022 電撃肉弾戦
ランドリー内はダクトから排気される熱風がもうもうと立ちこめており、外の潮風にも劣らない湿り気を帯びていた。
部屋のあちこちに張られた紐が、天井から伝わる作業音でびりびりと震えている。紐には洗濯したての真っ白なシーツがかかっており、綺麗に二つ折りにされたシーツの表面が不気味に動いている。
ゆらゆら、ゆらゆら。波打つように揺れ、合間合間を縫うように置かれた洗濯機のごんごん響く音が、まるでこの場に立ち入った者を威嚇しているようだ。息を殺し、草むらからガゼルを狙うチーターのように歩調はゆったりと。シーツで出来た壁を抜ける度にクリアリングを行っていく。
筋肉の収縮に問題はない。呼吸、心拍数も正常値。
だというのに、純白のヴェールをめくって先へ進むごとに動悸は激しくなる一方で。グウェンの心臓は高鳴りを抑えてはくれなかった。
シーツをめくる。
クリアリング。
歩みを進める。
シーツをめくる。
クリアリング。
歩みを進めようとして、グウェンの足が止まった。
何枚目になるのか。次のシーツに手をかけようとして、その表面に赤い斑点がついているのに気付いたからだ。乾いてにかわみたくなってるそれが、グウェンには一目で飛び跳ねた血だと理解できた。鮮烈な血独特の錆びた臭気と、焼け焦げた肉の匂いが周囲の空間に漂っていて、グウェンの鼻孔の奥をつんざいていく。
勢いよくシーツをめくる。
瞳に映ったのは真っ赤な画だった。幼子がクレヨンで乱雑に着色してから、思い描いていたモノとは違うと癇癪をして、作品に水をブチ撒けてすべてを台無しにしたような、ぐじゃぐじゃで惨憺たる光景だった。
洗濯機のドラムがごんごん、唸る。
そこには、もはや生きているのかも分からないほどに、血塗れとなった人間がいた。髪の毛にまで血糊がこびり付き、体の皮膚にはまだら状にいくつもの火膨れがあった。パイプ椅子にくくられ、うなだれるように頭を下げた顎先から、血がぽつぽつとコンクリートの床に滴っていく。
神々しいまでに無残なものだった。
不思議と、グウェンにはそれがテッドだと理解できた。
ぴちゃん、と床に出来た血だまりが跳ねた。
真っ赤なミルククラウンを作った血溜まりが、波紋となって広がっていく。どこまでも、どこまでも広がるそれが、この場で凄惨な拷問が行われた事を如実に物語っていた。
「テッド」
震えた声で呼び掛ける。
「テッド」
もう一度、呼び掛ける。今度は震えなかった。
反応はない。
ぴちゃんっ、と滴る音が代わりに返事をした。
「テッド、ねぇってば」
恐るおそる手を伸ばす。指先が肩に触れた。体温を微かに残す体を揺する。それでも、テッドの体は時間を止めたように動かなかった。脈も、心臓の鼓動も、生体活動に必要なすべてが止まっていた。
「こんなところで、死ぬつもり?」
自分でも、ぞっとする冷たい声音だった。
テッドは死んだ。
その冷酷な事実だけがグウェンの思考を埋めていく。心臓の猛る音がやたらとうるさい。救出は間に合わなかったのだ。あと数分早ければ助けられたかもしれない。後悔の念だけがグウェンの心に積もっていった。
(――情報をむざむざ敵に送るくらいならば、我々の手で握り潰せ。それが、たとえ死地をともにした仲間であっても……)
局長の言葉が再び頭の中を駆け巡る。
それが引鉄だった。続けて、子供の無邪気な声がした。
(どうしたの? はやく鉄砲であたま、バーンってしよ?)
忘却の彼方へ追いやった悪夢がコバルトブルーの目を覗かせる。
(そいつはもう死んでるよ。さぁ、はやく逃げようよ)
幼い頃に分かれてそれきりだった姉妹の声が囁き続ける。
(ミスをしたのはそいつだ。あの時みたいに見捨てちゃいなよ)
小刻みに震えるベレッタの銃口がゆっくりと上がっていく。
(早く、早く! 急いで! 悪い奴らがいっぱいくるよ! わたしたちを殺しにやってくるよ!)
