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第4話 心の故郷

               -Wadi Rum

 うねる大地にしたたかに尻を打ちながら4WD軽トラックは荒野を行く。やがて視界が開け、砂漠は大海原にも似た様相を見せ始めた。「ロレンスの泉」と名づけられた、全景を見渡す岩山のふもとで車が停まった。互いに手を貸し合いながら順々に荷台から降りる。


 ワディ・ラムを有名にしたのが映画「アラビアのロレンス」であることはよく知られている。ロレンス自身が実際に活躍したのは別の場所だったが、撮影の多くはここで行われた。文字通り草木ひとつない荒涼とした風景が、当時の制作者たちの考える「アラブ」のイメージにぴったりだったのだろう。


 波ひとつないラグーンにも似た、茫洋と拡がる砂の静謐。彼方に霞む奇岩の群れ。そして視界の大半を占める、これ以上ないまでに澄み切った青い空。近いようで果てしなく遠い。距離感が掴めない。まるで蜃気楼だ。


 それは「景色」というより「存在」とでも言うべきものだった。目には見えない。音も聞こえない。匂いもしなければ肌に触れることもない。それなのに巨大な何かが厳然と存在しているかのようなエネルギーを感じる。人智を超えた圧倒的な何か。


 羊が一匹、また一匹と横を通り過ぎていく。頭から布をかぶった女性が群れを追うように後に続く。砂漠の遊牧民ベドウィンだ。機械化された灌漑で農地が潤され、都市には高層ビルが林立するようになった今も、彼らは昔と変わらぬ暮らしを続けている。


 考えてみればワディ・ラムが観光地だというのはあくまで僕たちの視点に過ぎないのであって、彼らにとっては生活の場であり信仰の対象だ。歴史が始まるずっと以前から、人々は砂漠や岩山に羊を追い、長い距離を移動しながら暮らしてきた。どんなに険しく不毛であろうとも、土地は神が与えてくれた恩恵だった。ベドウィンにルーツの多くを由来するヨルダン人にとって、原始の眺めが残るワディ・ラムは心の故郷と呼んでもよい場所なのだろう。


 再び車に乗り蜃気楼の彼方へ。砂の海を横切るのだ。当然、道などない。向かっている方角が正しいのかどうか素人には見当もつかない。


 しばらくすると岩山に挟まれた峡谷が近づいてきた。少し手前で車を降り徒歩で奥へと分け入って行く。岩の表面には褶曲する地層のような線が無数に刻まれている。長い年月をかけて水が浸食した跡だ。「ワディ」とは涸れ川のこと。この広大な砂漠はかつての河床であり、峡谷は河道だったのだ。


「見てください。ここに碑文が彫られています。隊商の民ナバテア人の手によるものです」


 目の高さからとても手が届かないはるか頭上まで、古代の文字や動物を描いた線刻画、人間の手型や足型など、バラエティ豊かな作品が岩肌のあちらこちらに描かれている。


 それにしても赤い。遠くからは明るく朱色がかっていた岩が、間近では血糊を塗りたくったかのようにどっぷりと濃い。添加物たっぷりのイチゴチョコのようで、毒々しささえ感じさせる。振り返ると大地が燃えている。一面に火を放たれた野のような赤茶けた砂漠に、取り残された車が数台。怪獣映画のセットに使われるミニカーみたいで現実味がない。眺めがあまりに雄大で、遠近感が狂ってしまうのだ。


 帰路はまさしく「荒野の砂漠をワイルドドライブ」だった。時にカーチェイスのごとく抜きつ抜かれつ、時にはジグザグに、起伏があろうが、砂にタイヤを取られようが、車はお構いなしに猛スピードで突っ走る。荷台のベンチを掴む手に力が入る。巻き上げられた砂塵が容赦なく顔を叩く。タオルを巻き直さずにはいられない。


 レストハウスに辿り着いた時にはもうヘロヘロだった。口の中がジャリジャリする。服を払うだけで砂が舞い上がる。ゲリラに扮しなければならない理由がようやくわかった。トレッキングシューズはものの見事にピンクに染まっていた。

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