電線の鳴く街
その街では、夕暮れどきに電線が鳴く。
最初にそれを言い出したのは、小学生だったという。下校途中、空を見上げたとき、風もないのに、黒い線がびり、と震え、耳鳴りのような音を立てた、と。
大人たちは笑った。風のせいだ、鉄塔の軋みだ、気のせいだ。
だが、鳴くのは決まって、午後六時三分だった。
私がその街に引っ越したのは、三年前の春だ。
都心から電車で四十分。古い団地と、低い一戸建てが並ぶ、どこにでもある住宅地。駅前には小さな商店街があり、夜九時を過ぎればほとんどの灯りが消える。
部屋は二階建てアパートの二階、角部屋。窓を開けると、すぐ目の前を電線が横切っている。三本、平行に。少し離れたところで束ねられ、電柱へと続く。
最初の夜、私はその近さに少し驚いた。
手を伸ばせば触れられそうな距離で、黒い線が空を切っている。
午後六時三分。
その時刻を、私は偶然知った。
引っ越して一週間目のことだ。仕事から帰り、カップ麺に湯を注いで、テレビをつける。窓の外は茜色に染まり、団地の影が長く伸びていた。
そのとき、耳の奥に細い音が走った。
びり。
糸を弾いたような、微かな震え。
私は箸を止める。
もう一度。
びりり。
窓の外を見る。電線が、わずかに震えている。
風はない。洗濯物も揺れていない。
気のせいかと思い、時計を見る。
六時三分。
翌日も、その翌日も、音は鳴った。
びり。
びりり。
決まって、六時三分。
私はスマートフォンの秒針を睨み、窓を見張るようになった。
六時二分五十秒。
五十五秒。
五十九秒。
そして。
びり。
間違いなく、鳴いている。
不動産屋に聞いてみた。
「電線が鳴く?」
若い担当者は首を傾げる。
「風じゃないですかね。春先は、共鳴とかありますし」
「毎日、同じ時刻に?」
「……偶然でしょう」
曖昧な笑み。
私はそれ以上、何も言えなかった。
隣の部屋には、初老の男が住んでいる。
ゴミ出しのとき、何度か顔を合わせた。無口で、目が落ち窪んでいる。
ある夕方、私は思い切って尋ねた。
「あの、この辺りで、電線が鳴くって話、知ってますか」
男は、しばらく黙ったまま、私を見た。
「聞こえるのか」
「……はい」
男は小さく息を吐く。
「あんた、まだ新しいな」
「え?」
「あれはな、鳴いてるんじゃない」
男は視線を空へ向ける。
「呼んでるんだ」
それ以上、男は何も言わなかった。
六時三分。
私は窓の前に立つ。
びり。
音が鳴る。
その瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
呼んでいる。
誰を。
何を。
ある日、音が鳴った直後、私は奇妙なものを見た。
電線の上に、何かが座っている。
最初は鳥かと思った。だが、影は大きすぎる。人の子どもほどの大きさ。
黒い塊が、三本の線の上に、器用に跨っている。
顔は見えない。
ただ、こちらを向いている。
次の瞬間、塊は消えた。
私は息を詰めていたことに気づく。
時計を見る。
六時四分。
その夜、夢を見た。
私は電線の上に立っている。
足元は細く、頼りない。下を見れば、アスファルトが遠い。
遠くで、びり、と音が鳴る。
振り向くと、黒い影がいくつも、電線の上に並んでいる。
皆、こちらを見ている。
口がない。
目もない。
ただ、輪郭だけが、夕焼けに溶けている。
びり。
びりり。
音が重なる。
影のひとつが、手を伸ばす。
落ちる。
目が覚める。
汗でシーツが湿っていた。
時計を見る。
六時三分。
まだ夜明け前だ。
だが、確かに、音が鳴った。
翌日、会社を早退し、私は図書館へ向かった。
郷土資料の棚をめくる。
古い新聞記事。
二十年前、この街で感電事故があった。
工事中の高所作業車が倒れ、作業員三人が電線に接触。即死。