「黙れ!」
雑念を一喝して追い払う。冗談ではない。こんな惨めな場所で仲間を終わらせるつもりはない。過去の自分に従うなど、グウェンは真っ平ごめんだった。銃口を横へと仰け反らせる。そして、逆の手で取り出した亡者の操縦桿をテッドの胸に突き刺した。
これは賭けだ。
奇跡を望まなくなった愚者の懇願にも似た行為。
握りしめた手元から電流をしたたらせる。
強く、熟く、深く、さらに力を込めて、激く。
燃え尽きんばかりに特脳を開放する。
周囲の電磁波が収束し、グウェンの腕を介してテッドの体を被っていく。グウェンの鼻から血が零れる。それは、空中にばら撒いた針の穴に糸を通すよりも、複雑で繊細な工程を経た作業。
皮膚を覆う侵害受容器を通じて、痛覚を司った電気信号が平滑筋を辿り、内臓運動を掌る心筋の収縮活動へと伝達を行う。
テッドの心臓が停止してから何分経ったのかは知らないが、停止時間が短ければ望みはある。経皮を通して、全身をマッサージするように電流で刺激を与えていく。
テッドの体ががくがくと痙攣する。
全身に付着した血液が飛び跳ねる。
「起きろッ」
鎮圧剤が入ったハイジェッターを首筋に打ち込んだ。
「起きろッ!」
一際大きい裏返った声で呼び掛ける。潜入の本分を失った危険な呼び掛けだ。それでも、仲間が死の淵から帰還できるならば、敵に発見されるリスクを犯すのも構わなかった。テッドの全身を包み込むように紫電の奔流が彼の表皮を這いまわる。鈍い痛みがグウェンの頭部を襲う。グウェンは感覚的に「束縛接続帯域」の使用残容量が僅かなのを理解した。
それでも――脳が短絡してしまっても、彼を見捨てることだけはできない。特脳のデッドラインまであと一歩。グウェンは決断をした。それは最後の駄目押しであり、矜持であって、足掻きでもあった。
ベレッタを放った掌を、テッドの胸部――亡者の操縦桿へと叩きつける。限界ライン目一杯までの特脳を発動。小刻みに震える心室をあえて停止させる。それは自動体外式除細動器《AED》の本来の役目である、心臓に電気ショックを与えて、意図的に鼓動を止める作用を擬似的に再現したものだった。
これがグウェンに出来る最善手。
これは神頼みなどでは断じてない。もしも、まだ、テッドの身体に生きる意志が残っているのなら――
心臓が吠る脈動。
巻き起こる呼気の音。
再び激流する血潮の疼き。
そう、彼女の奇跡は成ったのだ。
テッドの身体は生を選び、現世へと帰還を果たしたのだ。
神を呪った女の児戯にも等しい心懸けは、死者蘇生の法理を覆し、魂が消えたはずの死者を、完全なる生の状態に引き戻すという御業にも匹敵する行為を完結させる。
〝プログラムは神からの贈り物だと知りなさい〟
かつて、局長が口にした言葉を思い出す。だとしたら、この結果は必然であり自明の理のはずだ。
だからこそ――
圧縮ガスの音とともにテッドの頭が跳ね起きた。
黄泉の国から帰還したテッドは目をひん剥き、新鮮な酸素を求める魚のように大きく口で喘いだ。溜息のような苦鳴をあげ、血塗れた喉が呼吸を貪る。
命ある者だけに許された自然の営みに、グウェンの顔に安堵の色が浮かぶ。不安は拭い去り、一瞬ではあったが、彼女の眼差しには確かに柔和な光が浮かんだ。
「ぶっ、ふっふっぶあァ」
「息を深く吸って!」
「はあぁ、ひゅぅう、ぶうぅ」
血の泡混じりのよだれを垂らしながらも、テッドの虚ろだった目は徐々に光を帯びていく。グウェンが施した蘇生は奇跡的な確率で成功した。その要因はテッドの心肺が停止してから、彼の生体電流が完全に途絶えるまでに、生体磁場の操作をもっとも得意とするグウェンがこの場に辿りつけたことにあった。
「びゅうぅ、ぐべん」
「落ち着いて、血が気管に入ってる」
