第二十話 ミレイアの現実主義
ミレイアが神殿の人間らしくない、と翔太が最初に思ったのは、彼女が祈らないからではなかった。
祈りの言葉を口にするときもある。
儀礼の手順も外さない。
ただ、そのすべてを“必要な工程”として扱っている感じがあった。
信仰心がないわけではないのかもしれない。
けれど彼女の判断の中心にあるのは、いつも運用だった。
それがよくわかったのは、境界の雨から三日後、南の治癒区画で小さな衝突が起きたときだった。
雨に打たれた住民の一部に、記憶混線の後遺症が出ていた。
重症ではない。
名前を言い間違える。
昨日の会話の順序を取り違える。
家族の顔はわかるのに、最近の出来事だけが入れ替わる。
そうした症状が、治癒院の通常術では逆に悪化しかねないと保守局は判断していた。
だが治癒区画の神官たちは、例によって“神の癒しで整える”方向へ寄せたがる。
「上書きするなって言ってるでしょ」
治癒区画の廊下で、ミレイアは珍しく声を強めた。
向かいにいるのは白衣に近い装束の女神官だった。
年は三十前後。整った顔立ちをしているが、その整い方がかえって冷たさを際立たせる。
「放置するほうが危険です」
女神官は言う。
「記憶が乱れているなら、基準の正しい状態へ再固定すべきです」
「基準が乱れてるかもしれないのに?」
ミレイアの言葉は刃みたいだった。
「いま起きてるのは単純な欠損じゃない。境界断片の混入で、保持構造そのものが揺れてる。そこへ通常治癒を重ねると、どの“正しさ”で固定されるかわからない」
廊下にいた何人かが息をひそめる。
神殿内で、しかも治癒区画で、ここまで真正面から異論をぶつけるのは珍しいのだろう。
翔太はそのやり取りを少し離れた場所で見ていた。
言葉のすべてを理解できるわけではない。
だが、ミレイアが“理論”だけで怒っているのではないことはわかった。
運用の失敗で誰かが壊れる場面を、何度も見てきた人の怒りだ。
結局その場は、エルドが古記録を盾に「境界干渉時の治癒式重畳禁止」の旧例を示して収めた。
廊下を離れて保守局側の階段へ向かうときも、ミレイアの足取りはまだ硬かった。
「大丈夫ですか」
翔太が声をかけると、ミレイアは一度だけ息を吐いた。
「大丈夫じゃないけど、いつものこと」
それは冗談ではなかった。
地下へ戻る途中、翔太は思い切って聞いた。
「……昔、何かあったんですか」
ミレイアはすぐには答えなかった。
階段の踊り場で一度立ち止まり、薄暗い壁の発光石を見ている。
その沈黙の長さに、翔太は聞くべきではなかったかと思った。
だが彼女はやがて、平板な声で言った。
「弟がいた」
翔太は黙った。
「北方の小村で育ったの。結界が薄い土地だった。冬になると魔物より先に病が来る。治癒院は遠い。神殿の巡回は遅い。補助式なんて滅多に回ってこない」
彼女は再び歩き出しながら続けた。
「ある年、村の外縁結界が半月ずっと不安定だった。保守局の人間が来る前に、治癒神官が“祈りを強めれば持つ”って言って、村全体へ補助式を重ねた」
翔太は嫌な予感だけで、その先を聞いていた。
「持たなかった」
ミレイアはあまりにも静かに言った。
「結界の基準がずれていたのに、上から綺麗な式を重ねたせいで、壊れ方が見えなくなった。崩れたときには一気だった」
弟がどうなったのか、翔太は聞かなかった。
聞く必要がなかった。
ミレイアの声がすでに答えになっていた。
「だから私は、祈りより運用を信用する」
彼女は言う。
「奇跡があるとしても、それを待って死ぬ側にはなりたくない」
地下へ着くころには、彼女の声はいつもの平静さへ戻っていた。
だがその平静がどこからできているのかを、翔太は初めて少し理解した。
信仰を捨てたのではない。
信仰にだけ任せることを、もう許さないのだ。
その日の夕方、保守局の机で二人並んで記録を整理していたとき、翔太はぽつりと言った。
「木村さんに少し似てる」
ミレイアが顔を上げる。
「誰」
「前の世界の先輩です。優しいわけじゃないけど、現場で壊れる人を増やしたくないっていう感じが」
ミレイアは少しだけ考え、それから短く言った。
「それは、たぶんまともな人」
「ええ」
翔太は苦笑した。
「でも、まともな人ほど疲れてました」
ミレイアも、ごくわずかに笑った。
「それも、たぶんどこの世界でも同じ」
その会話のあと、しばらく二人は何も話さなかった。
だが、沈黙の居心地は前より少しだけ変わっていた。
翔太にとってミレイアは、ただ有能な現場の術官ではなくなっていた。
運用を選ぶ理由を、傷のかたちで持っている人間。
その理解は、信頼に近いものを少しだけ連れてきた。
夜、机へ戻った翔太は、報告紙の隅に自分用のメモを書いた。
ミレイアは信仰を否定していない。
信仰だけで運用を誤魔化すことを許さない。
そう書いたあと、彼は不意に思った。
現実の会社でも、理想そのものを嫌う人はいない。
嫌われるのは、理想を盾に現場の壊れ方を見ない態度なのだ。
世界が違っても、その構図はあまりにも同じだった。