事故が起きた時刻。
午後六時三分。
記事の隅に、小さな写真がある。
背景に、見覚えのある団地。
そして、私の住むアパートの建物。
背中が冷える。
その日の夕方、私は窓を開け放った。
逃げない。
確かめる。
六時二分五十秒。
五十五秒。
五十九秒。
びり。
音が鳴る。
同時に、電線の上に、三つの影が現れた。
並んでいる。
揺れている。
こちらを見ている。
ふと、気づく。
影は三つ。
事故で死んだ作業員も、三人。
「呼んでるんだ」
隣人の声が蘇る。
影のひとつが、ゆっくりと立ち上がる。
細長い腕が、こちらへ伸びる。
窓と電線の距離は、ほんの数メートル。
だが、その腕は、伸び続ける。
ありえないほどに。
私は後ずさる。
足がもつれる。
背中が壁に当たる。
腕が、窓枠を越える。
黒い指先が、部屋の空気に触れる。
その瞬間。
びりりりりり。
耳をつんざく音。
電線が激しく震える。
影が歪む。
もうひとつの影が、腕を引く。
まるで、止めるかのように。
やがて、音は止む。
六時四分。
影は消えていた。
その夜、隣人が訪ねてきた。
「見たな」
否定できない。
「連れていかれなかったか」
「……はい」
男は安堵とも失望ともつかぬ表情を浮かべる。
「俺はな、連れていかれかけた」
低い声。
「二十年前、あの事故の日、俺は現場にいた」
男は作業員の一人だった。
だが、ほんの偶然で休憩に入り、助かった。
「三人は、あそこに残った」
男は窓の外を見る。
「六時三分になると、自分たちの代わりを探してる」
「代わり……」
「電線の上は、三人分の場所しかない」
ぞっとする。
「だがな」
男は続ける。
「必ず三人だ。四人にはならない」
「どういう……」
「あいつらも、増えたくないんだろう」
翌日から、私は六時三分を恐れながら待つようになった。
逃げても無駄だと、どこかで悟っている。
音は、どこにいても聞こえる。
会社のビルの中でも、スーパーの駐車場でも。
びり。
びりり。
ある日、私は思い至る。
もし、三人で固定されているのなら。
新しい代わりが入れば、誰かが解放されるのではないか。
馬鹿げた考えだ。
だが、その思考は、静かに根を張る。
六時三分。
私は窓を開ける。
影が三つ、現れる。
揺れている。
待っている。
「俺は、行かない」
声に出す。
影は動かない。
「お前たちも、もう終わりにしろ」
返事はない。
びり。
音だけが鳴る。
そのとき、隣の部屋の窓が開いた。
初老の男が身を乗り出す。
「やめろ!」
叫ぶ。
影が、一斉に男を向く。
びりりりり。
電線が激しく震える。
男の足が、窓枠を越える。
私は反射的に、男の腕を掴む。
冷たい。
ありえないほど、冷たい。
影のひとつが、すぐ目の前にある。
輪郭だけの顔。
その奥に、深い闇。
「足りてるだろ!」
私は叫ぶ。
「三人、いるだろ!」
一瞬、音が止む。
影が、ゆっくりと後退する。
男の体重が、こちら側に戻る。
窓を閉める。
鍵をかける。
六時四分。
静寂。
男は床に崩れ落ちる。
「……まだ、終わらないのか」
掠れた声。
その夜、私は決めた。
この街を出る。
荷造りをし、最後の夜を迎える。
午後六時三分。
びり。
音が鳴る。
窓の外を見る。
影は三つ。
変わらない。
だが、よく見ると。
そのうちのひとつは、わずかに輪郭が薄い。
私は気づく。
あの事故から二十年。
忘れられ、語られなくなれば、影もまた、薄れるのではないか。
びり。
音が、どこか遠い。
翌朝、私は街を出た。
数か月後。
新しい街のアパート。
窓の外には、やはり電線が走っている。
午後六時三分。
私は無意識に時計を見る。
びり。
細い音が、耳の奥で鳴った気がした。
窓の外。
電線の上に、黒い影が。
三つ。
いや。
四つ。




