第11話「絆」
カーテンの隙間から街灯の白い光が差し込み、畳んだままの布団の端を冷たく照らしていた。
怜花が消えてから、部屋の空気はずっと重い。裕也はパイプ椅子に腰を落とし、両手で顔を覆ったまま動けずにいた。助け出せなかった無力感と焦燥だけが、胃の奥で鈍く渦を巻いている。
玄関のドアが小さく開き、足音が畳を踏んで近づいてきた。
「……裕也くん」
神楽桃華だった。両手で小さなトレイを持ち、湯気の立つマグカップを運んでくる。甘いココアの匂いが、澱んだ部屋の空気に混ざった。
「何も食べてないんでしょ? 裕也くんの好きなココア、淹れてきた。少しだけでも飲んで、落ち着いて」
「……桃華」
顔を上げた裕也の前に、桃華は迷いなく膝をついた。カップを机の端へ滑らせると、そのまま裕也の冷えきった両手を自分の手のひらで包み込む。
「手が冷たい」
「……俺のせいだ。怜花が行方不明になったのも、全部……」
「ううん、裕也くんだけのせいじゃない。誰よりも怜花ちゃんのことを心配してるのは他でもない裕也くんだもん。私、ちゃんと見てるよ」
桃華は裕也の手を引き寄せ、自分の胸元に押し当てた。柔らかいニットの向こうから、確かな肉の弾力と、トクトクと速い鼓動が手のひらに直に伝わってくる。
「っ……桃華!?」
「いいの。……こうしてれば、あったまるよ」
手を引こうとする裕也の指を逃がさず、桃華はさらに両手で上から押さえつけた。顔が近くなり、濡れた瞳が真っ直ぐに裕也の視線を見つめ返す。
「ほら、私はこれからもずっと裕也くんのそばにいるから。何でも一人で抱え込まないで、私に話して。ね? 怜花ちゃんの捜索は警察や事務所に任せよう。裕也くんが倒れちゃったら、怜花ちゃんだって悲しむよ」
耳元をかすめる吐息と、手のひらから伝わる熱。冷えきった頭の芯に、桃華の体温がじわじわと染み込んでいく。裕也が力なく頷くと、桃華は満足そうに微笑み、立ち上がって部屋の片付けを始めた。
脱ぎ捨てられていた裕也の上着を手際よく畳み、机の上に散らばっていた自主映画の企画書や、怜花の手書きのセリフ合わせメモを「邪魔だからまとめとくね」と引き出しの奥へ滑り込ませる。空いた机の角には、桃華が持参した柑橘系のハンドクリームと花柄のヘアゴムが、ごく自然に置かれた。
◇
その頃、スタジオの控え室では、鳴り響いた着信音をきっかけに別の嵐が巻き起こっていた。
「えっ……あっ、はい。怜花さんが……えええええっ!? ちょっ、ちょっと待ってください!!」
スマートフォンを耳に当てたレンが、素っ頓狂な悲鳴を上げて跳び上がった。そのただならぬ取り乱しように、傍らでパイプ椅子に深く腰掛けていたゆめが眉を寄せる。
「どうした、レン。誰からや?」
「桃華さんから……!」
「桃華がどうしたって?」
「それが……今日から裕也さんのところに泊まり込みで、身の回りの世話をするんですって!」
「なぁにぃいいいっ!? あのヤロー!!」
ゆめが弾かれたように立ち上がり、控え室の長机をバンと叩いた。怜花が行方不明になって皆が大騒ぎし、裕也が落ち込んでいるこの機に乗じるような桃華の行動に、レンも信じられないといった面持ちで受話口を見つめている。
そんな二人の剣幕を、メイク道具を片付けていた花梨が涼やかな目で眺め、小さくため息をついた。
「いいの? ゆめにレン。このままじゃ桃華さんに裕也くん、取られちゃうよ?」
「そっ、それは……」
「う~~~~っ!」
言葉に詰まるレンと、悔しそうに唸るゆめを見やり、花梨はさらに釘を刺すように畳みかける。
「ここで何もしなかったら、たぶん一生後悔するよ」
「いいわけないだろ! でもよぉ……」
「だってゆめ、あなた何かあるたびに口を揃えて言ってるじゃない。『あの時の裕也くんは本当にカッコ良かった、私の運命の王子様みたいだった!』ってさ」
「わーーーーっ! わーーーーっ! 花梨、てめえ、余計なことバラすな!!」
真っ赤になって耳を塞ぐゆめを、レンは「ゆめらしからぬ乙女思考……」と唖然とした目で見つめた。だが、追いつめられたゆめがすぐさま矛先をレンへと向ける。
