5話 信頼
その日は突然訪れた。
「グウェン王子。約束の時間に遅れたり、暴言を吐くのを止めていただけませんか。とても悲しいです」
ついに師匠の顔から笑顔が消えたのだ。
――ほらな。やっぱり俺のことなんて、誰もが疎ましく思うんだ。
散々師匠に酷いことをしておきながら、この時の俺はこんなふざけたことを考えていた。
本当にこの時見捨てられていても仕方がなかったと思う。
「はは……なんだよ、そのくらいで。大げさだな」
内心は見捨てられる恐怖に震えながら、俺はまだアホなことを言った。
「そのくらいではありません。とても悲しいですし、傷つきます」
「そんなはずない! 子供の俺だって、そのくらい大丈夫なんだから、大人なお前が傷つくはずがないだろう! 暴言? 約束を破る? その程度のことよくあることだろう。そんなことにいちいち傷ついていられない」
「いいえ、何度あっても慣れることなんてありません。何度でも傷つきます。してはいけないことなんです」
「なんでだよ……なんで俺は皆からそうされるのに、俺はやっちゃいけないんだよ!」
もう終わりだと思った。師匠はもう俺に愛想を尽かしていなくなる。
暴言を吐きながら、俺は死刑を待つような心境だった。
「平気じゃない。傷ついているんです」
「大したことない」
「いいえ、大切なことです」
我慢しきれずに、涙が溢れてきた。
自分が傷ついていると認めるのが怖い。
家族に顧みられず、使用人にすら陰口を叩かれ、誰にも大切にされていないと認めることが。
こんなこと大したことない、大丈夫だと言い聞かせていないと、心の奥のほうで唯一守ってきたプライドが、粉々に砕けてしまいそうだ。
「これからは気を付けてくださいね。それでは今日の授業を始めます」
「…………え?」
当然もう、俺の教師など辞めるのだと思っていた師匠が、平気な顔をして授業を始めようとした。
どう反応したらいいのか分からず、俺は立ち尽くしていた。
「え? とはなんですか。グウェン王子が遅れて来た上に、話し合いで更に時間が経ってしまいました。早く授業を始めましょう。せっかく才能があるのに、授業が遅れてしまってもったいない」
「あ……ああ」
何を考えているのか全然分からないながらも、師匠が教師を辞めないことだけは分かった。
身体が膝から崩れ落ちそうなほどの安堵感を隠しながら、なんとか平気なフリをしてその日の授業を受けた。
その後俺は改心して、真面目に授業を受けるようになった……なんてことはない。
相変わらず何度も師匠を困らせることを繰り返した。
だけどその度に師匠は俺を諫め、時には本気で怒り、根気強く教え続けてくれた。
何年もの間それを繰り返すうちに、いつの間にか絶対に、師匠だけは俺から逃げていかないと心の底から信じることができるようになっていた。
――この人だけは、絶対に。俺のことを裏切らない。
そう思えたら不思議なことに、他の奴らなんてどうでもよくなってしまった。
俺に無関心な家族もだけど、使用人なんて何を言ってこようが、疎まれようが、本当に心底どうでもよくないか? そもそも。
職務を放棄して聞こえるように悪口を言ってくるような使用人は拒否しまくってクビにして、一応形だけでも仕事をしていた者だけを残す。
そうしたら何故か使用人たちに笑顔が増えて、ニコニコと俺に話しかけてくるようになってきた。
師匠の店に押しかけて、店番だと称して大半の時間を過ごすようになると、顔なじみのお客さんもできたし、社交界の付き合いも適当にこなしているうちに、話し相手ぐらいはできた。
それでも心から信頼できるのは、師匠だけだ。この人だけはずっと俺の傍にいてくれる。
――そのはずだったのに!
◇◇◇
「グウェンさん! 大丈夫ですか?」
「……ニーナちゃん?」
どこも悪いところはないはずなのに、なかなか目を覚まさない師匠。
そのまっ白い顔、いつまでも開かない目を見ていると、底なしの不安に押しつぶされそうになる。
ずっと全身が、小刻みに震えていた。
そんな俺に、ニーナちゃんが必死に呼びかけてくれる。
「グウェンさん、朝ご飯もまだですよね? 温かいスープを持ってきました。ブレイズ様は私が見ていますから、少し休憩しませんか」
「今はいい。師匠についていたいから」
「……そうですか。ではここに置いておきますから、お腹が空いたら食べてくださいね」
そう言うと、ニーナちゃんがスープの乗ったトレイを、ベッドの傍にあるテーブルに置いた。
「ちょっと待って!」
「はい、なんでしょう」
部屋を出ていくニーナちゃんの後姿を見て、思わず呼び止めてしまう。
師匠以外の人なんてどうでもいいはずが、なぜかニーナちゃんが離れていく姿を見るのが辛い。
「ごめん。ほんっとーにごめんだけど。嫌ならいいんだけど、ちょっと指だけ貸してくれない」
「ゆ、指ですか」
「うん。……指一本でいいからさ、ちょっと……握っていてもいいかな」
本当は全身で縋りつきたいくらいだけど、従弟の彼女にそんなことを頼めるはずがない。
だからせめて指一本なら、もしかしたら許してもらえるかななんて。
いや、大分キモイ奴だな俺!
「あ、ご、ごめんっ! ウソウソ。ちょっと血迷った。気にしないで、なんでもないから……」
必死に誤魔化そうとする俺に、ニーナちゃんが近づいてくる。
「えっと、その、ごめん。頼んでおいてなんだけど、もう平気だから」
「いいえ、平気じゃないですよね」
「え?」
「大切な人が意識を失って目を覚まさないなんて、不安で当然です」
そう言うと、ニーナちゃんは書き物机のところにある椅子を、ベッドの脇にいる俺の横まで運んできた。
「ベルさんたちに、今日はお仕事を休んで良いって言っていただいているんです。私もブレイズ様が目を覚ますまで、一緒にいますね」
そう言って、俺の隣に座ってくれた。
「うん……ありがとう、ニーナちゃん」
「どういたしまして」
そうして師匠の目が覚めるまで、傍にいてくれた。




