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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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9/9

骨の底で

「……兄ちゃん」

 その声で、刃が止まった。

 止まった瞬間、自分でも分かった。

 やられる、と。

 骸喰の巨体が覆いかぶさる。


 胸から腹にかけて大きく縦に裂けた口。その暗く深い空洞の奥では、数え切れないほどの人間たちの「真っ白な骨」が、石臼のようにギリギリと嫌な音を立てて軋み合っている。

 その深淵から吐き出されたのは、圧倒的な死の匂いと、ドロドロに煮詰められた『未練』だった。

 男、女、老人、そして子ども。何百、何千という「人間だった者たち」の断末魔が、同じ一つの喉から重なり合って響いているのだ。


「しまッ――」


 朔真は暗い空洞から目が離せず、半歩ぶん遅れた。

 回避は間に合わない。朔真が歯を食いしばり、死の衝撃に備えようとした、次の瞬間だった。

 次の瞬間、横から鈍い衝撃が叩き込まれた。

 横合いから飛来した鋭い鋼の塊が、骸喰の横面――骨の装甲の隙間に深々と突き刺さったのだ。

 骸喰の横面が大きく逸れる。

 朔真の頬を、骨の破片が掠めた。


「呑まれるな、馬鹿!」

 聞き覚えのある怒鳴り声だった。

 谷の斜面の上、崩れた石積みの陰から、数人の黒い影が雪崩のように駆け下りてくる。

 朝廷の討滅隊だった。

 その先頭で、鉄鉤の綱を力任せに引いているのは、見慣れた無精髭の男――玄理げんりだ。


 先頭にいる玄理の手には、長い鉄鉤付きの綱があった。今の一撃は、それを骸喰の顔へ叩き込んだものらしい。

 骸喰が吠える。

 いや、吠えたように聞こえただけだ。その腹の奥から漏れたのは、人の声の束だった。痛い、寒い、帰りたい、積まれる、まだ死ねない。何人もの断末魔が、同じ喉から重なっている。

