骨の底で
「……兄ちゃん」
その声で、刃が止まった。
止まった瞬間、自分でも分かった。
やられる、と。
骸喰の巨体が覆いかぶさる。
胸から腹にかけて大きく縦に裂けた口。その暗く深い空洞の奥では、数え切れないほどの人間たちの「真っ白な骨」が、石臼のようにギリギリと嫌な音を立てて軋み合っている。
その深淵から吐き出されたのは、圧倒的な死の匂いと、ドロドロに煮詰められた『未練』だった。
男、女、老人、そして子ども。何百、何千という「人間だった者たち」の断末魔が、同じ一つの喉から重なり合って響いているのだ。
「しまッ――」
朔真は暗い空洞から目が離せず、半歩ぶん遅れた。
回避は間に合わない。朔真が歯を食いしばり、死の衝撃に備えようとした、次の瞬間だった。
次の瞬間、横から鈍い衝撃が叩き込まれた。
横合いから飛来した鋭い鋼の塊が、骸喰の横面――骨の装甲の隙間に深々と突き刺さったのだ。
骸喰の横面が大きく逸れる。
朔真の頬を、骨の破片が掠めた。
「呑まれるな、馬鹿!」
聞き覚えのある怒鳴り声だった。
谷の斜面の上、崩れた石積みの陰から、数人の黒い影が雪崩のように駆け下りてくる。
朝廷の討滅隊だった。
その先頭で、鉄鉤の綱を力任せに引いているのは、見慣れた無精髭の男――玄理だ。
先頭にいる玄理の手には、長い鉄鉤付きの綱があった。今の一撃は、それを骸喰の顔へ叩き込んだものらしい。
骸喰が吠える。
いや、吠えたように聞こえただけだ。その腹の奥から漏れたのは、人の声の束だった。痛い、寒い、帰りたい、積まれる、まだ死ねない。何人もの断末魔が、同じ喉から重なっている。
朔真は奥歯を噛んだ。
「……玄理! なんで、お前が」
「お前が最初に向かうなら、この『骸の柱』だと思ったからだ」
玄理はそれだけ言って、綱を引いた。
「雑魚は隊で押さえる! 綱を張れ、柱から引き剥がせ!」
玄理の号令と共に、斜面を下ってきた十数人の討滅隊士たちが一斉に散開した。
彼らは洗練された動きで、土の中から次々と這い出してくる骸喰の分身体――泥と骨でできた兵隊たちを斬り伏せ、あるいは呪符を用いて動きを封じていく。
朔真は地を蹴り、骸喰の巨体を大きく迂回して、奥の柱へと向かって走り出した。
だが、骸喰がそれを黙って見過ごすはずがない。
背の骨板が軋み、地面の下から新しい白が吸い上がる。さっきまで斬り伏せた死者たちの骨だ。裂けた首も、砕けた腕も、黒泥を介してまた噛み合おうとしている。
朔真は山鉈を振り下ろし、足に絡みつく腕を次々と砕いていく。だが、斬っても斬っても、泥の中から新たな腕が際限なく湧き出してくる。
『……いかないで』
『……ひとりに、しないで』
絡みついてくる手を通して、彼らの「声」が直接、朔真の脳内に流れ込んでくる。
攻撃の意志ではない。ただ、暗く冷たい土の下で、百年もの間、誰にも見つけられずに放置されてきた孤独。
彼らは「誰かに自分の存在を知ってほしい」という強烈な飢餓感に突き動かされているのだ。
鈴は骸喰から目を離さず、短く言った。
「だめ。そのまま斬っても、また繋がる」
朔真が振り向く。
鈴は白布を指へ巻き直しながら、今度ははっきりと言った。
「いい。よく聞いて。まず、骸喰の顔は見るな。あれは死んだ人の顔を真似してるだけ。
斬るのは胸の継ぎ目。あそこが、死者と怪物が繋がってる場所」
玄理が眉をひそめる。
「継ぎ目を斬ればいいのか」
「それだけじゃ足りない」
鈴は首を振った。
「継ぎ目を解すと、中に埋め込まれた死者が剥がれる。剥がれたままだとまた繋がるから、私が送る。
送って、骸喰に取り込まれなくなって、やっと柱と怪物の繋がりが切れる」
朔真が息を呑む。
「……つまり」
「順番は三つ」
鈴の声は冷たく、はっきりしていた。
「朔真が継ぎ目を斬って、死者を怪物から剥がす。私がそれを送って、柱へ戻れなくする。最後に、むき出しになった柱の芯を断つ」
白布の端が、鈍く風に揺れた。
「怪物を倒すんじゃない。中に積まれた死者を外して、最後に柱だけを殺すの」
討滅隊の一人が舌打ちする。
「哭代の言うことを信じろと?」
「信じなくていい」
鈴の声は冷たかった。
「でも、今まで壊せなかったんでしょ」
誰も言い返せなかった。
沈黙を破るかのように骸喰が綱を引きちぎった。
