01 出発前夜
今から約二千年前、初代魔王に率いられた悪魔族と人族との間で大きな争いがあった。
圧倒的な力を持つ悪魔族に追い詰められた人族が、秘術を使って異世界から勇者を召喚すると、勇者を中心に団結して戦況を巻き返した。
そして、長く熾烈な戦いの末に勇者と魔王が相討ちとなり、両者共にこの世を去った。
魔王を失った悪魔族は戦線を後退させ、人族は禍根を断つべく追撃を行おうとしたが、それで最終的に人族の勝利で終わるとしても、人族側も甚大なダメージを受けることは確実だった。
そこに、天災地変や強大な魔物の襲来など、想定外の何かがあれば、回復不能な損害になるおそれもあった。
それを見兼ねた一柱の神が、悪魔族を、後に「魔界」とよばれるようになる、大陸規模の巨大な結界内に閉じ込め、戦争を継続することを物理的に不可能とした。
その際に人族・悪魔族双方に相当な被害が出たが、そのまま争いが続いていれば、どちらか一方、若しくは両者共に滅亡する可能性もあったことを考えれば、英断であったといえる。
ただし、永続する魔法は存在しないという原則は、神の奇跡であっても例外ではない。
その神は、結界を維持するために自らの神格の一部を切り離し、それを結界の核とすることで、ひとまずの解決を図った。
それで、少なく見積もっても、5千年以上は結界を維持できる計算になる。
その代償として、神格を捨てた形となった神は半神となり、更に後に起こした事件で魔王へと堕ちてしまったが、それは別の話である。
外界と隔絶されてしまった魔界は、システムの恩恵こそ外界と同じように受けられるものの、そもそもの人間の世界への進出理由であった、作物の育ちにくい厳しい自然環境などが改善されたわけではない。
また、魔王という絶大なカリスマをもった存在がいなくなってしまったことも問題だった。
元来好戦的な者が多く、「強さこそが正義」という価値観が主流だった悪魔族は、残された僅かな資源を独占するため、又は己が力を示すために、当然のように群雄割拠の時代へと移行した。
魔王が統一する以前の状態に戻ったというべきか。
以降、魔界の中では、何百年にも渡って戦乱の世が続いた。
現在でいう大魔王クラスの猛者がゴロゴロといる環境で、協力という概念がほぼなかった魔界において、多数の勢力が入り乱れて戦う戦場では、明確な決着がつくことは稀だった。
その結果、魔界の自然環境は更に悪化し、その上、怒りや憎しみなどの負の感情に反応して、瘴気が魔界の各地を汚染することとなった。
悪魔族の魔力の高さと、攻撃的な性格が災いした形である。
瘴気は、一度発生すると、空気などのように拡散せずに、その場に留まる性質がある。
そして、その浄化には、基本的に世界樹――システムの浄化能力に頼る以外に解消する方法は無い。
そのため、浄化速度を上回るペースで発生すると、無制限に蓄積していく。
それが許容量を超えると、人間を含めた動植物に様々な悪影響が現れ、最悪の場合は死亡することもある。
そのような環境では、たとえ生き残ったとしても、生態系から外れて異形化することも珍しくない。
また、瘴気汚染環境下では、体力や魔力の回復速度が落ちるなど、システムの恩恵の大半が弱体化する。
やがて、魔界の環境が悪魔族の生存できる限界に近づいた時、愚かな自称魔王たちはようやく状況を認識して、生き残るための新たな道を模索するようになった。
相変わらず協力という概念は薄かったが、それでも戦い続ければどうなるかを理解するだけの分別はあった――とはいえ、相手を出し抜くための努力も忘れなかった。
そうしてできあがったのが現在の魔界である。
比較的環境の良い中央に、名実共に魔界の支配者ともいえる大魔王が君臨して、表面的には人間と変わらない社会性を手に入れた。
そして、地方では、多数の自称魔王が治める大小様々な都市が乱立する、人族の国家の出来損ないが、悪魔族の二千年の成果であった。
当然、人間の国家ほどの交流はなく、いまだに武力による支配のみが全てだと公言して行動する者がいたり、武力は劣っていても、相手を陥れるために戦略や調略を使うように進化した者など、その本質は大きく変わっていない。
問題は他にもあった。
魔界は、神格を核に、神の力をもって造られた。
とはいえ、いかに神であっても、「世界」を造ることは容易ではない。
それでも、その実態が「世界」未満の「結界」であったとしても、「世界」と認識できる物を造れただけでも、その神の能力の高さを示しているが。
ただ、世界として構築しきれなかった部分が、大小様々な綻びとして、多く存在しているのも事実である。
新月や満月――月齢に合わせて結界の安定性が低下するのもそのひとつだ。
とはいえ、結界全体として見れば、その用を損なうものではない。
結界は物理的なものではないので、いつどの部分が綻ぶかを事前に把握することは不可能で、山を張るにも確率的には微妙なところ。
それを狙って大移動など、時間と労力の無駄以外の何ものでもない。
それでも、長い年月のうちに、その確率を意図的に高める方法も編み出された。