 朔真は奥歯を噛んだ。

「……玄理! なんで、お前が」

「お前が最初に向かうなら、この『骸の柱』だと思ったからだ」

 玄理はそれだけ言って、綱を引いた。

「雑魚は隊で押さえる! 綱を張れ、柱から引き剥がせ!」

 玄理の号令と共に、斜面を下ってきた十数人の討滅隊士たちが一斉に散開した。

 彼らは洗練された動きで、土の中から次々と這い出してくる骸喰の分身体――泥と骨でできた兵隊たちを斬り伏せ、あるいは呪符を用いて動きを封じていく。

 朔真は地を蹴り、骸喰の巨体を大きく迂回して、奥の柱へと向かって走り出した。

 だが、骸喰がそれを黙って見過ごすはずがない。

 背の骨板が軋み、地面の下から新しい白が吸い上がる。さっきまで斬り伏せた死者たちの骨だ。裂けた首も、砕けた腕も、黒泥を介してまた噛み合おうとしている。

 朔真は山鉈を振り下ろし、足に絡みつく腕を次々と砕いていく。だが、斬っても斬っても、泥の中から新たな腕が際限なく湧き出してくる。

『……いかないで』

『……ひとりに、しないで』

 絡みついてくる手を通して、彼らの「声」が直接、朔真の脳内に流れ込んでくる。

 攻撃の意志ではない。ただ、暗く冷たい土の下で、百年もの間、誰にも見つけられずに放置されてきた孤独。

 彼らは「誰かに自分の存在を知ってほしい」という強烈な飢餓感に突き動かされているのだ。


 鈴は骸喰から目を離さず、短く言った。

「だめ。そのまま斬っても、また繋がる」

 朔真が振り向く。

 鈴は白布を指へ巻き直しながら、今度ははっきりと言った。

「いい。よく聞いて。まず、骸喰の顔は見るな。あれは死んだ人の顔を真似してるだけ。

 斬るのは胸の継ぎ目。あそこが、死者と怪物が繋がってる場所」

 玄理が眉をひそめる。

「継ぎ目を斬ればいいのか」

「それだけじゃ足りない」

 鈴は首を振った。

「継ぎ目を解すと、中に埋め込まれた死者が剥がれる。剥がれたままだとまた繋がるから、私が送る。

 送って、骸喰に取り込まれなくなって、やっと柱と怪物の繋がりが切れる」

 朔真が息を呑む。

「……つまり」

「順番は三つ」

 鈴の声は冷たく、はっきりしていた。

「朔真が継ぎ目を斬って、死者を怪物から剥がす。私がそれを送って、柱へ戻れなくする。最後に、むき出しになった柱の芯を断つ」

 白布の端が、鈍く風に揺れた。

「怪物を倒すんじゃない。中に積まれた死者を外して、最後に柱だけを殺すの」

 討滅隊の一人が舌打ちする。

「哭代の言うことを信じろと?」

「信じなくていい」

 鈴の声は冷たかった。

「でも、今まで壊せなかったんでしょ」

 誰も言い返せなかった。


 沈黙を破るかのように骸喰が綱を引きちぎった。

 骨板が弾け、討滅隊の一人が吹き飛ばされる。背中から黒泥へ落ち、すぐに埋もれかけた。そこへ骨の手が何本も伸びる。

「相馬!」

 討伐隊の仲間が叫ぶ。

 助けに入るより先に、湊が飛び込んだ。

 鍬の柄を泥へ突き立て、男の脇へ差し込む。歯を食いしばり、ずるりと引きずり上げる。顔は真っ青だ。それでも手を離さない。

「お前まで、怪物に取り込まれんな」

 その叫びに、朔真の中の何かが噛み合った。

 ーー積まれるな。

 ーー骸ではなく、人として終われ。

 そうだ。

 自分が斬るべきなのは、怪物じゃない。人を人ではない塊へ縫い留めている継ぎ目だ。

 朔真は息を吸った。

 骨と腐臭と土の臭いが肺へ入る。吐き気がした。だが構わず、山鉈を握り直す。

「……ほどけ」

 低く落とす。

「骸のまま積まれるな。人として、ここで終われ」

 言葉と一緒に、刃がわずかに変わる感触があった。切れ味ではない。手の内にあった鉈が、薪割りの道具でも殺しの刃でもなく、もっと別のものへ触れた感じだった。

 朔真は泥を蹴る。

 玄理が骸喰の視線を引きつけるように、正面から綱を打ち込んだ。

「今だ、行け!」

 朔真は真横へ回る。骸喰の顔はまた小春に似た幻覚を見せようとする。