骨板が弾け、討滅隊の一人が吹き飛ばされる。背中から黒泥へ落ち、すぐに埋もれかけた。そこへ骨の手が何本も伸びる。
「相馬!」
討伐隊の仲間が叫ぶ。
助けに入るより先に、湊が飛び込んだ。
鍬の柄を泥へ突き立て、男の脇へ差し込む。歯を食いしばり、ずるりと引きずり上げる。顔は真っ青だ。それでも手を離さない。
「お前まで、怪物に取り込まれんな」
その叫びに、朔真の中の何かが噛み合った。
ーー積まれるな。
ーー骸ではなく、人として終われ。
そうだ。
自分が斬るべきなのは、怪物じゃない。人を人ではない塊へ縫い留めている継ぎ目だ。
朔真は息を吸った。
骨と腐臭と土の臭いが肺へ入る。吐き気がした。だが構わず、山鉈を握り直す。
「……ほどけ」
低く落とす。
「骸のまま積まれるな。人として、ここで終われ」
言葉と一緒に、刃がわずかに変わる感触があった。切れ味ではない。手の内にあった鉈が、薪割りの道具でも殺しの刃でもなく、もっと別のものへ触れた感じだった。
朔真は泥を蹴る。
玄理が骸喰の視線を引きつけるように、正面から綱を打ち込んだ。
「今だ、行け!」
朔真は真横へ回る。骸喰の顔はまた小春に似た幻覚を見せようとする。
見てはいけない。骸喰の中心だけを見る。そこは人の声が妙に近い。
山鉈を振り抜く。
骨に当たるはずの感触が、違った。
硬い殻の下にある、もっと柔らかい結び目へ触れた手応えだ。
骸喰の輪郭が揺れる。
胸板の下、黒泥と白骨の継ぎ目から、一瞬だけ小さな手が覗いた。
「朔真!」
鈴が動く。
白布が空を裂き、揺れた継ぎ目へ巻きつく。彼女は骸喰のすぐ脇へ滑り込み、ほとんど聞き取れない低さで送詞を落とした。
意味は分からない。
だが、さっきまで柱へ吸われていた骨の流れが、そこで初めて乱れた。
骸喰が大きく身をよじる。
胸の裂け目から、人の腕が何本もせり上がった。老人の手、女の指、子どもの細い腕。全部が同時に土へ戻ろうとし、同時に柱へ引かれている。
しかし山鉈が通った瞬間、朔真の頭が割れそうに痛くなった。
閉じ込められていた人たちの感情が流れ込んでくる。
寒い。暗い。痛い。土が重い。まだ終われない。名前を呼んでほしい。
「っ、ぐ……」
膝が揺れる。
玄理の声が飛んだ。
「止まるな! 今のは効いてる!」
討滅隊が左右から骸喰へ斬りかかる。普通の刃では深く入らない。だが狙いは討伐じゃない。動きの鈍った脚を刻み、柱から少しでも引き離すための斬撃だ。
湊が泥の上を走る。
鍬を逆手に持ち替え、骸喰の腹下へ突き立てた。
「小夜だって、飲み込ませねぇ!」
その怒鳴りで、骸喰の注意が一瞬だけ湊へ向いた。
まずい、と朔真が思った時には遅い。
骸喰の前脚が振り上がる。
湊が避けきれない。
だが、その前に玄理が割って入った。湊の肩を掴んで横へ投げる。骨板の直撃を刀で受け、衝撃に顔を歪めながらも踏みとどまった。
「餓鬼、前に出すぎだ!」
「そっちこそ!」
「生意気言う余裕があるなら立て!」
怒鳴り合いの最中、地面が大きく脈打った。
谷の骨塚が一斉に持ち上がる。
黒泥の下から、まだ埋まったままの死者たちが、半身だけ這い出してきた。
骸喰の能力だと思ったが少し雰囲気が違った。
…もっと深いところ来ている。柱のさらに向こう。
ざり、ざり、と骨が鳴る。
そして死者たちから一斉に声がした。
谷全体から響くような、低い声だった。
「……生きて返すな。」
ーー御喰様。鈴が驚いた顔でつぶやいた。
骸の柱の異変に気づいた神が、ここへ手を伸ばしてきたのだ。
這い出した死者たちが、一斉に朔真たちへ向く。さっきまでの列とは違う。今度ははっきり、守るために来ていた。柱を、骸喰を、そして神の未練を。
討滅隊の一人が喉を裂かれ、倒れる。別の一人は脚を掴まれ、そのまま泥へ膝まで沈んだ。
「数が増えるぞ!」
「増やさせるな、芯を出せ!」
玄理が叫ぶ。
朔真は息を吸い、吐いた。
頭の中で、さっきの鈴の言葉だけを残す。
顔を見るな。 胸の継ぎ目を解せ。 解したら、私が送る。 芯が出たら、そこで断て。
やることは決まっている。
朔真は骸喰へ駆けた。
今度はためらわない。胸の継ぎ目だけを見る。小春に似た声が漏れる。父に似た目元が浮かぶ。母の手が伸びる。全部、似せているだけだ。似せて死者を留めているだけだ。
「……骸じゃない」
