせば、全身に禍々しい紋様が浮かび、両足の間には、赤い点が落ちていた。
「――見よ。劣情の這い回った跡が、そこら中についておる。その血は、成り余れる処で塞がれた証。なんと穢らわしきことよ」
蔑む目。赦しを乞いたくても、汚穢に満ちた口では、声を発することさえできない。あの時と同じ――しかし、もはや取り返しはつかないのだ。
腹が、内側から痛む。汚物を見る目が、見下ろして歪む。
「おお、おぞましきものよ。卑俗な獣に成り果てたか」
身の内に、流れ込む感覚。赤に、白濁が垂れ落ちる。輝かしい光が、遠ざかっていく。
「赦さぬ。決して赦さぬぞ、白梅よ。この背信の咎は、生きては償えぬと思え」
声にならぬ声で、貴き名を叫ぶ。
手に脚に絡みつく、どす黒い汚泥。まるで、我が物のみとせんとばかりに、引きずり込んでくる。
(――いやっ……大御神様……! 大御神様あぁっ!)
首筋に、ねっとりとした感触が伝う。熱い吐息が、震えて囁く。
「ああ、白梅……ようやく……ようやく、我が手に……」
茫洋と、天井を見つめる。かすれた声が、こぼれ落ちる。
「……青星……様……」
はっと、身を起こした姿。縹色の双眸が、歪んだ喜色に炯々と光る。
「白梅! そなた、記憶が戻ったか!」
「……どうして、このようなことを……わたくしが、力を失っても……〈要〉の巫子は、変わりませんのに――どうして……」
「もうよいのだ。私とそなたは、真の伴侶。結ばれぬ宿命など、あるはずもない」
火照った大きな手が、頬をなぞる。昂った声が、打ち震える。
「こうして、契ったひとときで、思い出したのだ――これも、深き縁あればこそ。私は、宿命に打ち克ったのだ」
不遜で傲慢な笑み。猛った瞳。
もう、何も聴こえなかった。慕い焦がれる心が聴けたなら、幾ばくかは慰めになっただろうか。
「白梅……ああ、我が愛づる伴侶よ……そなたの全てを、私で埋め尽くしてやろう」
視界が、ぐるりと回る。どれほどもがいても、掴まれた腰に阻まれる。裂けた肉が擦れる痛みに、悲鳴を上げる。
「主上! もうこれ以上はっ……! どうか、どうか……!」
「案ずるな。二度目は良くなろう。雌子には――そのための、小さな余れる処が、あるのだからな」
耳に這う、湿った感触。背中にのしかかる重み。がたがたと、全身がわななく。
次の瞬間、脳天まで一気に突き抜けた衝撃に、悲泣した。