 見てはいけない。骸喰の中心だけを見る。そこは人の声が妙に近い。

 山鉈を振り抜く。

 骨に当たるはずの感触が、違った。

 硬い殻の下にある、もっと柔らかい結び目へ触れた手応えだ。

 骸喰の輪郭が揺れる。

 胸板の下、黒泥と白骨の継ぎ目から、一瞬だけ小さな手が覗いた。

「朔真!」

 鈴が動く。

 白布が空を裂き、揺れた継ぎ目へ巻きつく。彼女は骸喰のすぐ脇へ滑り込み、ほとんど聞き取れない低さで送詞を落とした。

 意味は分からない。

 だが、さっきまで柱へ吸われていた骨の流れが、そこで初めて乱れた。

 骸喰が大きく身をよじる。

 胸の裂け目から、人の腕が何本もせり上がった。老人の手、女の指、子どもの細い腕。全部が同時に土へ戻ろうとし、同時に柱へ引かれている。


 しかし山鉈が通った瞬間、朔真の頭が割れそうに痛くなった。

 閉じ込められていた人たちの感情が流れ込んでくる。

 寒い。暗い。痛い。土が重い。まだ終われない。名前を呼んでほしい。

「っ、ぐ……」

 膝が揺れる。

 玄理の声が飛んだ。

「止まるな! 今のは効いてる!」

 討滅隊が左右から骸喰へ斬りかかる。普通の刃では深く入らない。だが狙いは討伐じゃない。動きの鈍った脚を刻み、柱から少しでも引き離すための斬撃だ。

 湊が泥の上を走る。

 鍬を逆手に持ち替え、骸喰の腹下へ突き立てた。

「小夜だって、飲み込ませねぇ!」

 その怒鳴りで、骸喰の注意が一瞬だけ湊へ向いた。

 まずい、と朔真が思った時には遅い。

 骸喰の前脚が振り上がる。

 湊が避けきれない。

 だが、その前に玄理が割って入った。湊の肩を掴んで横へ投げる。骨板の直撃を刀で受け、衝撃に顔を歪めながらも踏みとどまった。

「餓鬼、前に出すぎだ!」

「そっちこそ!」

「生意気言う余裕があるなら立て!」


 怒鳴り合いの最中、地面が大きく脈打った。

 谷の骨塚が一斉に持ち上がる。

 黒泥の下から、まだ埋まったままの死者たちが、半身だけ這い出してきた。

 骸喰の能力だと思ったが少し雰囲気が違った。

 …もっと深いところ来ている。柱のさらに向こう。

 ざり、ざり、と骨が鳴る。

 そして死者たちから一斉に声がした。

 谷全体から響くような、低い声だった。

「……生きて返すな。」

 ーー御喰様。鈴が驚いた顔でつぶやいた。

 骸の柱の異変に気づいた神が、ここへ手を伸ばしてきたのだ。

 這い出した死者たちが、一斉に朔真たちへ向く。さっきまでの列とは違う。今度ははっきり、守るために来ていた。柱を、骸喰を、そして神の未練を。

 討滅隊の一人が喉を裂かれ、倒れる。別の一人は脚を掴まれ、そのまま泥へ膝まで沈んだ。

「数が増えるぞ!」

「増やさせるな、芯を出せ!」

 玄理が叫ぶ。

 朔真は息を吸い、吐いた。

 頭の中で、さっきの鈴の言葉だけを残す。

 顔を見るな。  胸の継ぎ目を解せ。  解したら、私が送る。  芯が出たら、そこで断て。

 やることは決まっている。

 朔真は骸喰へ駆けた。

 今度はためらわない。胸の継ぎ目だけを見る。小春に似た声が漏れる。父に似た目元が浮かぶ。母の手が伸びる。全部、似せているだけだ。似せて死者を留めているだけだ。

「……骸じゃない」

 低く言う。

「人だ。もう、積まれるな」

 山鉈を二撃、三撃。

 一呼吸のうちに畳みかける。

 一撃目で継ぎ目を裂く。

 二撃目で似せている輪郭を崩す。

 三撃目で、奥に押し込められていた“人の形”へ届く。

 骸喰の胸が、大きく割れた。

 中から溢れたのは、血ではなかった。

 白い腕。折れた肋。髪。布切れ。木札。名も知らぬ死者たちの断片だ。それが一気に土へ還ろうとして、同時に柱へ引かれる。

 鈴が白布を広げる。

「返して」

 白布が風を孕み、溢れた死者たちへかかる。すると今まで骨を繋いでいた黒泥の流れが、目に見えて切れた。骸喰の巨体がひしゃげる。背の骨板が一枚、また一枚と崩れ落ちる。

