第七話 半年後の小さな自信
半年が過ぎるころには、翔太は朝の電車で参考書を開かなくなっていた。
代わりに、前日のレビューコメントを思い返したり、今日触る予定の画面遷移を頭の中でなぞったりするようになっていた。勉強をしなくなったわけではない。ただ、勉強の場所が本の外へ移ったのだ。会社に入り、コードを書き、人の修正を読み、自分の失敗を踏み直すうちに、知識は「覚えるもの」から「使いどころを見つけるもの」へ少しずつ形を変えていった。
六月の終わり、オフィスの空調は朝から強めに効いていた。
冷えた風が首筋を撫でるたび、外の湿気と中の乾きの差が肌に残る。木村は相変わらず袖を肘まで折っていて、田中は相変わらず眠そうだった。変わったのは翔太の席の周りだ。付箋が増え、ショートカットキーが指に馴染み、チャットに流れてくる略語のいくつかはもう調べずに読める。
それでも、自分がまだ新人の延長にいることはわかっていた。
わかっているからこそ、たまに褒められると嬉しいより先に身構える。評価は期待の別名で、期待は次の失敗の高さを決める。
その日、木村は朝会のあとで軽く言った。
「佐藤君、午後の改修、設計メモから書いてみる?」
翔太は一瞬意味がわからなかった。
「設計、ですか」
「大げさなやつじゃなくていいよ。何をどう変えるか、自分の言葉で一回整理してみる」
それはつまり、実装の前に考え方を文章にしろということだった。
翔太は胸のあたりに小さな熱を覚えた。信用されているのかもしれない。あるいは、少なくとも任せても壊滅はしない程度には見られているのかもしれない。
午前中は既存の入力画面の改修仕様を読み込んだ。
必須項目の条件変更。入力補助の追加。出力フォーマットの修正。
業務としては地味な内容だ。だが地味な修正ほど、現場では骨が折れる。既存利用者の癖、例外運用、誰も説明しない前提が、画面の裏に折り重なっている。
翔太はノートを開き、手順を書き始めた。
変更点。影響範囲。想定テスト。例外時の挙動。
最初は箇条書きだったが、途中から文になった。
なぜこの順で変えるのか。どこが危ないか。何を確認しないと戻せなくなるか。
書きながら、木村の言葉を思い出す。
コードは未来の他人に向けた文章。
なら、設計メモもまた文章だ。
未来の自分が読む。木村が読む。田中が読むかもしれない。
もしかしたら、まったく知らない誰かが読む。
その想像が、少しだけ背筋を伸ばした。
午後、メモを木村に見せると、彼は数分で目を通した。
「悪くない」
その一言に、翔太の視線が勝手に上がる。
「ほんとですか」
「ほんと。足りない観点はあるけど、“何を変えて何が危ないか”は見えてる」
木村は画面を指でなぞりながら続けた。
「ここ、テスト観点もう少し増やせる。あとこの条件、業務側の運用例外がありそうだから秋山さんに確認。実装前に潰せる疑問は潰しとこう」
言われたことはもっともで、以前ならその“もっともさ”が情けなさにつながっていた。
だがこの日は違った。指摘されることで、考えるべき場所の輪郭がはっきりする。自分はようやく、その感覚に少し慣れてきていた。
「佐藤君、前よりレビュー受ける顔がよくなったね」
木村が何気なく言う。
「前はもっと、“怒られてる”って顔してた」
翔太は苦笑した。
たしかに最初のころは、指摘されるたびに自分の価値ごと削られる気がしていた。いまもまったく平気なわけではない。だが少なくとも、コードの欠点と自分自身の欠陥を少しずつ分けて考えられるようにはなってきた。
夕方、改修は概ねまとまり、木村が最終確認に入った。
そのあいだ翔太はテスト結果を整理し、リリースメモの叩き台を作る。
画面の向こうで田中が夜間処理の確認をしている。秋山が電話口で顧客へ説明している。
以前よりも、オフィスの音の意味がわかるようになっていた。打鍵音の速さで詰まり具合が少しわかる。ため息の短さで、問題の軽重がなんとなく読める。
そうした“読めること”が増える一方で、別の違和感も消えてはいなかった。
夜にだけ出る不具合。
消えるログ。
門。括弧。
翔太はもう、あれらを見間違いだと完全には思っていない。
だが日中の仕事は容赦なく具体的で、その具体の重さが、奇妙な違和感を一時的に地面の下へ押し込めてくれる。
「お、終わった?」
振り向くと、久保田が立っていた。
「はい。一応、木村さん確認待ちです」
「早いじゃん」
久保田はそう言ってモニターを軽く覗き込み、
「ちゃんと設計メモ書いてるんだ」
と少し感心したように言った。
「木村さんに言われて」
「俺、前の会社じゃそんなのほぼなかったな。動けばいい、で終わること多くて」
「それで困りませんでしたか」
「困ったから転職したんだけどね」
久保田は笑ったが、その笑いの端には苦味があった。
「動くって、便利な言葉だよ。いま動く、だけなら大体なんとかなる。でも半年後に誰かが泣く」
その言葉を聞いて、翔太はふと、自分が半年という時間の中で何を手に入れたのかを考えた。
技術そのものはまだ浅い。知識も足りない。
けれど、何が怖いかは前よりわかるようになった。壊すこと。読めないこと。背景のない修正。そういう“怖さの種類”が増えたことが、もしかすると小さな成長なのかもしれない。
夜、帰り支度をしていると、木村がレビュー結果を返してきた。
コメントは五つ。うち三つは軽微。二つは重要。
その重要な二つのうち一つに、翔太は自分でも気づいていなかった。
「ここ、見落としてました」
「うん。でも前ならもっと大きいの見落としてた」
木村はそう言ってPCを閉じた。
「半年でここまで来れば十分だよ」
十分。
その言葉を、翔太はそのまま受け取れなかった。うれしいのに、同時に落ち着かない。自分が少しでも前へ進んだと認めた瞬間、別の見え方をした世界まで一緒に現実になってしまう気がしたからだ。
会社を出るころには、雨上がりの空気が街に残っていた。
アスファルトから湿った熱が立ちのぼり、信号待ちの人々の靴底が白い線の上で鈍く光る。
翔太は駅へ向かいながら、スマホのメモを開いた。奇妙な文言の一覧は、そのまま残っている。削除していないことを、もう自分でも不自然に思わなくなっていた。
半年で少し仕事ができるようになった。
それは間違いない。
だが同時に、世界の継ぎ目みたいなものにも前より目が行くようになってしまった。
自信がつくというのは、安心することではなく、前まで見えなかった怖さが見えてくることなのかもしれなかった。




