第1話 恋愛に絶望した俺、乙女ゲームのNPCになる
金曜日、午後七時十二分。
スマートフォンに届いた一通のメッセージを見て、俺は深いため息をついた。
『春樹くん、ごめんね。明日の食事、やっぱり行けなくなっちゃった』
ここまでは、まだよかった。
急な仕事かもしれない。家族の用事かもしれない。人間、生きていれば予定が変わることくらいある。
問題は、その次の文章だった。
『実は最近、付き合い始めた人がいて……。変に期待させちゃうのも悪いから、もう二人では会わないほうがいいと思う。本当にごめんね』
「…………」
俺はスマートフォンを机に伏せた。
そして天井を見上げた。
「……またかよ」
声が思った以上に情けなく響いた。
俺の名前は春樹。二十五歳。
都内の小さなIT企業で働く、ごく普通の会社員だ。
身長は平均より少し高い程度。黒髪は仕事帰りになるといつも乱れ、鏡に映る顔には慢性的な寝不足のせいで薄い隈がある。灰色がかった黒い瞳も、今夜ばかりはひどく疲れて見えた。
顔が絶望的に悪いわけではないと思う。
性格だって、そこまでひねくれているつもりはなかった。
少なくとも、少し前までは。
「三回も食事に行ったんだけどな……」
彼女とは友人の紹介で知り合った。
初めて会ったときは緊張したが、趣味の話で盛り上がった。二回目には映画を見に行き、三回目には彼女のほうから次の約束について話してくれた。
だから、少し期待していた。
明日のために店を予約し、新しいシャツまで買った。
その結果が、これだ。
しかも、相手にはもう恋人がいるらしい。
「……俺と会ってた時間って、何だったんだ?」
思わず口にしたものの、答えなんて分からない。
彼女に悪意があったとは限らない。付き合う前なのだから、誰を好きになるかは自由だ。
それくらい、頭では理解している。
だが、理解できることと、傷つかないことは別問題だった。
俺はスマートフォンを持ち直し、短い返事を打った。
『分かった。教えてくれてありがとう。幸せになってね』
送信。
続けて、明日のレストランの予約をキャンセルする。
確認画面に表示された『キャンセルが完了しました』という文字を見て、俺は乾いた笑いを漏らした。
「……俺の恋愛も、キャンセルできたら楽なんだけどな」
これが初めての失恋なら、まだ笑えただろう。
高校時代には好きだった女の子に告白して振られた。大学時代には、いい雰囲気だと思っていた相手から「友達としてしか見られない」と言われた。
社会人になってからは短い交際も経験したが、仕事の忙しさとすれ違いが重なり、長くは続かなかった。
別に、女性全員が悪いと言いたいわけじゃない。
ただ、俺はもう疲れてしまった。
期待して、努力して、少し幸せな未来を想像して。
最後には、いつも一人に戻る。
「……恋愛なんて、もういいだろ」
そう呟いて、俺はパソコンの電源を入れた。
現実の恋愛がうまくいかないなら、せめてゲームくらい好きに楽しませてほしい。
俺には、そう思える場所が一つだけあった。
◇
『ターボナイト ~エターナル・ハーツ~』。
それが、最近の俺が夢中になっているゲームの名前だ。
ジャンルは恋愛シミュレーション。
いわゆる乙女ゲームである。
……何だ、その意外そうな顔は。
男が乙女ゲームを遊んだっていいだろう。
そもそも、俺がこのゲームを買った理由は恋愛要素じゃない。
魔導甲冑。
それが目当てだった。
舞台は、魔法と機械技術が共存するアステリア王国。
この世界では、魔力を宿した結晶を動力源として、さまざまな魔導装置が作られている。
その技術の最高峰の一つが、ターボナイトだ。
外見は、中世の騎士が身につける全身鎧に近い。
金属製の胸当て、肩当て、籠手、脚甲、そして顔全体を覆う兜。
だが、ただの鎧ではない。
装甲の内側には無数の魔力回路が刻まれ、関節には装着者の動きを補助する駆動機構が組み込まれている。
人間が身につけることで、常人をはるかに超える力と速度を発揮する、魔法仕掛けの強化甲冑なのだ。
