48 壁がない
カイルは宮殿に来て5日目。
おじい様に執務室に呼ばれた。
執務室に入ると大きなテーブルに建物の設計図が置かれていた。
「これを見てごらん。これカイルの新しい住まいだ」
カイルが見ると屋敷の設計図があった。
その横には屋敷全部の見取り図があった。
そこには建物だけでなく、庭園も全て作り替えられている図案だった。もちろんあの牢屋のあった場所には噴水のある庭に変えられている。
「・・・この建物も壊すのですか?」
カイルが震える手で指した場所はあの牢屋の建物だ。
「ああ、あれはカイルが苦しんだ場所だ。もう既に取り壊しているだろう」
イサベルト陛下の言葉にカイルは足元から暗闇に落ちるような錯覚になった。
「既にない・・?」
「おじい様、今すぐこの建物を見に行かなければなりません。馬車か馬を貸して下さい」
カイルのただならぬ様子にイサベルト陛下は、急いで侍従を呼び馬車の手配をしてくれた。
そして、元ポールの屋敷に到着したカイルは大急ぎで牢屋に向かった。
しかし、そこには既に壊されて何も残っていなかった。
地下にあったあの独房も掘り起こされて見る影もなかった。
近くで作業をしていた男にカイルが鬼気迫る顔でしがみつく。
「この地下にあった独房の壁はどこにありますか?」
作業員は驚いていたがカイルの必死さに丁寧に答えてくれた。
「あぁ、ここの独房はとにかく形を残すなと言われて掘り起こしてまでバラバラにしたよ。何でも酷い目にあった人がここで辛い事を思い出さないようって事らしいんだ」
カイルは残骸の前で膝から崩れ落ちた。
もう壁は小さくバラバラにされて、どこにも存在しなかった。
どのくらい時間が経ったのかわからないが、ふらっと立ち上がった。カイルはあちらこちらで解体作業が始まった敷地内をどう帰ったのか、気がつけば馬車に乗っていた。
夕食を共に食べようと陛下に誘われたカイルは、空元気を振り絞り陛下の前では笑顔でディナーを食べた。
しかし、部屋に帰ってからは声を出さずに泣いた。
こんなに急に別れがくるなんて思いもしなかった。
なぜ、あの時行かなかったのか。何度も行く機会はあったのに・・・悔やんでも悔やみ切れなかった。
次の日の朝食は陛下が用事で一緒に食事が出来なくて申し訳ないという伝言が伝えられえて、カイルはホッとした。
目が充血して、一目で泣き腫らしたものだとわかるからだ。
侍女に冷たい水を持ってきてもらって目を冷やしたが、なかなか治らなかった。
その朝にリリオが訪ねて来た。
「カイル様・・もうご存じとは思いますが、春木家に通じる壁が取り壊されました」
リリオはカイルの目の腫れと充血で、既に知っている事を悟った。
カイルが取り乱すのではないかと心配していたが、もうカイルは落ち着いていた。
「知っています。こんな事になるなら、あの壁だけでも保存してくれるように陛下に頼んでおくんだった。今さらだけど・・・」
俯いたカイルが泣いているのではと、ハンカチを差し出したが、カイルは辛そうにしていたが、泣いてはいなかった。
リリオにとっても春木家は特別で、かなりショックを受けていた。
自分がこうなのだから、カイルの悲しみはいかばかりだろうと推し量る。
「まだ望みは捨てていないんだ。昨日作業をしている人に、独房の瓦礫は置いておくように伝えた。だから、少しずつあの壁を組み立てて見ようと思っているんです」
リリオは山と積まれた瓦礫を見ているだけに、それは無理だろうと思った。だが、その希望だけでカイルが今元気なら、希望を否定出来ないと賛成した。
宮殿内での生活も慣れて、一週間が経つと、学校に行く事も陛下に許してもらえた。
生徒の殆どが第2王子が実の息子カイルにどんな虐待をしていたのか、新聞で取り上げられてあっという間に広がった。カイルが一般寮に入れられていた事実もあり、一気に庶民に拡散した。元々カイルが自転車で市民の皆と触れあっていたこともあり、カイルは悲運の王子として人気が高まった。
久しぶりの学校に、3年生の先輩もクラスメートもトレスも喜んでくれた。中でも一番喜んでくれたのが、ロペスだった。
カイルを助けた為に、彼の母親がどうなったのかカイルも、ロペスも知っていた。だが、ロペスはカイルに変わらない態度で接した。
カイルには変わらない日常が訪れた。寮は陛下に頼んでそのまま一般寮で過ごした。ここでは変わらない生活だった。だが、寮に泊まらない時、夕方家に帰る時間帯になると、涙が出そうになった。
馬車が元いた所を通りすぎて、宮殿に帰るからだ。
夜カイルは一人、自室の壁に手を当てて、この白い壁の向こうに蘭の部屋が見えないかと念じた。
しかし、何度やっても壁は壁だった。そのうち諦めてしまった。
こうして、蘭にも葵にも百合にもアイラにも会えず、春が来てカイルは中等部の2年生になった。
宮殿での生活にも慣れ陛下と食事をしたり、ゆっくりしていると夏が過ぎた。そして秋が深まった頃、旧ポールの屋敷の跡地にカイルの新しい屋敷が完成した。