「レン! そういうお前だって、高校受験のときに勉強見てもらって、芸能界への橋渡しまでしてくれた裕也に骨抜き状態じゃねえか!」
「わーーーーっ! わーーーーっ! ゆめ、なんてこと言うのよ!!」
今度はレンが真っ赤になり、控え室に甲高い悲鳴が重なった。二人の取り乱しように苦笑しながら、花梨が優しく肩をすくめる。
「レンちゃん」
「はっ……花梨……」
「ここにはあたしたちが待機してるから、二人とも行っておいでよ」
「花梨……」
「そうだな! せっかくあいつと同じステージに立てたんだからな!」
ゆめが勢いよく拳を握り締め、レンの背中をバシッと叩いた。
「行こうぜ、レン! 桃華だって堂々と抜け出してるんだ。あたしらが抜けたって、とやかく言われる筋合いはねえだろ!」
「……うん、そうだね」
怜花さんには申し訳ないけれど――とレンは胸の中で呟く。ようやく巡ってきたチャンスなのだ。
「ああ、そういうことだ! 野郎ども、留守中のことは任せたぜ!」
「「「おうっ!」」」
「みんなも頼んだわよ!」
「は~い、レン、頑張ってくださいね~」
控え室に残るスタッフたちの威勢のいい返事を背に、ゆめが足早に出口へ向かう。
「レン、行くぞ!」
「うん! まずは裕也さんの好きなものをがっつり買い込んで、堂々と乗り込んでお世話しよう!」
「桃華なんかに負けてらんねえからな!」
(裕也さん、あのときの恩返しをする時が来ました……♡ このレンが今すぐおそばに駆けつけます。もう私の魅力から抜け出せないように骨の髄まであたし色に染め上げて差し上げます……待っていてくださいね♡)
鼻息を荒くして先を急ぐゆめの横で、レンは桃色の妄想に意識を飛ばし、うっとりと頬を染めていた。
「……おいっ! おい、レン!」
「はっ!?」
「また意識がトリップしてたぞ! ほら、急ぐぞ!」
「あ……うんっ!」
裕也さん、待っていて――。二人は互いに闘志を燃やしながら、夜の街へと駆け出していった。
◇
遮光カーテンで昼も夜も塞がれた黒崎の寝室には、濃い脂のような匂いがこもっていた。
怜花が行方不明になってから何日経ったのか、もう時間の感覚すら曖昧だった。
自分の部屋から持ち去られた衣服――裕也と過ごすときに着ていたシャツやジャージは、目の前で無造作にゴミ袋へ突っ込まれた。
「やめて……っ! それは……!」
怜花が悲鳴を上げたのは、高校時代に裕也とお揃いで買った、塗装の剥げかけた真鍮のキーホルダーを黒崎が指先でぶら下げたときだった。
黒崎は嘲笑うように怜花の目の前にそれをかざすと、太い指を緩め、ゴミ箱の底へ無造作に落とした。カランと乾いた音が響く。自分がどこから来たのかを証明する錨が、目の前で容赦なく断ち切られていく。
代わりに床へ放り出されたのは、冷たい黒銀の光を放つ、漆黒の儀礼用ドレスだった。
「嫌……っ! こんなの、着るわけないでしょ……!」
必死に払いのけようとしたが、黒崎は細い手首を圧倒的な重圧でねじ上げ、畳みかけるように自由を奪った。
艶のあった黒髪には澱んだ気配が擦り込まれ、重たい束になって鎖骨を濡らしている。鏡の前に引きずり出されると、目元には冷酷な影が引かれ、無防備だった唇には異質な気配が厚く塗られていた。そこに映っているのは、舞台で歌っていた歌手兼女優の星崎怜花ではなく、男の歪んだ支配に合わせた調度品のような姿だった。
そして喉元には、黒い金属の輪が皮膚に食い込むほどぴったりと噛みついている。
黒崎が舞から受け取った【超高性能プロテクトチョーカー】だった。
本来、上位個体である怜花に対し、黒崎や氷室が持っている能力ではほんの一時的な足止めしか通用しない。だが、舞から渡されたこの器具だけは別だった。怜花自身の力では触れることすら拒絶される金属輪は、首の後ろから延髄へ絶え間なく微弱なパルスを送り込み、彼女の強固な精神を防壁の根元から麻痺させていた。
それどころか、過酷な環境から生命を護ろうとするニューマン特有の適応本能を逆手に取り、首輪は「黒崎からの支配と絶対の命令を受け入れることこそが生存の最適解である」と怜花の生体に誤認させていく。