それが「界渡り」と呼ばれる儀式である。
特定条件下で、特定の儀式を行うことで、比較的現実的な成功率で、対象者を外界へと送り出すことができるようになったのだ。
表面上でのことであっても魔界での戦火が縮小し、情報交換や技術交流が行われるようになった成果である。
それから、「再び人間界へ侵攻するための足掛かりを作る」という名目で、優秀な者たちを選抜しては、外界に送り出すようになった。
もっとも、眷属以外は基本的に敵である彼らの間で、どんなやり取りがあったのかは想像に難くない。
外界に進出したときに有利になるよう、ひとりでも多くの眷属を送り出したいが、真に優秀な者を送り出すと勢力が弱まる。
そうすると、魔界での地位が危うくなる。
当然、最も力のある魔王自身が候補になることも選択肢に入ったが、魔王がいなくなって弱体化した勢力が、他の勢力に襲撃されたり、その後、外界に他勢力からの刺客ばかりが送られてくるおそれもある。
過去に、魔界でも有名な大魔王が突如として失踪したことがあり、彼の勢力が、瞬く間に近隣の勢力に併呑されたという事件もある。
そうなると、やはり忠実で優秀な若者を育てて送り出す以外に方法はない。
そのためには、多くの王が、彼らにとって善き王とならなければならなかったのは、皮肉としかいえない。
古くから続く魔界の有力貴族、グレモリー家。
その長女の【リリス】が、選抜にエントリーしたのが4年前のこと。
若くして優秀な魔法使いとして名を馳せていたリリスは、次期当主との呼び声も高かった。
しかし、彼女は彼女ほどではないにせよ優秀な弟に家を任せ、自身は外の世界に出て魔界を救う手段を探すことを決意した。
彼女の崇高な目的を余所に、リリスはエントリー直後から、様々な妨害を受けるようになった。
グレモリー家が、人族との共存を目指す穏健派であるのがひとつの理由だったが、一番の理由は、グレモリー家が初代魔王の血を引いているという噂にあった。
初代魔王が、どうやって人間界へ進出したのかは、現在においても謎に包まれたままである。
その手段があるのは間違いない。
しかし、それが魔王のスキルによるものか、若しくは特殊な魔法でもあったのかも分からない。
魔界には、それについて記された文献や口伝が存在していないのだ。
魔界が誕生した当時は、人間との戦争直後の混乱で、更に統率を失った悪魔族の暴動の最中である。
また、結界生成時の大破壊で、初代大魔王の足跡の多くが消失し、そもそも、過去の出来事を文献にまとめるような習慣もなかったため、後の世での検証もできない。
そのため、事情を知るはずの魔王とその側近たちが揃って消えてしまっては、実は人間界と魔界は陸続きで、普通に歩いて人間の国に行ったことなど分かるはずもない。
その後、今日に至るまで、様々な推測や、それに基づく実験はされたものの、軍勢を率いて人間界へ渡る方法は、いまだに確立されていない。
また、その実験には初代魔王の血を引くといわれているグレモリー家も度々参加している。
なお、グレモリー家が魔王の血を引いているという確証は存在していない。
それは、初代魔王亡き後、魔王の血を受け継いでいると主張する戦災孤児の少女が現れたのが、事の発端だった。
当時、同様の自己主張をする者が多かった。
しかし、その少女の出身地に初代魔王が逗留していたことと、時期的に少女の年齢と一致したこと、その少女がサキュバス族であったことも、「魔王も男だし、ついムラムラきちゃうこともあるよね」と理解を示された。
何より、その少女が常識では考えられないくらいの魔力を有していたことと、その子孫からも度々強大な魔力を持った子が生まれたことが決め手となった。
それでも、当初は突然変異などの説も根強かったものの、現在ではほぼ確定とされている。
そういった経緯から、グレモリー家特有の何かを、外界へ進出するための鍵だと考えている集団も少なくなかった。
彼らにとって、リリスが魔界にいるうちはよかったのだが、外界に出られてしまっては困るのだ。
さらに、リリスの外界進出を、人族の勇者アルフォンス・B・グレイが手助けしたことと、彼らの知る方法以外で魔界脱出を果たしたことが、彼らのその説に確信を持たせた。
そして現在、その妹であるルナが、外界へ出るための選抜にエントリーしようとしている。
膨大な魔力を宿しながらも、なぜかそれを上手く扱うことができない彼女ではあるが、以前の経緯もあって、監視や妨害は激しい。
中には、最悪の場合――彼女を外界に逃がしてしまうくらいなら、彼女を生贄に捧げて、魔界の壁を破れないかの実験を行うことを計画している集団もいる。
ただし、そういった集団も、連携しているわけでも、一枚岩でもなく、むしろ、抜け駆けされないように牽制し合っていて、すぐにそうなる可能性は低い。
それでも、彼女を取り巻く状況は予断を許さない。
◇◇◇
――ユノ視点――
「ユノ、ということらしいですが――聞いていましたか?」
「ふぁっ!?」
もちろん、聞いていたよ?