カイルは陛下と宮殿で一年弱暮らしたが、屋敷が完成した後はそこで暮らさなければならない。
「カイルや。かわいいお前と一緒に暮らせて楽しかった。しかし、ここで長く暮らしていると邪推する者が出てくる。皇太子のアダンを廃嫡してカイルを皇太子にしようとしていると噂する者が出てくるのだ。今まではカイルの屋敷が完成するまでと世間でも認知されているが、完成してしまっては言い訳が出来ない。それに、もし私が死んでしまえばここで生活してるのは危険だ。お前には沢山の護衛騎士を用意したから、それもつれていくのだよ」
陛下は名残惜しそうに、何度も何度もカイルの手を擦った。
「建設途中の建物が壊れないかなって何度も思っていました。そしたら、おじい様とずっとここで暮らせるのにって・・・」
心の通った肉親と暮らしたのはこれが母と暮らして以来だった。
カイルにとって、この一年弱の暮らしは春木家と同じくらい暖かな気持ちで生活出来た。
また、一人の生活が始まると思うと悲しかったが、おじい様を心配させたくないと頑張って微笑んだ。・・・つもりだったが涙が溢れた。
「また、会いに来ます」
「うむうむ、そうしておくれ。今お前がどんな事をしているのか聞くのが一番の楽しみなのだよ。また顔を見せに来ておくれ」
こうして、カイルは新しい屋敷に住むために宮殿を去った。
新しい屋敷は至る所に青い蘭の模様が描かれていた。建物の一部にとお願いをしていたが、建物以外にも、敷地を囲んだ鋳物のフェンスに青い蘭の模様が飾りで入っていた。それでブルーオーキッド邸と呼ばれる事になる。
もちろんカイルが葵と蘭の模様を屋敷の一部に描いて欲しいとお願いしたのだが、こちらの世界に『葵』がなかったので、青い蘭にしたのだった。
カイルが屋敷に入ると、沢山の使用人と侍女がいた。
その中に一際目立つイケメンが出迎えてくれた。
イサベルト陛下に秘書として長年仕えている人の息子で、名前はクロフォード・ラ・シグロン、35歳。顎髭にオールバックのちょい悪系の眼光鋭い男性だ。
陛下が屋敷の管理等をカイルに少しずつ教えてやって欲しいと頼み込んだ逸材だ。
「お帰りなさいませ、カイル様」
イケオジに挨拶をされて驚くが、おじい様がわざわざ自分の為に頼んでくれた優秀な人物に、がっかりさせられないとカイルも優雅に挨拶をした。
「今日からお世話になります。まだまだ未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします」
クロフォードは目を瞪った。
(この子はあの皇族の一族の中でも、全く違う方だ。父が私に『大事にお育てするのだ』と言わすだけの人徳と貫禄をすでにお持ちだ)
クロフォードはこれならば、父に言われずとも大事に真っ直ぐにお育てしようと心内で誓った。
クロフォードに新しい屋敷の部屋の案内をしてもらった。
食堂、謁見の間、図書室、色々案内された後でカイルの部屋に着いた。
先ずはカイルの執務室、カイルの浴室、そしてカイルの部屋にはいった。
ベージュが基調の部屋に薄い水色に金の縁取りで青い蘭の模様が刺繍されているカーテンが落ち着いた雰囲気を出していた。
奥の部屋にはキングサイズの天蓋付きベッドが置かれていた。
「今日はお部屋の中もお確かめになりたいでしょう。それにお疲れのご様子なので、まずはお寛ぎ下さい。後程お茶をご用意させましょう」
クロフォードはカイルの顔が沈んだのを見過ごさなかった。
カイルはクロフォードの気遣いが有り難かった。今日からおじい様もいない、もちろん蘭も葵も百合もいない。ここでたった一人だと思うと、少し心細くなったのだ。
寂しがってばかりはいられないと、大きなキングサイズのベッドにダイブした。
「ふかふかだぁ」
すぐに起き上がり、窓の外を見る。庭園も以前とは全く変わっていた。しかし、庭園で懐かしい人が見えた。庭師のオリバーとその相方だ。それだけでカイルは嬉しくなった。
ここで初めての夜の食事をして、初めての入浴、そして、寝る時間になった。
ベッドに腰かけて壁を見ていた。結局、独房の壁を作り直そうと頑張ったが全く元通りにはならなかった。
(必死で集めて頑張ったのになぁ)
大きなベージュの壁に月明かりが当たって眩しく感じた。
(何だか透けて見えるような・・・)
月の光のせいだろうか?と目を凝らす。
『・・ほら、やっぱりカイルだよ』
『部屋が凄すぎない?』
『行っちゃえばいいじゃん』
『違う人の家だったらどうするのよ』
カイルは壁から懐かしい声が聞こえてくるが、幻聴なのか本物なのかが分からない。
今までも何度も蘭の幻聴が聞こえたせいで、今聞こえているこれも寂しさから聞こえるものだと思っていた。
(でも、こんなにはっきりと幻聴って聞こえるのか?)
カイルはベージュの壁を撫でる。
にゅっ
カイルの腕が捕まれた。
「ほら、やっぱりカイルだぁ」
その言葉と共に壁から出てきたのは蘭だった。