高性能な機体なら、脚部の加速機構で地面を滑るように疾走し、背部の魔導推進器を使って短時間の飛行までできる。
もちろん、装着者の技量も重要だ。
高価な鎧を手に入れたからといって、誰でも最強になれるわけではない。
剣術、魔力制御、機体との適合性。
そのすべてが戦闘能力を左右する。
……素晴らしい。
魔法のある世界で、騎士の鎧を着て、剣を振るいながら空を飛ぶ。
そんなもの、男の浪漫そのものじゃないか。
ところが。
このゲームの中心は、あくまで恋愛だった。
主人公は、特別な魔力適性を持つ少女、ソフィア・エヴァーハート。
彼女は奨学生として王立アストラリス学院に入学し、そこで四人の青年と出会う。
王太子アドリアン。
名門騎士家の跡取りダリウス。
魔導研究に秀でたルシアン。
そして、外交貴族の青年フェリックス。
彼らとの交流や選択によって、物語が変化していく。
身分の違い、貴族社会の陰謀、学院内の対立。
さらに、王国を揺るがす大きな事件まで用意されていた。
ストーリー自体は、なかなか面白かった。
ソフィアも、ただ守られるだけの女の子ではない。努力家で、自分の考えを持ち、身分の高い相手にも必要なら意見を言える。
そこは好感が持てた。
ただ、一つだけ不満があった。
「……何で、この鎧を自由に改造できないんだよ」
俺はパソコンの画面を睨んだ。
画面には、王太子アドリアン専用のターボナイト《レガリア》が表示されている。
白と金を基調とした美しい全身鎧だ。
胸部には王家の紋章が刻まれ、左右の肩には翼を思わせる装飾がある。細身の腰部から脚甲へと続く装甲線は洗練されており、背中には四枚の小型魔導翼が折り畳まれていた。
王太子が身につけるにふさわしい、優雅で高性能な一着だった。
だが、俺には物足りない。
もっと加速性能を上げられる。
もっと魔力の流れを効率化できる。
関節部分の装甲を見直せば、防御力を落とさず可動域を広げられるはずだ。
何より。
「……俺だったら、こうするのにな」
その考えが、すべての始まりだった。
俺はゲームのデータを調べ、改造用のツールを作り始めた。
もちろん、オフラインの個人用環境だけで遊ぶためだ。
最初は装甲の色を変える程度だった。
次に、武器の性能を調整した。
そのうち既存の機体データを解析し、装甲の構造や魔力回路の設定まで変更するようになった。
そして、数か月かけて作り上げたのが――。
「……よし。今日こそ完成させてやる」
俺は画面中央に表示された青銀色の鎧を見つめた。
《オメガ》。
それが、俺の考えたオリジナルのターボナイトだった。
全身を覆う装甲は、深い青と銀色を基調としている。
兜には鋭く前方へ伸びる二本の角飾りがあり、目元には青白い光を放つ細い魔導視界窓を設けた。
胸当ては分厚すぎず、人体の動きを妨げないように複数の装甲板を重ねている。
両腕の籠手には魔力を集束する補助回路。
脚甲には瞬間加速用の推進機構。
そして背中には、四基の可動式魔導推進器を配置した。
装着者が動けば、その動きに合わせて装甲内の機構が作動する。
走る、跳ぶ、剣を振るう。
その一つ一つを、魔法と機械が補助する設計だ。
巨大なロボットではない。
人間が身につけ、人間の動きを極限まで高めるための鎧。
それが、俺の理想だった。
「……かっこよすぎるだろ、これ」
自分で作ったものを自画自賛するのもどうかと思うが、仕方ない。
本当にかっこいいんだから。
俺はテスト用の戦闘画面を開いた。
舞台は学院の模擬戦闘場。
相手は、王太子アドリアンの《レガリア》。
俺が操作する試験用キャラクターは、青銀の《オメガ》を装着している。
装甲が体に沿って固定され、胸部のエーテルコアが青く輝いた。
両脚の推進器が低く唸る。
『模擬戦闘、開始』
合図と同時に、俺は加速操作を入力した。
オメガが地面を蹴る。
青白い魔力の光が脚甲から噴き出し、機体が一気に前進した。
「よし、速度は問題なし!」
レガリアが黄金の剣を構える。
俺は右腕の魔力出力を上げ、正面から斬り込んだ。
次の瞬間。
バチンッ!