しまった。
建前より先に変な声が出てしまっていた。
「うん、まあ、こうなると思って、アイリス様にお願いしたんですけどね」
「これから魔界って怖そうなところに行のに、ユノさんはいつもどおりですね!」
「ちゃんとアイリスの言うことをよく聞いて、大人しくしておるのじゃぞ?」
「あんたならどこへ行ってもやっていけると思うけど、アイリスのことを考えて行動してあげなさいよ?」
「ユノ様なら魔界などひと捻りでしょう! ご武運を!」
「あのねえ、アーサー君……。ユノちゃん、私の注文は覚えてくれてるんでしょうね?」
『うん。魔界の様子の報告と、結界の核――神格の欠片の状態の調査。最悪の場合は、魔界を消滅させてもいいんだよね』
「そうね。計算上はまだ結界は保つはずなんだけど、もしも、それを破綻させるだけの瘴気がこの世界に溢れたら、甚大な被害が出るから。――瘴気自体は拡散しないけど、瘴気に侵された動物や魔物は移動して、その先々で新たな瘴気を発生させるからね……。暗黒大陸以上の――ううん、この星全体の災厄になるわ。悪魔族には救われてほしいけど、そのために世界を犠牲にはできないのよ。だから、お願い、ユノちゃん。力を貸してほしいの」
「ふぁっ?」
何だか分からないけれど、全然関係無さそうな話から、突然こっちに振るのは止めてくれないかな。
『また聞いてなかったみたい。前振りが長すぎたんだね』
「まあ、そこは最初から分かっていることですしね。ですが、私が――パートナーである私がフォローすればいいだけのことですから」
「そうですね! リリーもユノさんのお手伝いいっぱいしますね!」
アイリスはいつも頼りになるなあ。
リリーもいつも良い子だなあ。
「儂らはそれぞれ得意分野が違うからのう。儂らは、儂らのできることでユノを助けてやればよい。そうじゃ、確かアイリスの絵には魔除けの効果があったのう。魔界で役に立つのではないか?」
「くっ……!」
アイリスが悔しがってるのは珍しい。
でも、アイリスの絵には独特の雰囲気があって、私は好きだよ。
突然視界に入ると、少しドキッとするけれど。
「女の争いおっかねえな……」
「私は、レティとあんたの妹の召還ができるように、研究を進めるわ! でも、個人の特定はちゃんとできてるはずなんだけど、実際にレティをターゲットにしようとすると、どうしてもエラーが出るのよね。何かヒントになりそうなものが見つかったら教えてほしいわ」
「私に頼むようなことじゃないと思うけれど……。妹たちを召喚するために必要な、それっぽいのが見つかったら教えるよ」
「大事なことは聞き逃さないのはさすがですね」
いくら物忘れが激しい私でも、目的までは忘れない。
うっかりでチャンスを逃すようなこともない――と思いたい。
「聞いたからといって、どうにもならなさそうじゃがのう」
それは仕方がない。
召喚術のことは分からないし、人には向き不向きが――神でもできることとできないことがあるのだ。
それはアナスタシアさんの前の? 神とやらが証明している。
「きっと、ユノさんならばーんって解決しちゃいます!」
うん、リリーの絶大な信頼には心が痛い。
「まあ、行き詰ってるのは理屈的なところじゃなくて、言ってみれば、あんたの理不尽さに似ている感じだから。――そうね、例えば、あんたに上手く魔法を掛けるコツみたいな、理屈じゃないところだから」
『ユノに魔法? うーん、出力が足りないだけとか?』
「そう言われても、一応種子の力を使ってるのよ? それは考えにくいかなあ」
「気合かな?」
「あんたに訊いた私が莫迦だったわ……」
失礼な。大体のことは気合――意志の力で何とかなるはずなのに。
「いや、気合というものは案外莫迦にできん。過去、何人の勇者が、絶体絶命の危機をそれで乗り切ったか――。ユノ様のお美しさやお力と同様、俺たちには理解できなくても、確かにそれはあるのだ。つまり、信じていれば、いつかは俺の愛もユノ様に届くのだ!」
最後の方は何を言っているのかよく分からなかったけれど、アーサーは時々良いことを言う。
本当に時々だけれど。
というか、愛って何だろう?
