#12 味のしないビーフシチュー
床に放り出された零のスマホが、激しく震えながら着信を告げる。
画面に表示されているのは、弦の名前だった。
一度切れても、またすぐに震え出す。
その執拗な振動は、まるで弦の怒りがそのまま形を変えて追いかけてきたかのようだった。
「……っもう、うるさいな!」
律が顔を上げ、忌々しそうにスマホを一瞥した。
何度も繰り返される呼び出し音に、部屋を支配していた狂気じみた熱が、急速に冷めていく。
「弦は本当にしつこい。まったく……興醒めだよ」
律は零の上に被さっていた身体を離した。
「あきらめが悪いところは、母親そっくりだな」
何事もなかったかのように立ち上がると、乱れた髪を指で整えた。
「さっさと身支度して。もう帰るよ」
そして、零の手枷を外した。
解放された手首には、赤黒い痕がくっきりと刻まれていた。
零は震える指先で、急いでシャツのボタンを留め直す。
つい数秒前まで執着を見せていたはずの律。今はもう、零に興味を失ったかのような冷淡な背中を見せている。
その変わり身の早さが、暴力よりも深く、零の心に恐怖を刻み込んだ。
「夕飯には間に合いそうだね。今夜はビーフシチューって百々子さんが言ってたな」
「は……?」
「一流レストランのとは違う、家庭の味っていうのもいいよね。きっと、父さんもそういう貧乏くさいところに惹かれたのかな」
悪意など微塵も感じられない、平然とした口調。
それがかえって、母と自分を馬鹿にされているようで、零は奥歯を噛み締めた。
「さぁ、一緒に帰ろう。ぼくの可愛い弟くん」
◆◆
神大寺家のダイニングテーブル。
目の前には、湯気を立てるビーフシチュー。
零の誕生日やクリスマス、特別な日にだけ食卓に並んだ、思い出のメニュー。
だが、今の零には、その味が全くしなかった。
「うん、おいしい!百々子さん、料理上手だね」
律がいつもの穏やかな笑みで絶賛し、詠も満足げに頷いている。
その光景は、どこからどう見ても幸せな「家族」そのものだった。
ふいに、律と視線が合う。
零はたまらず視線を落とし、肉を無理やり口に押し込んだ。
「ごちそうさま」
「あら、おかわりあるのに」
百々子が心配そうに零を見た。
「試験勉強するから、もう部屋にいくね」
夕食後、逃げるように廊下に出た。
ようやく呼吸ができた。そう思ったのに――。
「……っ!」
背後から伸びてきた手に、強引に手首を掴まれた。
「い、いたっ!」
力が強いからじゃない。
「なんだ、この傷は」
弦がつかんだ手首を見つめる。
手枷の痕が黒くはっきりと残っている。
「来い」
抵抗する暇もない。
零はそのまま引きずられるようにして、弦の部屋へと連れ込まれた。