画面の中で、オメガの右腕が火花を散らした。
「……は?」
籠手の内部回路が過負荷を起こし、右腕の装甲が弾け飛ぶ。
続いて警告表示。
『右腕駆動機構、機能停止』
『魔力循環異常』
『戦闘継続不能』
「…………」
俺は無言で画面を見つめた。
そして。
「何でだよおおおおっ!」
思わず叫んでしまった。
「昨日は動いただろ! 何で今日に限って腕が吹っ飛ぶんだよ!」
机を叩きそうになり、寸前で手を止める。
パソコンに罪はない。
悪いのは、俺の設計だ。
「……くそ。右腕の魔力流量が多すぎたのか?」
俺は戦闘ログを開いた。
数字が並んだ画面を睨み、問題の箇所を探す。
魔力供給の遅延。
補助回路との同期ずれ。
それに、加速直後の姿勢制御が重なったことで、右腕に負荷が集中したらしい。
「……なるほど。そういうことか」
原因が分かれば、あとは修正するだけだ。
俺は椅子に座り直し、キーボードに指を置いた。
現実の恋愛は、どれだけ頑張っても思いどおりにはならない。
でも、機械は違う。
失敗には原因がある。
原因を調べ、直して、また試す。
それを繰り返せば、少なくとも前には進める。
……まあ、原因が分からないまま三日くらい悩むこともあるんだけどな。
「待ってろよ、オメガ。絶対に完成させてやるからな」
「お兄ちゃん、うるさい!」
突然、背後の扉が開いた。
「うわっ!」
驚いて振り返ると、妹の美咲が立っていた。
肩まで伸びた明るい茶色の髪に、少し大きな茶色い瞳。白いブラウスと黒いスカートを着ており、肩には小さなバッグを掛けている。
二十二歳の大学生。
俺とは三歳違いだ。
昔は俺の後ろをついて回っていたくせに、今ではすっかり生意気になってしまった。
「さっきから何回叫んでるの? 下まで聞こえてるんだけど」
「仕方ないだろ。大事なところだったんだよ」
「ゲームでしょ?」
「ただのゲームじゃない。俺が何か月もかけて作ってる鎧の――」
「はいはい。青いロボットね」
「ロボットじゃない! 装着式の魔導甲冑だ!」
美咲は呆れた顔で俺を見た。
「……そこ、そんなに大事?」
「大事に決まってるだろ。中に乗るんじゃなくて、自分で着るんだよ。動き方も戦い方も全然違うんだから」
「ふうん」
まったく興味がなさそうだった。
……悲しい。
この素晴らしさが伝わらないとは。
美咲は俺の机をちらりと見た。
そこには、明日のために買った新しいシャツが、袋に入ったまま置かれている。
「あれ? 明日、デートじゃなかった?」
俺の指が止まった。
「……なくなった」
「え?」
「だから、なくなったんだよ」
美咲は少し黙った。
それから、気まずそうに口を開く。
「……また?」
「その『また』って言い方、やめてくれない?」
「あ、ごめん」
妹は本当に申し訳なさそうな顔をした。
それが逆に、少し胸に刺さった。
「相手に彼氏ができたんだとさ」
「……そっか」
「まあ、仕方ないよ。付き合ってたわけでもないし」
俺はわざと軽い調子で言った。
美咲は何か言いかけたが、結局口を閉じた。
しばらくして、彼女は机の上のシャツを見た。
「……その服、似合うと思うよ」
「え?」
「せっかく買ったんだから、別の日に着ればいいじゃん」
思いがけない言葉に、俺は少し驚いた。
「……お前、たまにはいいこと言うな」
「たまには余計!」
美咲は頬を膨らませた。
それから、思い出したようにバッグを持ち直す。
「あ、そうだ。私、これから出かけるから」
「彼氏と?」