グウェンは優しく言った。死を脱したといっても、彼の容体は極めて危険な状態にあったからだ。それでも、テッドは腫れた目蓋の隙間から、確たる意思でグウェンを見て、
「――う、じろだ」
小さく漏れるように紡いだのは忠告だった。
瞬間、グウェンの体がくの字に曲がり、血染めのシーツ・カーテンを巻き込みながら壁際まで吹っ飛んだ。一回、二回、三回と地面をバウンドして、洗濯機のガラス戸に背を預けるようにして、ようやく止まる。
ダンプのような蹴撃でグウェンの脇腹を穿ったのはイヴァンだ。
束の間の安堵、彼女の意識の間隙を狙って繰り出された巨人の蹴りは、まさに肺腑をえぐる一撃だった。
肺に貯まった酸素を一気に失う。腹部に重度のダメージ。失った酸素を吸い込むと同時に、鈍い痛みが胸に走った。第十一、十二肋骨にひびが生じたのだ。
――やられた。
「……がふっ!」
血反吐を吐きながら内心で悪態をつく。
「躱したな――」
足を振り抜いた体勢で、イヴァンが呻いた。
彼自身、いまの急襲で終わらせるつもりだった。
グウェン自身、それは反射的な動きだった。
テッドの言葉を脳が理解するよりも速く、直感に従い横に飛んだのだ。肝臓を狙っていたであろう一点に集極された蹴撃は、咄嗟の動きによって威力を減殺され、かろうじてグウェンに反撃のチャンスを残した。
「まさか、本当にここを突き止めるとは……ぶったまげたぜ、おい。きっと神の思し召しってやつだ」
野太い声には驚嘆の感情が混じっていた。
蛍光灯の無機質な光を背負い、イヴァンは底光りする笑みを浮かべた。おぞましく、サディスティックに、甘やかな声で、
「なぁ、どうやってここを調べたんだ? お前のバックについている人間の力か?」
したたるような敵意を込めて尋ねる。
「さぁ、ね……それより、あんた? こいつを、こんなにしたのは」
「俺の拷問技術は伝説級さ。惜しむらくは、興に乗りすぎてすぐに壊しちまったことだ」
失敗失敗と苦笑しながら、イヴァンは剃り込みをぽりぽりと掻いた。
「あぁ、そう」
対するグウェンの呟きは、小さく、口の中で噛みしめたもので、
「次はもっとじっくりと仕込まないと。ボルシチを煮込むみたいに手間暇かけて、な」
最後の言葉を発すると同時に、イヴァンの身体が一回り膨れ上がった。鍛造された筋肉が凄まじい瞬発力を生み出し、イヴァンは一息にグウェンの眼前にまで潜り込んだ。
先程の衝撃でベレッタはどこかにいってしまった。
咄嗟に背面のカービン銃を構えるも、その巨躯に見合わないスピードでグウェンに接近したイヴァンは、熊のような両手で銃身を掴み上げ、照準を瞬時にずらしてみせた。
ヴヴゥゥゥ、と消音器越しに鋼鉄の銃弾が天井にばら撒かれる。
灰色の破片が舞い散るダイヤモンドダストのなかで、二人はカービン銃越しに互いを睨み合った。
グウェンには特脳を用いる余裕はなかった。一つしかない鎮圧剤を既に使ってしまったからだ。予備の鎮圧剤は車のグローブボックスの中。テッドの蘇生に使用した分、脱出に要する余力は少しでも残しておく必要がある。
刹那の膠着。
先に仕掛けたのはグウェン。その下半身がブレた。
とん、と軽く地を蹴り、股間部を縦に蹴りつける右の足撃。完全に死角からの一撃が深々とめり込む――その確信は、蹴撃モーションとほぼ同時に繰り出されたイヴァンの膝に食い止められる。
後手のイヴァンが銃身の横っ腹を掌底で突き上げた。
二人の手から弾かれたコルト・カービン〝モデル733〟が、ぐるぐると猛回転しながら真上に撥ねていく。
小銃の行方を視線で追うイヴァンの溝に、グウェンは二の足を継いだ左足で前蹴りをくい込ませ、その反動で距離を取った。槍のような蹴撃にもイヴァンは平然としたもので、その視線は依然、天井付近にまで昇ったコルト・カービンを捉え続けている。