低く言う。
「人だ。もう、積まれるな」
山鉈を二撃、三撃。
一呼吸のうちに畳みかける。
一撃目で継ぎ目を裂く。
二撃目で似せている輪郭を崩す。
三撃目で、奥に押し込められていた“人の形”へ届く。
骸喰の胸が、大きく割れた。
中から溢れたのは、血ではなかった。
白い腕。折れた肋。髪。布切れ。木札。名も知らぬ死者たちの断片だ。それが一気に土へ還ろうとして、同時に柱へ引かれる。
鈴が白布を広げる。
「返して」
白布が風を孕み、溢れた死者たちへかかる。すると今まで骨を繋いでいた黒泥の流れが、目に見えて切れた。骸喰の巨体がひしゃげる。背の骨板が一枚、また一枚と崩れ落ちる。
柱の根元が露わになった。
黒泥の中に、一本だけ違う白がある。
骨柱の芯。
人骨ではない。もっと古く、もっと硬い、儀式の杭そのもの。
「朔真!」
玄理が叫ぶ。
「そこだ、断て!」
だが柱へ走ろうとした朔真の足首を、無数の手が掴んだ。
神の援護だ。
這い出た死者たちが、最後の力で朔真を止めに来る。腕、足、裾、山鉈の柄。数が多すぎる。引き剥がしている間に、骸喰の残骸がまた動き出そうとする。
その時、湊が懐から薬草袋を取り出した。
小夜のものだ。
一瞬だけ迷って、それでも歯を食いしばり、骨塚の中心へ投げ込む。
袋が裂ける。
乾いた薬草の匂いが、黒泥の中へ広がった。
骸喰の残骸が、ほんの一拍だけ止まる。
湊が叫んだ。
「小夜、力を貸せ!今だけでいい、貸してくれ!」
その声は、祈りにも命令にも聞こえた。
朔真はその一拍を逃さない。
足を掴む手を蹴り砕き、前へ出る。柱芯へ肉薄する。そこで最後に一つ、父の声が頭をよぎった。
――人でいろ。
なら、これも人として終わらせる。
朔真は山鉈を振りかぶった。
「骸ではなく。人として終われ!」
ーー断縁。
刃が柱芯へ食い込んだ瞬間、谷が止まった。
音が消える。
次の瞬間、耳を潰すほどの破裂音が響いた。
骨柱に幾重にも入った亀裂が、一気に全体へ走り抜ける。白い表面が崩れ、内部から黒いものが噴き上がった。土の下に積まれていた骨が、もう繋がらない。ただの骨として、ただの死として、ばらばらに崩れていく。
骸喰が、最後の形を失う。
さっきまで怪物だったものの中から、幾つもの人の顔が一瞬だけ浮かんだ。泣くでもなく、笑うでもなく、ただようやく重さから解かれたような顔だった。
鈴が送詞を落とす。
白布が沈む。
そして全部が、静かに土へ還った。
◇
誰も、すぐには動けなかった。
討滅隊の何人かは膝をついている。玄理も肩で息をしていた。片腕から血が落ちている。湊は泥まみれのまま、荒く呼吸を繰り返していた。朔真の手は痺れ、山鉈の柄からうまく離れない。
けれど、分かったことが一つある。
谷の底から聞こえていた骨の擦れる音が、消えていた。
第一支柱は、落ちたのだ。
その静けさへ最初に割り込んだのは、布擦れの音だった。
谷の上、斜面の縁に、濃紺の影がいくつも並んでいる。
哭代一族。
五、六――もっとか。
全員が同じ装束で、音もなく立っている。その先頭にいたのは、長い刃を提げた少女だった。
ーー令。
彼女は崩れた柱を一度見下ろし、それから谷の底へ視線を落とした。
朔真。 鈴。 湊。 そして、その少し後ろに玄理と討滅隊。
全員を順番に見たあと、令の目が鈴で止まる。
そこだけ、空気がわずかに冷えた。
「……鈴」
呼びかけは短かった。
責めるでもなく、驚くでもなく、ただ確認する響き。
鈴は答えない。
白布を血で汚したまま、朔真の少し前に立つ。ほんの半歩。それが、立ち位置としては十分すぎる答えだった。
討滅隊がざわつく。
「哭代だ」 「囲まれたぞ」 「葛城殿、討ちますか」
玄理はすぐには答えなかった。
刀を下ろしもしないが、上げもしない。ただ斜面上の令をまっすぐ見返す。
その横で朔真は山鉈を握り直した。腕は重い。けれど下げる気はない。
湊も鍬を構える。
「……なんだよ。今度は、何が敵なんだよ」
掠れたその一言が、やけに響いた。
もう、誰も単純には引けない。
令が長刀へ手をかける。
玄理が静かに片足を引く。
鈴の白布が風に揺れ、朔真の山鉈の先から、黒泥が一滴落ちた。
谷の底に残るのは、崩れた骨と、消えたはずの静けさだけだ。
その真ん中で、三つの陣営が、初めて同じ地平に立った。