「うん。今日で付き合って半年なの」
「…………」
俺はゆっくりと椅子を回し、パソコンに向き直った。
「……そうか。楽しんでこい」
「何その反応!」
「別に。幸せそうで何よりだなって」
「絶対そう思ってないでしょ!」
「思ってるよ。心の底から。ものすごく」
「声が怖いんだけど!」
美咲は笑いながら扉へ向かった。
だが、出ていく直前、少しだけ振り返った。
「……お兄ちゃん」
「何だよ」
「そのうち、いい人見つかるよ」
俺は答えなかった。
妹も、それ以上は何も言わずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、俺はしばらく画面を眺めていた。
「……いい人、ね」
そんな人が本当にいるなら、もう少し早く会いたかった。
だが、今は考えたくない。
俺はマウスを握り直した。
「……よし。恋愛は終了。オメガの修正を続けよう」
少なくとも、こいつは俺を裏切らない。
……いや、さっき右腕が爆発したけど。
あれは俺の責任だから、ノーカウントだ。
◇
夕食の時間になり、俺は一階の食堂へ向かった。
父はすでに席についていた。
短く切り揃えた黒髪には白いものが混じり、眉間にはいつものように深い皺が刻まれている。五十代半ばになった今も背筋が伸びており、仕事帰りのワイシャツ姿にはどこか威圧感があった。
母はその向かい側で、料理を取り分けていた。
肩まで伸びた黒髪を後ろでまとめ、薄いベージュ色のカーディガンを羽織っている。
「春樹、今日は早いのね」
母が微笑んだ。
「うん。仕事、少し早く終わったから」
「そう。ちゃんと食べてる? 最近、顔色がよくないわよ」
「食べてるよ」
「また夜更かししてるんでしょう」
「……まあ、少し」
母は呆れたように笑った。
俺は席につき、箸を手に取った。
今日の夕食は焼き魚と味噌汁、それに野菜の煮物だった。
いつもと変わらない家庭の食事。
だが、その何気ない光景が、妙に落ち着いた。
「春樹」
父が箸を置いた。
「仕事のほうはどうなんだ?」
「普通だよ。今の案件も、もうすぐ終わる」
「そうか」
父は頷いた。
そして、少し間を置いて続けた。
「美咲は今日も出かけているのか?」
「彼氏と半年記念だってさ」
「そうか。あいつも、もうそんな年か」
父は感慨深そうに呟いた。
嫌な予感がした。
こういう話題の流れは、大体ろくなことにならない。
「春樹、お前はどうなんだ?」
……ほら来た。
「何が?」
「付き合っている相手はいないのか?」
「……いないよ」
「そうか」
父は短く答えた。
それだけなら、まだよかった。
「仕事も大事だが、将来のことも考えないとな。いつまでもゲームばかりしているわけにはいかないだろう」
俺は箸を止めた。
「……別に、ゲームばっかりしてるわけじゃないよ」
「分かっている。だが、お前ももう二十五歳だ」
「知ってるよ」
「だったら――」
「父さん」
思ったより強い声が出た。
父が口を閉じる。
俺は一度、息を吐いた。
「俺だって仕事してるし、生活費も入れてる。将来のことだって考えてないわけじゃない」
「それは分かっている」
「だったら、少しくらい好きなことをしててもいいだろ」
父の眉が寄った。
だが、怒鳴ることはなかった。
「……お前が心配なんだ」
その一言に、俺は返す言葉を失った。
父は続けた。
「最近、帰ってきても疲れた顔をしている。休みの日も部屋にこもっていることが多い。何かあったなら、話してくれてもいいだろう」