落下を始めたカービン銃の銃把をイヴァンが握ると同時に、距離を開けたグウェンは床に散らかるシーツを掴んだ。ブラックライフルの銃口を向けられた瞬間、血で染まった臙脂色のシーツを闘牛士が用いるムレータのように宙に舞い広げる。
カービン銃が発した銃声は一発分だけだった。その一発もシーツに覆い隠されたグウェンの身体を掠めることなく、地下ランドリーにくぐもった銃声の空しい残滓だけが響く。
舌打ちしたイヴァンに対し、グウェンは深い息を吐いて、いつの間にやら抜き取っていたボックスマガジンを後ろに放り棄てた。
小銃被筒にイヴァンの掌底が当たる直前――咄嗟に動かしたグウェンの指がリリースボタンに触れていたのだ。弾倉を失ったカービン銃は次弾を給弾されることなく、薬室内に残された一発だけを吐き切って銃火を終える。
イヴァンは忌々しそうに、無用の長物となったブラックライフルを後ろ手に投げた。
二人の距離はおよそ四メートル。
痛む腹をさするのは後だ。
グウェンは相手の出方を窺うことに専念する。
眼球の動き。筋肉の動き。
それらをもとに相手の行動を予測する。
対してイヴァンは全身を脱力し、開手で両腕を肩の位置に置いた。
CQC――敵との近接戦、もしくは接触寸前での超近接戦を想定した素手、ナイフ、銃を臨機応変に使い分けていく総合的な軍格闘戦術。
システマにしてはガードの位置が高く、腕の隙間からこちらを覗く相手を見て、男は傭兵上がりとグウェンは当たりをつけた。
高速で思考を巡らすグウェンの視界から、突如、男の姿が消えた。否。消えてはいない。機先を盗られたのだ。
膝関節を極限まで脱力させることにより、相手に悟らせずに体を沈めたイヴァンは、左足で床を踏み込み、一挙にグウェンへと迫った。
驚愕するグウェンに、下からぐるんと振りかざした打ち下ろしのライトチョッパーが飛んだ。グウェンとイヴァン。二人の重心はイヴァンの方が低いが、それを帳消しにする身長差により、岩のような拳がグウェンの真上から襲い掛かった。
「――ッ!」
僅かに左に傾いた重心から、右の拳が来ると踏んだグウェンは、咄嗟に左腕を上げ、頭を防御し、そこにパイルバンカーを思わせる強烈なパンチがめり込んだ。
前腕内部がきしみを上げる。
イヴァンがそのまま第二撃の左拳を腰に溜め、一気に解き放った。
グウェンに追撃をかわす時間はなかった。衝撃に身を任せ、そのまま後ろへ飛び退る。痺れを残す左腕に右腕をクロスさせ、十字ガードを作る。その上にイヴァンの硬い拳が衝突した。
人間を叩いた音ではなかった。
砲弾の如き一撃は、グウェンのガードごと彼女の顔を貫いた。細首はバネ仕掛けのおもちゃだ。凄まじい衝撃により、頭が前から後ろへ跳ねるように吹き飛び、グウェンの顔が鼻から噴き出た血に塗れていく。
視界に閃光が走り、身体が一瞬硬直――
イヴァンは生まれた隙を見逃さない――
銃煙が舞うなか、グウェンの懐にイヴァンが飛び込み、素早く左右の足を入れ替えた。ステップを踏むように自然に体勢を整え、突き出された右手がグウェンのコート胸襟を掴む。腕の筋肉が鋼索のように盛りあがる。グウェンの首周りよりも太い強靭な腕を、彼女の腕力でどうこうできるはずもなく――しゅっ、と一息に吐き出されたイヴァンの呼気に合わせて、グウェンの身体は宙に飛んだ。
ぱんっと、ガラスが割れた音。
グウェンのブーツが天井の蛍光灯にぶつかったのだ。
重力を感じさせないほど、軽々と人一人を空中に持ち上げた膂力はまさしくイヴァンの体格に沿った必然だ。
グウェンの額に、汗がぶわっと浮かんだ。
――一本背負い!
