村の灯が消えた夜
村が、静かすぎた。
西の山脈へ日が落ち、谷間に薄墨のような夜の帳が降り始める頃。山道を下っていた穂積朔真は、ふと足を止めた。
見慣れた時間だった。普段なら、どの家の煙突からも煮炊きの煙が上がり、薪を割る音や、犬の吠え声、近所の悪ガキたちが母親に怒鳴られる声が、風に乗って谷底から賑やかに響いてくる頃合いだ。
なのに今日は、何も聞こえない。
ひんやりとした山風が、葉の落ちた木々をざわざわと鳴らす音だけが、やけに鼓膜を打つ。
「……何だよ、気味が悪いな」
背負った籠の帯を握り直し、朔真は独りごちた。
籠の中には、隣の峰に住む病人の老婆へ届けた、薬草包みの空き箱が入っている。母・志乃に頼まれたいつもの使いだ。相手の話し相手になっていたせいで、帰りが少し遅れてしまった。
(帰ったら、小春のやつ、また『お腹空いた』って文句言うだろうな)
妹のふくれた顔を思い浮かべ、朔真は小さく息を吐いた。
そして、囲炉裏のそばで黙々と木を削る父・直継の不器用な背中と、呆れながらも自分の分の夕飯を取り分けてくれる母の姿を想像する。
朔真の家は、村の中でも少し変わっていた。
裕福ではない。だが、傷ついた鳥がいれば妹は放っておけず、行き倒れの旅人がいれば母は自分の飯を削って粥を作り、父は誰にも顧みられない行き倒れの無縁仏に、無償で小さな木棺を作って手を合わせていた。
『どんな死に方をしても、人は人だ。なかったことにはできない』
昔、父がぽつりと言った言葉の意味を、十七歳の朔真はまだ深くは理解していなかった。ただ、そういう「少し損な、けれど温かい家」を、朔真は誇りに思っていた。
そう。そんな、いつもの夜になるはずだったのだ。
朔真は歩を速めた。
村の手前にある、苔むした小さな地蔵の脇を過ぎる。
そこでもう、匂いがした。
嗅いだことのない、けれど本能の奥底を冷たく撫で上げるような、重い鉄の匂い。血の匂いだった。
「――っ」
山風のせいではない悪寒が背筋を駆け抜け、朔真は駆け出していた。
坂を転がるように下りきり、村の入り口を囲む防獣柵のそばで、彼は最初の『それ』を見た。
「……う、そだろ」
柵のそばに、男が倒れていた。
半身を土に投げ出し、ピクリとも動かない。春に、一緒に家の屋根を直したばかりの気のいい男だった。
名前を呼びかけようとして、息が止まる。男の首筋から胸にかけて、一太刀で袈裟懸けに深く両断されていた。
異常なのは、その傷口だった。
獣に襲われたような乱雑さでも、野盗に押し入られたような揉み合いの痕でもない。まるで「最初からそこに刃を通すことだけが決まっていた」かのような、寸分の迷いもない、機械のように冷徹で無機質な太刀筋。
怒りも、恨みも、何の感情も籠っていない「ただの作業」としての死が、そこにあった。
「おい……ッ!」
朔真は男の亡骸を飛び越え、村の中央へと走った。
視界に飛び込んでくる光景に、思考が追いつかない。
戸口の開いた家。血のついた土壁。転がった水桶。
そして、道のあちこちに倒れ伏す、見知った顔、顔、顔。
夏に瓜をくれた老婆。いつも薪割りを競い合った同年代の青年。井戸端で母と笑い合っていた女たち。誰も彼もが、あの「感情のない一撃」によって急所を正確に貫かれ、血の海に沈んでいた。
泣き声はない。助けを呼ぶ悲鳴もない。
抵抗する間すら与えられず、一瞬にして命を刈り取られたのだ。
「誰か……! 誰かいないのかッ!!」
朔真の絶叫が、死に絶えた村に虚しく響く。
足が震え、胃の奥がせり上がってくる。それでも、朔真は家の集落のさらに奥――村外れにある自宅へと向かって、泥まみれになりながら走った。
(たまたまだ。たまたまみんな、外に出てただけだ。親父は強い。母さんはきっと、小春を連れて床下に隠れてる!)