「…………」
俺は俯いた。
父は、俺が思っていたほど何も見ていないわけではなかったらしい。
ただ、心配の仕方が少し不器用なのだ。
「あなた」
母が静かに口を挟んだ。
「春樹も仕事で疲れているんだから、食事のときくらいゆっくりさせてあげましょう」
「……そうだな」
父はそれ以上、何も言わなかった。
俺も黙って食事を続けた。
味噌汁は、いつもと同じ味だった。
なのに、今日は少しだけ喉を通りにくかった。
◇
午後十一時を過ぎた頃。
俺は再びパソコンの前に座っていた。
部屋の照明は落とし、机のスタンドライトだけをつけている。
画面には、オメガの魔力回路の設計図が表示されていた。
「……ここだな」
右腕の補助回路。
問題は、加速時に胸部から供給される魔力が、一瞬だけ集中してしまうことだった。
だから、流量を分散させる。
腕部だけに負荷をかけるのではなく、肩と背部の補助回路を経由させ、必要な分だけを送り込む。
それに合わせて、関節の駆動制御も調整する。
作業を始めてから、すでに二時間以上が経っていた。
だが、不思議と疲れは感じなかった。
俺は最後の設定を保存し、テスト画面を開いた。
「……頼むぞ」
模擬戦闘場に、青銀のオメガが現れる。
人間の体に沿って装着された装甲が、淡い光を放った。
胸部のエーテルコアが起動し、背中の四基の推進器が展開する。
対するのは、王太子アドリアンのレガリア。
黄金の剣を構えた白金の騎士が、静かにこちらを見据えていた。
『模擬戦闘、開始』
「行け!」
俺は加速操作を入力した。
オメガの脚甲から青白い魔力が噴き出す。
装着者が地面を蹴る動作に合わせて推進器が作動し、機体は一気に距離を詰めた。
レガリアが剣を振るう。
俺は左へ回避。
背部推進器の角度を変え、相手の側面へ回り込む。
「よし……!」
オメガが右腕を引いた。
魔力が肩から籠手へと流れ込む。
昨日までなら、この瞬間に警告が表示されていた。
だが。
『魔力循環、正常』
『右腕駆動機構、安定』
「……来た!」
俺は思わず身を乗り出した。
オメガの右拳が、レガリアの盾を打ち抜く。
衝撃で黄金の騎士が後退した。
続けて剣を抜き、青い光をまとった刃を振り下ろす。
『模擬戦闘、終了』
『勝者:オメガ』
「…………」
一瞬、何も言えなかった。
画面の中央には、勝利を示す文字が表示されている。
オメガは両足でしっかりと立っていた。
右腕も壊れていない。
魔力回路も正常。
俺はゆっくりと拳を握った。
「……やった」
そして。
「よっしゃあああああ!」
椅子から立ち上がり、両手を突き上げた。
「勝った! ついに勝ったぞ!」
何か月もかけて作り上げた鎧。
何度も失敗し、何度も修正した。
そのオメガが、ようやく完成に近づいたのだ。
「……最高だろ、これ」
俺は画面の中の青銀の騎士を見つめた。
もし、こんな鎧を本当に着ることができたら。
魔法の力で空を飛び、剣を振るい、自分の手で改良しながら強くなっていけたら。
どれほど楽しいだろう。
現実では、どう頑張っても手に入らないもの。
だが、このゲームの世界には存在している。
「……いいよな、お前らは」
俺は画面の中のキャラクターたちに向かって呟いた。
「魔法があって、こんな鎧があって……。しかも、学院には可愛い女の子までいるんだろ?」
……いや、最後の部分は別に羨ましくない。
羨ましくないったら羨ましくない。
恋愛なんて、もうこりごりだ。
俺が欲しいのは、自由に機械をいじれる環境と、自分だけの鎧。
