1話 幸せな新生活
薄手のカーテンから漏れた光が顔に当たって、気持ちよく目が覚める。壁にかかっている時計に目をやると、起きる時間よりも少し早かった。
窓の位置が生まれ育ったアンワースの実家でもなく、慣れ親しんだジャックとオリーブ亭の自室でもないので、自分が今どこにいるのか一瞬分からなくなるけれど、すぐに最近新しい家に引っ越したことを思い出す。
そして隣に目を向けたら幼馴染……ではなくて。最近夫になったランスロートが穏やかな顔で、規則正しくゆっくりと胸を上下させて寝ている。
ここはランスロートと散歩の途中に見つけた、下町の外れにある一軒家だ。
一時期大家族で暮らしていたというこの家は、増築や改装を繰り返したらしくて二人で住むには大きすぎるくらいだ。
特に一番大きな部屋である二階の主寝室には、大人二人が悠々と寝ることができるベッドが置いてある。
もう引っ越してから半月も経つのに、未だに慣れなかった。
「う……ん……」
隣に眠るランスロートの声に、起こしてしまったかと焦るけれど、どうやらまだ寝ているみたいだった。
まだ起きる時間まで少しあるので、少しの間ランスロートの寝顔を眺めることに決めた。
――本当に、大きくなったなー。
寝顔をゆっくり見つめるなんて、そういえば小さな子どもの頃以来だ。いつもはランスロートのほうが先に起きてしまうので。
――まつ毛は長いままね。
小さい頃は、ランスロートは小さい顔に対して目がとっても大きくて、まつ毛も長く感じたものだ。大人になって顔が大きくなっても、羨ましいくらい長いまつ毛は変わりがない。
柔らかくてフワフワだった頬っぺたはどこかへいってしまって、代わりに精悍な輪郭になっている。フワフワ頬っぺがなくなってちょっと残念なような気と、格好良く成長してなんだか頼もしいような、くすぐったい気分だ。
ふとその頬を触ってみたくなり、起こさないようにそーっとランスロートの頬に手を伸ばしてみる。
しかし手が頬に届く前に、逆にランスロートの手に捕まってしまった。
「……さっきからなにをしているんだ、ニーナ」
「ランスロート⁉ お、起きてたの。いつから……」
今起きたにしてははっきりした発音の言葉に、ランスロートが既に起きていたことを悟る。
「ニーナが起きる前から」
「えっ、そんなに前から?」
捕まえた私の手をそのまま自分の頬に当てたランスロートは、とろけるような優しい瞳で見つめてくる。もしかしたら先ほどまで、私もこんな顔をしてランスロートの寝顔を眺めていたのかもしれない。
「ああ。先に起きてニーナの寝顔を見てた」
その言葉に、顔に熱が集まって頬が真っ赤に染まるのが分かる。寝顔をジロジロ見られていただなんて恥ずかしくて文句を言いたいところけれど、たった今自分もランスロートが寝ていると思って見ていたのだからなにも言えない。
「朝起きたらニーナが隣にいるなんて、まだ夢みたいだ」
そう言って嬉しそうにギューッと広い胸に抱きしめられて、朝からドキドキしてしまう。
素直になると決めたというランスロートは、本当に真っ直ぐに好意を伝えてくれるので、こちらのほうが照れてしまう。
――このままだと、起きたくなくなってしまうわ!
「そ、そろそろ朝食の準備をしてくるね!」
いつも起きる時間よりもまだちょっと早いけれど、慌ててベッドを抜け出したのだった。
朝食を食べ終わった頃、どこからともなく犬が近寄ってくる。一見どこにでもいそうな、外見は狼に近いような犬種のその犬は、実はコルベ王国のフェンリルの守護聖獣様が変身した姿だった。
『散歩に行くぞ。連れていけ』
「あ、おはようございます、守護聖獣様」
『フェンと呼べと言っているだろう』
「そうでした」
このどこにでもいそうな犬が、実はコルベ王国の守護聖獣であることは、私たち二人以外は誰も知らない。新居で飼い始めたただの犬の『フェン』ということにしている。フェンリルのフェン……単純だけど、まさか正体に気が付く者はいないだろう。
「……いつでもどこでも自由に行けるのに、散歩なんていらないんじゃないのか?」
『犬を飼っているのに全く散歩に行かないのはおかしいだろう。怪しいと正体を疑われるぞ?』
ジャックとオリーブ亭にいる時に育てていた薬草園の薬草を食べに来ていた守護聖獣のフェンリル。最初は王様付きの聖者による洗脳状態を解くために薬草を食べていたけれど、今ではすっかり健康にみえる。
しかし本人曰く、長年に亘って少しずつ溜まったダメージが、まだ残っているらしい。
そうして新居にまで押しかけてきた訳だけど、食べたいときに薬草だけ食べにきたらいいものを、なぜだかわざわざ犬の姿にまでなって、コルベ王国を守護する契約を結びなおしてくれてから、なぜかこの家に棲みついている。
といっても常にいるわけではない。自由気ままに色々な場所へ行っているようだし、どうやら聖獣が暮らすこの世とは少し違う空間にもいつでも行けるようだ。
だけど気が付けば、家のソファーで寛いでいたりするのだった。
フェンがどこからか自分で用意したリードを付けて、まだ肌寒い朝の空気の中へと、三人で散歩に繰り出す。
フェンはまだ朝早く、人の少ない下町の通りを気兼ねなく歩くのが好きなようだった。そして帰りは下町から少し外れて、川沿いの道を通って帰るのがお決まりのコースだ。