頭の中で必死に言い訳を並べる。そうでなければおかしい。こんな、まるで虫でもすり潰すような理不尽が、許されていいはずがない。
だが、自宅の戸口が見えた瞬間、朔真の淡い希望は粉々に打ち砕かれた。
玄関の引き戸は木枠ごと吹き飛ばされ、庭先の薬草棚は無残にへし折られていた。乾きかけの薬草が、血溜まりの上に散乱している。
「母さん!! 小春!!」
朔真は背中の籠を投げ捨て、土間へ飛び込んだ。
囲炉裏の火はほとんど落ち、赤くくすぶる熾だけがかろうじて息をしている。
その薄暗い板間の中心に、志乃がいた。
「……あ、ぁ……」
朔真の喉から、ヒューという間抜けな音が漏れた。
志乃は、小さな小春をその身の下に抱き込むようにして倒れていた。
背中から心臓をひと突きにされた痕。それでも彼女は、最期の瞬間まで我が子をその腕の中に隠そうとしていた。
だが、その愛すらも嘲笑うかのように、母ごと貫かれた無慈悲な刃は、小春の小さな命をも確実に奪い去っていた。
小春の小さな手が、だらりと板間に投げ出されている。
その指先のすぐ近くには、彼女がいつも着物の帯に結び、チリンと可愛らしい音を立てていた「小さな鈴」が、どす黒い血に染まって転がっていた。
朔真は、ゆっくりと膝をついた。
頭の中が真っ白になり、涙すら出ない。ただ、世界が反転したような強烈な眩暈だけが彼を襲う。
その時だった。
「……朔真」
掠れた、だが確かに聞き慣れた低い声がした。
弾かれたように顔を上げる。
奥の薄暗がり。大黒柱にもたれかかるようにして、父・直継が座り込んでいた。
着物は血で赤黒く染まり、胸から脇腹にかけて致命的な傷を負っている。その右手には、柄が血で滑らないように布を巻いた、使い込まれた「山鉈」が握られていた。
「親父ッ!!」
朔真は血の海を這うようにして直継に駆け寄り、その身体を支えた。
直継の身体はすでに氷のように冷たく、吐く息だけが異様に熱い。
「待ってろ、今すぐ布を……血を止めるから!」
「……いい」
布を探そうと立ち上がりかけた朔真の袖を、直継の分厚い、タコだらけの手が力強く掴んだ。
「よくねえよ! 喋るな!」
「……聞け、朔真」
直継は、血を吐きながらも、その濁りかけた瞳で真っ直ぐに息子を射抜いた。
そこに恐怖や後悔はなかった。ただ、この世に残していく息子へ、最後の「楔」を打ち込もうとする強烈な意志だけがあった。
「……お前は、生きろ。……俺たちを殺したのは……『哭代』だ」
「なきしろ……?」
「そうだ。……だが、朔真」
直継は、ゴフッと大量の血を咳き込みながら、朔真の袖を握る手にさらに力を込めた。
「……何があっても。どれだけ、憎くても……」
直継の視線が、血の海に沈む妻と娘へと向けられ、そして再び朔真へと戻る。
「――人で、いろ」
それが、ただの木工職人として、誰に知られることもなく死者を弔い続けてきた男の、最期の言葉だった。
直継の瞳から光が消え、朔真の袖を握っていた手が、力なく土間へと滑り落ちた。
「……親父? ……おい、親父……ッ!!」
朔真は直継の肩を何度も揺さぶった。だが、二度と返事はなかった。
(人でいろ……?)
朔真の心に、どす黒い炎が点灯した。
ふざけるな、と思った。
こんな理不尽に家族を奪われ、虫けらのように殺されて、どうして「人」でなどいられるというのか。殺してやる。殺してやる。あの、感情のない太刀筋を残した化け物どもを、絶対に一匹残らず叩き斬ってやる。
朔真は、怒りに震える手で、直継の亡骸の顔に触れた。
無意識の行動だった。父が昔、見知らぬ死者にそうしていたように、朔真は静かに、直継の見開かれた両目をそっと撫で下ろし、閉じた。
【閉眼】。
直継がよくやっていた動作だった。
そして朔真は、直継の手から山鉈を抜き取った。
ずしりと重い。木を削るための道具が、今、人斬りの刃へと変わった瞬間だった。
「……誰だ」
不意に、背後の外から複数の足音が近づいてくる気配がした。
朔真は山鉈を構え、獣のような低い声で威嚇しながら振り返る。
壊れた戸口から土間に足を踏み入れたのは、哭代の連中ではなかった。
見慣れない、だが異様に洗練された狩衣姿の男たち。先頭に立つ白髪交じりの痩せた男――玄理は、血の海と、山鉈を構える朔真を見て、忌々しそうに舌打ちをした。
「……一足、遅かったか」
「遅かった、だと?」
朔真の全身の血が沸騰する。
男たちの足取りには、悲壮感はなかった。むしろ「獲物を横取りされた」ような、冷徹な計算高さが透けて見えた。
「知ってて来たのか。……知ってて、見殺しにしたのかよッ!!」
朔真の怒号に、玄理は微かに目を細め、静かに答えた。
「保護に向かっていた。お前たちの一族をな。……だが、嗅ぎつけるのが早すぎる。身内のどこかで、意図的に情報が漏らされたとしか思えねえな」
「てめえらの都合なんて知るか!!」
朔真は、足元の血溜まりに落ちていた「小春の鈴」を拾い上げ、強く、血が滲むほど固く握りしめた。
そして、重い山鉈の切っ先を、圧倒的な殺意と共に玄理たちへ突きつける。
日常は死んだ。
ここから先は、地獄の底まで続く、泥にまみれた復讐の旅の始まりだった。