 柱の根元が露わになった。

 黒泥の中に、一本だけ違う白がある。

 骨柱の芯。

 人骨ではない。もっと古く、もっと硬い、儀式の杭そのもの。

「朔真!」

 玄理が叫ぶ。

「そこだ、断て!」

 だが柱へ走ろうとした朔真の足首を、無数の手が掴んだ。

 神の援護だ。

 這い出た死者たちが、最後の力で朔真を止めに来る。腕、足、裾、山鉈の柄。数が多すぎる。引き剥がしている間に、骸喰の残骸がまた動き出そうとする。

 その時、湊が懐から薬草袋を取り出した。

 小夜のものだ。

 一瞬だけ迷って、それでも歯を食いしばり、骨塚の中心へ投げ込む。

 袋が裂ける。

 乾いた薬草の匂いが、黒泥の中へ広がった。

 骸喰の残骸が、ほんの一拍だけ止まる。

 湊が叫んだ。

「小夜、力を貸せ!今だけでいい、貸してくれ!」

 その声は、祈りにも命令にも聞こえた。

 朔真はその一拍を逃さない。

 足を掴む手を蹴り砕き、前へ出る。柱芯へ肉薄する。そこで最後に一つ、父の声が頭をよぎった。

 ――人でいろ。

 なら、これも人として終わらせる。

 朔真は山鉈を振りかぶった。

「骸ではなく。人として終われ!」

 ーー断縁。

 刃が柱芯へ食い込んだ瞬間、谷が止まった。

 音が消える。

 次の瞬間、耳を潰すほどの破裂音が響いた。

 骨柱に幾重にも入った亀裂が、一気に全体へ走り抜ける。白い表面が崩れ、内部から黒いものが噴き上がった。土の下に積まれていた骨が、もう繋がらない。ただの骨として、ただの死として、ばらばらに崩れていく。

 骸喰が、最後の形を失う。

 さっきまで怪物だったものの中から、幾つもの人の顔が一瞬だけ浮かんだ。泣くでもなく、笑うでもなく、ただようやく重さから解かれたような顔だった。

 鈴が送詞を落とす。

 白布が沈む。

 そして全部が、静かに土へ還った。


     ◇


 誰も、すぐには動けなかった。

 討滅隊の何人かは膝をついている。玄理も肩で息をしていた。片腕から血が落ちている。湊は泥まみれのまま、荒く呼吸を繰り返していた。朔真の手は痺れ、山鉈の柄からうまく離れない。

 けれど、分かったことが一つある。

 谷の底から聞こえていた骨の擦れる音が、消えていた。

 第一支柱は、落ちたのだ。

 その静けさへ最初に割り込んだのは、布擦れの音だった。

 谷の上、斜面の縁に、濃紺の影がいくつも並んでいる。

 哭代一族。

 五、六――もっとか。

 全員が同じ装束で、音もなく立っている。その先頭にいたのは、長い刃を提げた少女だった。

 ーー令。

 彼女は崩れた柱を一度見下ろし、それから谷の底へ視線を落とした。

 朔真。  鈴。  湊。  そして、その少し後ろに玄理と討滅隊。

 全員を順番に見たあと、令の目が鈴で止まる。

 そこだけ、空気がわずかに冷えた。

「……鈴」

 呼びかけは短かった。

 責めるでもなく、驚くでもなく、ただ確認する響き。

 鈴は答えない。

 白布を血で汚したまま、朔真の少し前に立つ。ほんの半歩。それが、立ち位置としては十分すぎる答えだった。

 討滅隊がざわつく。

「哭代だ」 「囲まれたぞ」 「葛城殿、討ちますか」

 玄理はすぐには答えなかった。

 刀を下ろしもしないが、上げもしない。ただ斜面上の令をまっすぐ見返す。

 その横で朔真は山鉈を握り直した。腕は重い。けれど下げる気はない。

 湊も鍬を構える。

「……なんだよ。今度は、何が敵なんだよ」

 掠れたその一言が、やけに響いた。

 もう、誰も単純には引けない。

 令が長刀へ手をかける。

 玄理が静かに片足を引く。

 鈴の白布が風に揺れ、朔真の山鉈の先から、黒泥が一滴落ちた。

 谷の底に残るのは、崩れた骨と、消えたはずの静けさだけだ。

 その真ん中で、三つの陣営が、初めて同じ地平に立った。

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