私も朝早くのお散歩は大好きだった。ジャックとオリーブ亭で、おばあと早朝の少し冷えた空気の中、掃除をしたことを思い出す。
今日もどこかから漂ってくる、甘い花の香りや、朝早くから妬いているパンの匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、貸しきりの下町を歩いていく。
「ランスロートは今日もドレスディアのお屋敷のほうへ行くの?」
「ああ。すっかり王都での仕事を押し付けられてしまった。なぜか以前よりもどんどんやることが増えていく」
ドレスディア家の直系は通常、領地から動かない。社交シーズンにも王都へ行って議会に出席したり、パーティーやお茶会へ行くなどの社交もしない。国防のためだ。他の貴族からも、ドレスディア家はそういうものだと思われていた。
しかし王都にずっと住んでいるとなると、そうもいかないものらしい。
「俺がこれほど日中いないと、新しい家にはアレフもいないし、聖者が護衛もなく無防備でいるのは危ないな。治療院には色んな人が出入りする。……やはり護衛を屋敷から派遣するか」
「大丈夫だよ。治療院が開いている時間はケンリックさんも来るし。それにドレスディア家から手伝いに来てくれる人も。あとフェンもいる!」
『例え目の前でなにか問題が起きても、私は助けないぞ』
「えっ、そうなんですか⁉」
なにせ守護聖獣が家にいるのだから、なにがあっても安心な気がしていたけれど、目の前で問題が起きてもなにもしないと言われて少し驚いてしまう。
『当然だ。守護聖獣が、誰か個人に肩入れして、力を貸すことはない。国民の中でこいつは特別に守る、こいつは守らない、なんてことをしていては、国が傾いてしまうだろう』
「……確かに、そうですね」
聖獣の寿命は長い。もしも個人に肩入れしたら、その人の子どもは、孫は、友人は守らないのかとなる。
だから代々の王族とだけ契約して、国全体を縄張りということにしてくれているのだろう。
頼ろうと思ったわけではなかったけれど、力の強い聖獣が傍にいて、やはり安心感があった。しかしその認識を改める必要がありそうだ。
『とはいえ、自分の寝床に「悪いモノを寄せ付けない」ようにしておくのは当然だがな』
「……!?」
そう思って気持ちを引き締めようとした時に、フェンがボソッと呟いた。
――それって。
「……ありがとう。家を頼んだ」
『……』
私が意味を理解するよりも早く、ランスロートがフェンにお礼を言った。
それに対してフェンは答えることなく、ただ尻尾を犬のようにブンブンと振っただけだった。
聖獣が個人に肩入れすることはほとんどない。特に守護する国を決めた聖獣は。
だけど自分の寝床を守るのは当然のことで、そこに一緒に住んでいる人間がついでに守られたとしても、それはただの偶然ということなのだろう。
「あ、フェンだ!」
「今日も可愛い!」
「フェンおはよう。ニーナさん、ランスロートさん、フェンを触っていいですか?」
町を歩いていると、十歳くらいの男女の三人組の子ども達と出会った。
散歩をするようになってから、同じ時間に何度か会っている子たちだ。歩いて三十分ほどのところにある学校まで、毎朝三人で登校しているらしい。
皆犬が好きらしくて、私たちよりも先にフェンに挨拶をしてくるところがとっても可愛い。
「もちろん、どうぞ」
「やったー! フェンって狼みたいで、格好いいよな」
「フワフワ~。可愛い」
「お前賢いな! 撫でさせてくれてありがとうな!」
初めてに子ども達がフェンを撫でたがった時は戸惑ったけれど、フェンは意外にも尻尾をブンブンさせながら、大人しく撫でられていた。
後から嫌ではないのかと聞いたところ、『犬のフリをしているのだから仕方ない。まあこれほど可愛い犬、撫でられて当然だろう』なのだそうだ。
子どもたちと会うと分かっていて散歩コースを変えようとしないのだから、このままで良いということなのだろう。
もしかしたら、子どもたちに撫でられるのがまんざらでもないのかもしれない。
――フワフワ、いいなあ。
私はフェンがただの犬ではなく守護聖獣様だと知っているので、こんな風に撫でたことはない。でも子ども達が嬉しそうにフワフワだと言っているのを見ていて、羨ましくなってしまう。
――少しだけ。今だったら、大丈夫かも。
子ども達に交じって、そーっと手を伸ばして、フェンの毛並みを撫でてみる。
――うわー、本当にフワフワだ。気持ちいい!
モフモフ、フワフワ。期待通りの手触りを、子ども達の手に紛れてこませて楽しむ。
「それじゃあ、ランスロートさん、ニーナさん、ありがとうございました!」
「フェンまたね~」
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
フェンを心置きなく撫でまわした三人の子たちは、学校に行く時間が迫っているのかピタリと撫でるのを止める。慌てて私もフェンの毛皮から手を離した。
少し時間が遅くなったのか、子ども達は小走りで学校へと向かっていった。
『ふむ。この町は空気も人も、気持ちが良いな』
守護聖獣のフェンは、満足げに目を細めてそう呟いたのだった。