それだけでいい。
「……もし、あの世界に行けたらな」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
その直後だった。
「……っ?」
胸の奥に、奇妙な痛みが走った。
最初は、ほんの小さな違和感だった。
長時間同じ姿勢でいたせいだろうか。
俺は胸元に手を当てた。
「……何だ?」
だが、痛みは消えなかった。
むしろ、次第に強くなっていく。
胸を内側から強く締めつけられるような感覚。
息を吸おうとしても、うまく空気が入ってこない。
「……う、そだろ……」
額から冷たい汗が流れた。
立っていられなくなり、机に手をつく。
心臓が異常な速さで打っていた。
まずい。
これは、まずい。
俺はスマートフォンを探した。
机の端に置いてある。
手を伸ばす。
だが、指先が届く前に、膝から力が抜けた。
ドサッ。
床に倒れ込む。
「……っ、は……」
声が出ない。
呼吸が苦しい。
視界の端が暗くなっていく。
何が起きているのか分からなかった。
ただ、自分の体が急速に動かなくなっていることだけは理解できた。
……嘘だろ。
まだ、やりたいことがあるのに。
オメガだって、完全には仕上がっていない。
追加したい機能もある。
新しい装甲も作りたい。
それに。
父さんと、さっき変な空気になったままだ。
母さんにも、ちゃんと礼を言っていない。
美咲の半年記念の話だって、もっと普通に祝ってやればよかった。
そんなことが、次々と頭に浮かんだ。
俺はもう一度、スマートフォンへ手を伸ばした。
しかし、腕はほとんど動かなかった。
ぼやけた視界の向こうで、パソコンの画面だけが明るく光っている。
そこには、青銀のオメガが立っていた。
まるで、俺を待っているかのように。
(……一度でいいから……)
俺は、最後の力で目を開いた。
(……あんな鎧を、着てみたかったな……)
魔法のある世界で。
自分の手で、好きなものを作って。
誰かに人生を決められることもなく、自由に生きる。
そんな人生があったなら。
今度こそ――。
そこで、俺の意識は途切れた。
◇
最初に感じたのは、柔らかな布の感触だった。
次に、窓から吹き込む涼しい風。
そして、誰かが俺の名前を呼ぶ声。
「……レオン」
女性の声だった。
「レオンハルト……お願い、目を覚まして……」
……誰だ?
聞き覚えのない声。
だが、不思議と懐かしい。
俺は重い瞼を開いた。
ぼんやりとした視界に、見知らぬ天井が映る。
木製の梁。
白い漆喰の壁。
窓から差し込む柔らかな日差し。
……病院?
いや、違う。
病院にしては、ずいぶん古風な部屋だ。
「……あ」
声を出そうとして、違和感に気づいた。
声が高い。
まるで、子供の声だった。
「レオン!」
次の瞬間、誰かが俺の手を握った。
視線を向けると、一人の女性がベッドの横に座っていた。
年齢は四十歳前後だろうか。
長い栗色の髪を緩くまとめ、深い緑色の瞳をしている。淡いクリーム色のドレスには細かな刺繍が施されていたが、派手な宝石などは身につけていなかった。
上品で、どこか優しそうな女性だった。
彼女は俺の顔を見るなり、目に涙を浮かべた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
女性は俺の手を両手で包み込んだ。
「三日も熱が下がらなかったのよ。お医者様も、今夜が山かもしれないって……」
……三日?
熱?
何の話だ?