何日目の夜だったかも曖昧だった。
はじめは喉が裂けるほど拒み、助けを呼んで泣き叫んでいたはずなのに、首輪からじくじくと送り込まれる痺れが、怜花の感覚を根元から掻き乱していく。重たい気配に包み込まれ、冷酷な言葉を浴びせられるたび、頭の芯が白く抜けていく。
「やめて……っ、触らないで……裕也、助けて……っ!」
喉を引き裂くような叫びも、夜を重ねるごとに掠れていった。
逃げようと身をよじるほどに、首輪の青い極小ランプが脈拍と連動して点滅を速め、感覚神経の感度を暴力的に跳ね上げていく。痛みを逃がすために、怜花は無意識のうちに強張りを解き、男の接触を受け入れ始めてしまっていた。
「あ……っ、もう、すきに……っ」
圧倒的な支配の前に崩れかけた唇から、掠れた息がこぼれた。それを合図のように、黒崎の手が容赦なく精神の領域をスッと這い回る。拒む力はとっくに底をつき、異質な気配をなぞられるたび、喉の奥からせり上がってくるのは、自分でも信じられないほど甘ったるい声だった。
「あぁっ……♡ んふぅ……っ、黒崎、さまぁっ……♡」
助けを呼ぶ言葉などもう思い出せない。頭では拒絶しているはずなのに、首輪が神経を書き換えるたび、生体は男の気配を吸い寄せようとする。拒んでいたはずの男の存在に自らの意識を深く委ね、もっと奥まで蝕んでほしいとねだるように、蕩けた声を漏らしていた。
身につけた薄いネグリジェは、自身のプライドを隠す体をなしていない。
ベッドサイドの毛足の長い絨毯に膝をついた怜花は、首元のチョーカーを静かに明滅させ、太腿の上に置いた両手を小刻みに震わせていた。神経を駆け巡る支配の余韻で指先がうまく動かず、荒い息を吐きながら黒崎の足元を見つめる。突き出された男の手を、もう自分から拒むことはできなかった。
◇
翌朝。
陽が差すスタジオへの道で、桃華は裕也の左腕にぴったりと体を寄せて歩いていた。ニット越しに胸の柔らかい感触が腕に押しつけられ、裕也は所在なげに視線をさまよわせる。
「桃華、ちょっと近すぎないか……?」
「ううん、これでいいの。昨日の約束、忘れたの? 私が裕也くんを支えるって言ったでしょ」
屈託なく笑いながらも、腕を抱え込む力は抜かない。
その日の夜。
裕也の部屋のチャイムが鳴り、ドアを開けると、大きなボストンバッグを足元に置いた桃華が立っていた。
「桃華……その荷物、どうしたんだ?」
「これ? 私の着替えと、身の回りのもの」
当然のような顔で靴を脱ぎ、部屋へ上がってきた桃華は、机の上にドンとバッグ a を置くと、首をかしげて微笑んだ。
「裕也くん、一人だとご飯も食べないし、また無茶するでしょ? だから、今日から私、ここで裕也くんの面倒見ることにしたから」
「えっ、スタッフのみんなと合宿するんじゃ?」
「裕也くんがこんな状態なのに、そんなこと言ってらんないよ」
桃華はスマートフォンの画面をタップし、耳に当てた。
「あ、監督? すみません、神楽です。裕也くんの体調が思わしくなくて……はい、放っておけないので、私、こちらで付き添いに残ります。合宿は私の分は欠席で進めてください。すみません」
一方的に通話を切り、桃華は満足そうに息をつく。
「えっ……ま、待てよ、同棲なんて……!」
「同棲だなんて、そんな大げさなことじゃないよ。ただ……裕也くんの隣に、私がいたいだけ」
「いっいや、しかし……」
「えーい、問答無用♡」
驚いて言葉を詰まらせる裕也の胸へばふっと飛び込み、桃華は腕を背中に回して寄り添った。
荷物を解き始めた桃華は、持参した花柄の枕を、裕也の敷きっぱなしの布団の横へ迷うことなく並べて置く。
日常のすべてが、逃げ場のない速さで桃華の体温に塗り替えられていた。
(第11話「絆」おわり / 第12話へ続く)
アングラサスのサブリーダーの立花 花梨が歌う、らいだ~くの挿入歌です
『Next Door, Last Floor』
架空アニメ 「らいだ~く」 挿入歌
歌:立花 花梨 & アングラサス
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