一般的には愛の形は人それぞれとか、まるで魂みたいなことをよく聞くけれど、愛の形が見える人がこの世界にはいるのだろうか?
ああでも、愛も魂と同じようなものだと仮定すれば、無理に他人に合わせる必要はないのだろうか。
いや、愛は与えるものともいうし、押しつけがましくない程度に与えて、相手からの愛は無理のない程度に受け取ればいいのか?
ということは、アーサーの愛は――愛?
性欲?
うーん、分からない。
当分は保留かな。
『まあ、アルフォンスの依頼はアイリスの主導で、結界の状態については、誰か分かる人に判断してもらうよ。アナスタシアの方は、結界さえ平気なら、当面は現状維持でもいいんでしょ?』
「そうね。本当は自分の目で確かめたいんだけど、私が近づいちゃうと、切り離した神格に影響が出るかもしれないしね」
『だったら、ボクらの役目は、アイリスとルナって子の身の安全の保障だけで、その選抜の行方には関与しないってことでいいんだよね』
うん?
ルナって人はそうだけれど、基本的にアイリスの身の安全は保障外だよ?
アイリスの意思でやることだし、彼女もそれを分かっていると思うけれど。
ないとは思うけれど、私が原因でアイリスがピンチになったとかなら話は別だけれど。
「当面は、一定期間内に一定の成果が出なけりゃ諦めるって話になってるからな。中途半端に成果を出されると困るけど、最初の区切りは半年――ちょっと長いけど、こっちもできる限りサポートするから頼むよ」
「まあ、行ってみないと分からないこともあるけど、それくらいなら何とかなるんじゃないかな」
油断しているつもりはないけれど、数年前のアルでもどうにかなったこと。
多少難度が上がっていたとしても、ボディーガードだけなら余裕ではないだろうか。
とにかく、魔界への出発は満月の夜――今日の夜だ。
現在の魔界のことを最も知っているアルが、ヤマト出張の準備や他にもいろいろとあって忙しく、今になるまでほとんど情報は入ってこなかった。
その代わりに、アナスタシアさんが魔界の成り立ちとか悪魔族についていろいろと教えてくれたのだけれど、そんなものに興味は無いので、ほとんど聞いていなかった。
けれど、朔が聞いていて覚えているはずだから大丈夫。
ああ、でも、ハエの大魔王ダミアンさんが悪魔族だったことには少し驚いた。
てっきりハエと一緒に《転移》して、合体事故が起きたのかと思っていた。
大昔にそんな映画があったせいか、そのイメージが強い。
グロかったので、最後まで見られなかったけれど。
宇宙人だろうが幽霊だろうが、殴れば木端微塵にできる自信はあるけれど、ゾンビとかスプラッターなのは本気で駄目だ。
ついでに虫も駄目。
幽霊を殴ってもいろいろ飛び散らないと思うし――宇宙人は何だか固そうなイメージだし、きっと大丈夫だと思う。
しかし、グチャグチャウネウネしているのを触るとか本気で無理。
道具を使っても、それがあちこちに飛び散るとか、想像しただけで死にそうになる。
散らかしたら、片付けなければいけないのだ。
片付けられないなら、散らかすなということになる。
超強い火炎放射器的な物があればいいのかもしれないけれど、この世界の虫はかなりヤバいので、普通の火炎放射器では火力不足だ。
それはもう試した後なのだ。
火のついた虫が走り回るとか飛び回るとか、動きに激しさが増すし、臭いもプラスされて、かなりヤバいことになる。
やはり、早急な火系統の魔法の開発が急がれる。
肉も焼けるようになるし。