俺は混乱しながら口を開いた。
「……あの」
すると、女性が心配そうに身を乗り出した。
「どうしたの、レオン? どこか痛む?」
その声を聞いた瞬間だった。
頭の奥に、知らないはずの記憶が流れ込んできた。
大きな屋敷。
緑色の庭。
厳しい顔をした父親。
優しい母親。
二人の兄。
そして、自分の名前。
レオンハルト・ヴァイス。
……待て。
何だ、これ。
俺は思わず額を押さえた。
「レオン!?」
女性が慌てて立ち上がる。
「誰か! お医者様を呼んでちょうだい!」
「ま、待ってください!」
俺は反射的に叫んだ。
女性の動きが止まる。
「……レオン?」
「大丈夫です。ちょっと、頭が……」
俺は言葉を濁した。
何が起きているのか、自分でも分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
目の前の女性を、俺は知っている。
ヘレナ・ヴァイス。
この体の母親だ。
そして、俺は――。
「……母上」
自然と、その言葉が口から出た。
ヘレナは目を見開いた。
それから、安心したように微笑んだ。
「ええ。ここにいるわ、レオン」
彼女は俺の額にそっと手を当てた。
「もう大丈夫よ。ゆっくり休みなさい」
その手は、温かかった。
俺は何も言えず、ただ彼女を見つめていた。
◇
しばらくして、母が医者を呼びに部屋を出ていった。
一人になった俺は、ゆっくりと体を起こした。
まず、手を見る。
「……小さい」
信じられないほど、小さかった。
指は短く、手のひらも柔らかい。
腕も細い。
寝間着の袖から覗く肌は、前世の自分よりずっと白かった。
俺はベッドから降り、部屋の隅に置かれた鏡へ向かった。
そこに映っていたのは、一人の少年だった。
年齢は八歳ほど。
少し長めの黒髪に、灰青色の瞳。
病み上がりのせいか頬は白く、細い肩にはゆったりとした白い寝間着が掛かっている。
整った顔立ちではあるが、まだ幼さが強く残っていた。
「……誰だよ、これ」
俺が呟くと、鏡の中の少年も同じように口を動かした。
頬をつまむ。
「痛っ」
ちゃんと痛い。
夢ではないらしい。
俺は鏡の前で固まった。
そして、ようやく理解した。
「……俺、死んだのか?」
最後の記憶は、パソコンの前で倒れたところまでだ。
胸の痛み。
息苦しさ。
遠ざかっていく意識。
あれが夢だったとは思えない。
なら、今のこれは何だ?
まさか。
「……転生?」
口にした瞬間、頭の中で何かが繋がった。
レオンハルト・ヴァイス。
アステリア王国。
ヴァイス男爵家。
そして――。
「……『ターボナイト ~エターナル・ハーツ~』?」
俺は思わず声を上げた。
知っている。
この名前を知っている。
いや、知っているどころじゃない。
何十時間も遊び、設定資料を読み、改造データまで作ったゲームの世界だ。
レオンハルト・ヴァイス。
確か、学院に登場する脇役の一人だった。
主人公のソフィアと同じ学年に在籍しているが、物語の中心にはほとんど関わらない。
王子でもなければ、天才魔導師でもない。
特別な恋愛イベントもない。
そして、ゲームの途中で学院から姿を消す。
理由は――。
「……実家の借金」
背筋が冷たくなった。
そうだ。
思い出した。
ヴァイス男爵家は、領地の水害と復旧費用によって多額の借金を抱えていた。
その影響で、レオンハルトは学院に通い続けられなくなる。
ゲームでは、ほんの短い説明で終わっていた。
だが、今の俺にとっては笑い話ではない。
「……ちょっと待てよ」
俺はベッドに座り込んだ。
「せっかく異世界に転生したのに、借金持ちの貧乏貴族って……」
しかも三男。
家を継ぐ予定もない。
特別な才能があると分かっているわけでもない。
学院に入る前から、将来がかなり怪しい。
……おい。
人生二周目までハードモードなのか?
