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ep.1 理想的な二人

よろしくお願いします。

「さて、はじめましょうか」


 鉄錆の臭いが漂う無機質な部屋で、二人の男女が向かい合うように着席していた。


 男は筋肉質な体格で、体格だけ見れば目の前の華奢な令嬢など容易く守れそうなほど恵まれている。けれど、その青い瞳には薄らと怯えの色があった。


 彼女、マリアベル・アイゼンハルト侯爵令嬢はまるで見本のような美しい微笑みを浮かべて、真っ直ぐに彼セオドール・ベルグラード小公爵を見つめていた。


 薄暗い室内の中、天井から吊るされた電球が頼りない光を放ちながら小さく揺れている。


(……まるで取調室にいるみたいだ)


 セオドールがそう思うのも仕方がない。何故ならここは、アイゼンハルト侯爵家の地下にある正真正銘の取調室なのだから。


 緊迫する空気の中、マリアベルが小さく息を吐き静寂を破った。


「では……」


 セオドールは顔を上げて、マリアベルの冷たくも優雅で美しい微笑みを見つめていた。


「ただ今より、セオドール様の不貞疑惑についての査問会をはじめます」


 ただ、彼女の薔薇色に輝く瞳は、一切笑っていなかったのである。


(…………終わった……)


 彼女の冷えた目を見た時、セオドールは本気でそう思った。

 彼の青い瞳が絶望の中へと深く沈んでいくのに、そう時間はかからなかった……



 ◆



 ヴァロア王国には、誰もが口を揃えて『理想だ』と語る婚約した二人がいる。


 その一人は、若くして王国騎士団に入隊し、その実力と周囲からの厚い信頼により、異例の早さで騎士隊長へ抜擢された男セオドール・ベルグラード公爵子息だ。

 彼は、人に好かれる誠実な好青年で上からの覚えも良く、同僚や部下にも恵まれ、これまで大きな挫折を経験する事なく、周囲から期待される人生を歩んできた。


 片やもう一人は、戦場の英雄とも呼ばれる軍人アイゼンハルト侯爵の一人娘マリアベル・アイゼンハルト侯爵令嬢だ。

 彼女は、年頃の男女が憧れる『完璧令嬢』と名高い令嬢で、優雅で慎ましく、王国随一の花嫁候補とまで称される、まさに淑女の鑑だった。


 黒髪の青い目をした精悍な騎士と、淡い金髪に薔薇色の瞳が美しい淑女。

 そんな理想的な二人が婚約したのは三年前、セオドールが成人年齢の十八となった時に、当時十五歳だったマリアベルと婚約した。


 二人は政略結婚だ。

 互いに元々顔は知っていたが、これまで深く接した事もない間柄でほぼ初対面だった。


 でも、マリアベルとの初めての顔合わせの時、セオドールの胸は躍っていた。彼女との未来に、期待と希望——そんな感情が彼の心を埋め尽くしていたからだ。


(俺ほど幸運な男はいないだろう)


 あの日、セオドールのこれまでの完璧な人生が、より完璧になった瞬間だった。


(俺はこの先の未来、この可憐な少女を国一番の幸せ者にする男となる)


 確かにその時のセオドールはそう胸に誓い、その未来を信じて疑わなかったのである。


 ではなぜ……彼は、マリアベルを裏切る事になってしまったのだろうか?




「——最近、貴女のご立派な婚約者殿はとある令嬢にご執心らしい」


 マリアベルが紅茶を飲もうとティーカップの取っ手に指を掛けた時、彼女の友人である王太子ルシアン・フォン・ヴァロアが涼しい表情で言った。


 マリアベルが顔を上げて目の前の彼を見ると、ルシアンは柔らかな笑みを浮かべる。マリアベルもまた、彼に余裕のある笑顔を向けた。


「貴女が先日欠席した夜会では、入場こそ違えど婚約者殿は例の令嬢と会場内で待ち合わせしており、その後は二人で行動を共にして互いの友人達と談笑し、挙句には二曲続けて踊ったという話だ」


 ルシアンの続く言葉に、マリアベルは口元だけの笑顔を浮かべた。


「更にここ数日では、その令嬢は毎日のように王国騎士団の兵舎へ赴き、婚約者殿へ差し入れをしているのだとか……」


 マリアベルの顔から、笑顔が完全に無くなっていく……


「周りの目も憚らないほど二人の友情を超えた親密さに、『ベルグラード小公爵には愛人がいるらしい』と、僕の耳にまで届くほどすでに城内では噂になっている……気を付けた方がいいよ、マリアベル」


 無表情のまま黙るマリアベルを見つめながら、ルシアンは善意で忠告してやった。


 彼女の指先が微かに震える様子を横目に捉えながら、ルシアンは優雅に紅茶を啜った。

 マリアベルが俯く。その肩ははっきりと震えている。


(マリアベル……これは、相当きてるな)


 彼女はルシアンの長い付き合いの友人だ。だから、彼には分かる。あれは悲しみではなく、怒りだ。


 ルシアンが慰めも宥めもせず、静かに見守っていると、マリアベルは急に席を立ち、顔を上げた。


「申し訳ありません、ルシアン殿下。私……行かなくては」


 その顔には悲しみや涙などはなく、ただ冷え切っていた。


(さすが僕の大切で一番の友人マリアベル。貴女はこんな事で泣く人じゃない)


 思えばルシアンはマリアベルが泣く姿を一度も見た事がない。もう十年以上の付き合いだというのに……彼女はルシアンが認める、涙を武器にしない気高い女性だ。


 マリアベルは静かに考えていた。


(セオドール様との結婚に、愛はない)


 貴族としての役目を果たす結婚……それでも良かった。愛がなくても、互いに尊重し誠実であれば。


 ルシアンから婚約者の不貞疑惑の忠告を受けるまで……マリアベルは婚約者の事を、互いを理解し合っている仲間だと信じていた……のに。


 ——それなのに、セオドール・ベルグラードはマリアベルを裏切った。


「……行くのかい? マリアベル」


 ルシアンの透き通った青い瞳の奥に、僅かな期待が滲む。


「えぇ」


 マリアベルがいつも浮かべる優雅な笑顔ではなく、冷え切った薔薇色の瞳を茨のように鋭く細めて笑っていたので、ルシアンはマリアベルの『怒り』がどれほどのものかを悟った。


(婚約者殿、ご愁傷様……)


 ルシアンがセオドールを憐れんでいると、マリアベルが続けた。


「私の信頼を裏切るのであれば……愛しい婚約者様を教育して差し上げないと」


 マリアベルは冷え切った、けれど優雅な笑顔を浮かべたまま、ルシアンに背を向けるとその場から足早に立ち去ったのだった。

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