このまま背からコンクリートの床に落とされれば、確実に行動不能になるほどのダメージを受けてしまう。
〝こいつの生体電流を操るのは間に合わない!〟
束縛接続帯域で相手に電糸を繋ぐのには集中力と時間が必要。
ハーピーナイフを取り出してから刃を開いている時間はない。
ベレッタは、はるか下、血溜まりの上。
高速思考で事態を打開する戦術を試行。
修羅場で培った経験から結論を導出/その間、僅か一秒足らず。グウェンの行動は速かった。
蛍光灯を割ったのとは反対の足で天井を蹴りあげ、体を捻転。
弓なりに全身をしなり、体全体の向きを入れ替える。その一瞬、グウェンは空を自在に舞うツバメになった。強引な姿勢制御によって左肩関節がはずれ、ケープコートの前ボタンがはじけ飛ぶ。
左手は男の手に。右手はコート内側のベルトへ。
そこには、かつてテッドが玩具と小馬鹿にした小口径のリボルバーが差さっていた。特脳を用いずとも対象に触れていれば、相手がどんな体勢を取っているかなど手に取るようにわかる。
どこにどんなパーツがあるのかも――
背面を向けられ、精確な技を掛けられなくなっても、イヴァンには構わなかった。自分の握力から逃れられた相手はいままでにいなかったからだ。
生きてさえいればいい。このまま自分の体重を含んだ遠心力で以って、地面に叩きつける。それでジ・エンドだ。あとは意識が回復するのを待ってから、じっくりと女の体を愉しめばいい。
ぱんっ。
蛍光灯が割れた音にしては妙な耳障りだった。
腕にとまった虫を、平手で叩いたような乾いた音。
「あ……?」
どろり、と顔面を粘液が伝う。視線を上に向ける。女のコートに小さな穴が空いていた。虫食いにやられてるぞ――そう呆れて、イヴァンの意識は闇の底に沈んだ。
リボルバーはベルトに固定されている。
撃鉄を起こしている暇はない。
コートの内側を滑らせるように手を差しこみ、小指を引鉄に掛ける。調整済みの引鉄の重量は1.4キロジャスト。
ベルトの射軸補正でも十分事足りる。トリガーへの加圧動作は一瞬でいい――調和された動作、抑制されたバランスコントロール、神経の均衡維持、全身の感覚器を通じて見る照星の先――「遊び」を一気に引ききった撃発を喰らわせてやる!
雑技団の曲芸と見違えるほどに卓逸した身のこなしで、体軸を用いた狙いをさだめ――全てはコンマ5秒以下の出来事だった。
ぱんっ、と銃口が小さくひらめいて、ほぼ同時に、男の耳の上にある細い剃り込みに小さな穴が開いた。そこから、炭酸が充満して溢れ出したビール瓶の飲み口のように、とくとくと音をたてて鮮血が湧き出していった。
明敏な頭脳と肉食動物の直観力を持ったグウェンならではの殺し技は、強靭な肉体を持つイヴァンを一撃で屠ってみせた。
ぐらり、と勢いを失った姿勢のまま、グウェンは即死した大男とともに床に倒れ伏した。
地面に新しい血地図が描かれる中、勝者であるグウェンだけがゆっくりと体を起こす。死後痙攣で指先をピクつかせる大男の胸元を見やる。『Peace』――平和的にと、金刺繍でつるに打刻してある見慣れたマーズ・サングラスが胸ポケットから覗いていた。
鼻血をコートの裾で拭い、垂らした腕の先を床について再度肩をはめ直す。真下の死体を横目にそろりと息を吐き、インカムに掠れた声で告げた。
「テッドを回収した。花火の打ち上げを」
不快な空電音が走り、しばらくして返答がきた。
『一分後に陽動を始める。恐怖と弾を敵にくれてやれ』
「針を合わせる」
腕時計を確認し、ハーピーナイフを懐から取り出す。テッドの両手を縛る血が滲んだ紐、赤黒く変色したそれに刃の先端を当てた。