俺は両手で顔を覆った。
「……勘弁してくれよ」
前世では恋愛がうまくいかなかった。
仕事だって楽ではなかった。
ようやく完成させたオメガも、結局はゲームの中にしか存在しなかった。
それなのに、今度は借金まみれの男爵家の子供。
……いや、待て。
俺は顔を上げた。
確かに、この家は貧しい。
だが、ここは魔法のある世界だ。
そして。
ターボナイトが実在する世界でもある。
そのことを思い出した瞬間、胸の奥に小さな期待が生まれた。
もし、あの鎧を本当に作れるなら。
もし、前世で学んだ知識を活かせるなら。
今度こそ、自分の手で理想のオメガを完成させられるかもしれない。
「……そうだよ」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「まだ、何も終わってないじゃないか」
八歳。
学院に入るまで、まだ何年もある。
その間に、この世界の魔法を学べばいい。
魔導技術を調べればいい。
必要な知識と材料を集めればいい。
そして、家の借金だって、何とかする方法を考えればいい。
簡単ではないだろう。
でも、前世の俺は、何もないところからオメガの改造データを作り上げた。
何度も失敗して、それでも諦めなかった。
だったら、今度も同じだ。
「……よし」
俺は小さく拳を握った。
「今度の人生は、好きなことをして生きてやる」
恋愛に振り回されるのは、もうごめんだ。
誰かに認められるためだけに、無理をするのもやめる。
自分の手で作り、自分の足で立ち、自分の好きな場所へ行く。
それが、俺の新しい目標だ。
そのときだった。
窓の外から、低い風切り音が聞こえてきた。
「……ん?」
俺は顔を上げた。
次の瞬間、青空を一人の騎士が横切った。
「……え?」
銀色の全身鎧。
細身の兜。
背中には二基の魔導推進器が取りつけられ、脚甲からは青白い光が噴き出している。
鎧を身につけた騎士は、両腕を広げて姿勢を制御しながら、屋敷の向こうへ飛んでいった。
その動きは、鳥とも飛行機とも違った。
人間が、自分の体を使って空を飛んでいる。
魔法と機械の力を借りて。
「…………」
俺は窓に駆け寄った。
騎士の姿は、すでに遠くの丘の向こうへ消えかけていた。
だが、見間違えるはずがない。
あの装甲の形。
背部の推進器。
脚部に刻まれた魔力回路。
「……ターボナイト」
俺の声が震えた。
本物だ。
本当に存在している。
画面の中でも、設定資料のイラストでもない。
人間が身につけて動かす、本物の魔導甲冑。
俺はしばらく窓の外を見つめていた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……ははっ」
最初は小さな笑いだった。
だが、次第に抑えきれなくなる。
「はははっ……! マジかよ……!」
さっきまで感じていた不安が、少しだけ薄れていった。
借金。
貧乏貴族。
学院からの退学。
確かに問題は山積みだ。
でも、それが何だ。
目の前には、前世では絶対に手に入らなかった世界が広がっている。
俺が何か月も夢中になって作り続けた鎧を、本当に完成させられる可能性がある。
「……待ってろよ、オメガ」
俺は青空を見上げた。
「今度こそ、お前を本物にしてやるからな」
もちろん、今の俺には金も技術も足りない。
魔法だって、まともに使えるか分からない。
それでもいい。
一つずつ覚えていけばいい。
失敗したら、原因を調べればいい。
壊れたら、直せばいい。
足りないものがあるなら、作る方法を考えればいい。
そうやって、いつか。
青銀の魔導甲冑を身にまとい、自分の力で空を飛ぶ。
それが、俺の新しい夢になった。
……ああ、そうだ。
もう一つ、大事なことを忘れていた。
「……恋愛だけは、絶対にしないからな」
俺は真剣な顔で呟いた。
前世では、散々な目に遭った。
今度こそ、平和で自由な人生を送ってやる。
王子だの、貴族令嬢だの、恋愛イベントだの。
そんな面倒なものには近づかない。
俺はただ、好きなものを作って生きたいだけなのだ。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「レオン? 起きているの?」
母の声だった。
「はい、母上!」
俺が返事をすると、扉の向こうで安堵したような声がした。
「お医者様がいらっしゃったわ。少し診てもらいましょうね」
「分かりました!」
俺は窓から離れ、ベッドへ戻った。
まだ八歳の体だ。
無理をして倒れるわけにはいかない。
まずは、この世界のことを知ろう。
家族のこと。
領地のこと。
魔法のこと。
そして、ターボナイトのこと。
やるべきことは、いくらでもある。
俺は小さな手を握りしめた。
二度目の人生。
今度こそ、後悔しないように生きてやる。
たとえ俺が、この世界では名前も知られていないようなNPCだったとしても。
運命なんて、誰かが決めたとおりに進むとは限らない。
少なくとも、俺はそう信じたい。
――こうして、俺ことレオンハルト・ヴァイスの新しい人生が始まった。
後に俺は知ることになる。
この世界で本当に厄介なのは、貧乏でも、魔法の勉強でも、ターボナイトの開発でもなかったということを。
それは、俺が二度と関わりたくないと願った、あの面倒なものだった。
そう。
恋愛である。
……いや、本当に勘弁してくれ。
この章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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