第八話 修業編④
一歩、踏み出した瞬間だった。
アンナの足元から、空間そのものが沈む。
「……っ!?」
重い。
いや、重いというより――
世界が拒否してくる。
進もうとすると、見えない壁が身体にまとわりつく。
空気が水のように粘り、筋肉の動きが遅れる。
(……近づくだけで……こんな……)
それでも、アンナは歯を食いしばった。
「……っ……!」
剣を支えに、半歩。
また半歩。
エイドは目を閉じたまま、動かない。
「……どうした、勇者」
「……まだ……行けます……!」
足が震える。
呼吸が乱れる。
視界の端が歪む。
(……さっきと……違う……)
攻撃は来ていない。
なのに、身体が“危険”だと叫んでいる。
――まるで、
巨大な獣の喉元に、自分から入っていくような感覚。
「……っ、ぁ……!」
アンナは片膝をついた。
「……動け……動け……!」
その瞬間。
エイドが、ゆっくり目を開けた。
「……今の感じ、覚えろ」
「……っ……!」
空気が、戻る。
重圧が消え、アンナは前につんのめる。
「……はぁ……はぁ……!」
「今のが“神の領域”だ」
「……」
「魔王もな、あれに近い」
アンナの指が、地面を掴む。
「……近づくだけで……殺される……」
「正解」
エイドは歩み寄る。
「だから、普通の剣じゃ届かない」
「……」
「“技”じゃない」
「……?」
「“在り方”を変える」
アンナは顔を上げる。
「……在り方……」
「そう」
エイドは、アンナの額に指を当てる。
「お前、今“勇者”として立ってるだろ」
「……はい……」
「それが重い」
「……っ」
「期待」
「……」
「責任」
「……」
「使命」
「……」
アンナの表情が、揺れる。
「……全部……背負って……きました……」
「だろうな」
エイドは指を離す。
「だから、魔王の前で潰れる」
「……」
「勇者をやめろ」
「……え……?」
アンナの目が見開かれる。
「……勇者を……やめろ……?」
「今だけな」
エイドは肩をすくめる。
「今のお前は、“役割”で動いてる」
「……」
「それが“起こり”になる」
アンナは唇を噛む。
「……では……何として……動けば……」
「“歯車”として動け」
「……歯車?」
「敵を倒すな」
「……」
「生き延びろ」
アンナは目を閉じる。
(……魔王を、倒す。そして守る世界を……)
それらを、振り払う。
――ただ、生きる。
目を開ける。
「……もう一度……お願いします……」
「いいね」
エイドは、再び目を閉じる。
「次はな」
「……」
「俺は動く」
「……っ」
空気が、軋む。
アンナの背筋が凍る。
(……来る……)
だが、
剣を構えない。
踏み込まない。
“感じる”。
世界が、ほんのわずか、歪む。
(……そこ……)
アンナは、滑るように横へ動いた。
直後、
彼女のいた場所が、消えた。
「……っ……!」
間髪入れず、もう一度。
アンナは、前へ出る。
エイドの“気配”が、そこにある。
(……今……!)
剣を持ったまま、
そのまま手を伸ばす。
――指先が、
エイドの服の裾に、触れた。
「……」
沈黙。
エイドが、目を開ける。
「……へぇ」
アンナは、その場に崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……」
「今の」
エイドは、少しだけ笑った。
「“神に触れた”な」
アンナは、息を荒くしながら言う。
「……生き延びる……だけ……考えたら……」
「うん」
「……世界が……遠くなりました……」
「それでいい」
エイドは空を見上げる。
「今のお前は、“勇者”じゃない」
「……」
「“刃”だ」
アンナは、剣を見る。
「……刃……」
「振るわれる前のな」
風が吹く。
木々が揺れる。
ロッドが、唾を飲み込む音が聞こえた。
「……アンナ……今……」
「……」
「空間を……踏んでました……」
アンナは、ぽつりと言う。
「……私……」
「ん?」
「……少しだけ……魔王に……近づけましたか……?」
エイドは、頷いた。
「うん」
「……」
「でもな」
エイドは、ニヤッと笑う。
「ここからが本番だ」
アンナの肩が、びくっと跳ねた。
「……え……」
「今のは“入口”」
指を鳴らす。
「明日から、重力十倍な」
「……っ!?」
ロッドが叫ぶ。
「エイド様!?」
「慣れろ」
エイドは平然と言う。
「魔王は、そのくらい重い」
アンナは、乾いた笑いを漏らした。
「……神様って……容赦ないですね……」
エイドは肩をすくめながら言う
「誰が、神は慈悲深いって言ったんだ?」
夕日が、森を赤く染める。
こうして――勇者が“勇者であること”を捨てる修行が、
本格的に始まった。




