第十九話 臨時保守要員
境界の雨が止んだ翌朝、王都は何もなかったふうを装っていた。
市場は開き、荷車は通り、神殿の鐘は予定通り鳴る。
濡れた石畳には夜の名残がまだ薄く残っているのに、人々はそれをただの秋雨の跡として踏んでいく。
だが保守局の地下では、誰ひとり“何もなかった”と思っていなかった。
仮眠を取った人間の顔は灰色に近く、机の上には夜通しで追加された記録板と報告紙が積み上がっていた。
翔太も二時間ほど寝台に横になっただけで、ほとんど眠れていなかった。
目を閉じると雨の音が蘇る。
普通の水音ではない。
断片的な記号が石を叩く音。
世界の深い場所にあるはずのものが、表層へ落ちてきた音。
保守局へ入ると、ミレイアがすでに中央机で報告整理をしていた。
髪はまとめ直してあったが、目の下に薄い影がある。
それでも手つきは速い。
疲労は、現場ではしばしば動作の正確さの中へ押し込まれる。
「起きた?」
「はい」
「ちょうどいい。上から通達」
ミレイアが一枚の金属札と薄い書面を差し出す。
翔太が受け取ると、書面の先頭にはやたらと仰々しい文言が並んでいた。
異邦人佐藤翔太 臨時保守要員として暫定編入。
監視下における限定権限付与。
深層術式接触は保守局責任者帯同時のみ許可。
翔太は数秒、それを黙って読んだ。
追い出されるわけではない。
客のまま保留でもない。
だが歓迎でもない。
必要だから使う。
使うから監視する。
現実の会社で見た契約書に似た冷たさがあった。
「正式ではないけど、昨日までよりは動ける」
ミレイアが言う。
「資料室と東西転移区画、外郭点検への同行許可。監視盤への立ち入りも時間制限つきで通るようになった」
「ずいぶん急ですね」
「急がないと世界のほうが待たない」
その言葉はもう、冗談でも比喩でもなかった。
グランツが向こうの机から声を飛ばす。
「おめでとう、臨時の厄介払い要員」
「払いじゃなくて使い倒し要員でしょ」
ミレイアが返す。
「同じだろ」
グランツは笑ったが、その笑いも長くは続かない。
誰もが、世界障害という言葉の重さを昨夜の雨で理解してしまったあとだった。
翔太は金属札を指先でなぞった。
表面には保守局の印と、自分の名前に近い発音を表す記号が刻まれている。
社員証の代わりになるものをこの世界でも首から下げることになるとは思わなかった。
所属というのは、どこでも人を安心させ、同時に縛る。
「俺、戦えるわけじゃないですけど」
何となくそう言うと、ミレイアは顔を上げた。
「知ってる」
「こういうとき、本来ならもっと別の人が必要なんじゃ」
「必要よ」
ミレイアは即答した。
「結界術官も、地脈監視も、記録読みも、全部もっと要る。でも今いるのは今いる人だけ」
それ以上でも以下でもない。
現場の言葉だった。
「それに」
彼女は書面の束を揃えながら続けた。
「あなたは“戦えない”んじゃなくて、“別のところが見える”」
その言い方に、翔太は何も返せなかった。
褒め言葉に聞こえない。
だが、それでいて否定でもない。
使える能力があるなら、それに応じた仕事が来る。
それだけの話だ。
昼前、臨時編入の通達は保守局の面々にも共有された。
若い術官の何人かは露骨に驚いた顔をした。
歓迎しきれない者もいる。
それは当然だと思った。
来たばかりの異邦人が、最悪の局面で急に権限を持ち始める。
どの現場でも、そういう人間は警戒される。
だが一方で、昨夜の雨を見た者たちは、警戒だけでは足りないことも理解していた。
世界障害は個人の好き嫌いを待ってくれない。
臨時編入後の最初の仕事は、境界の雨による障害報告の一次分類だった。
記憶障害。
街路の文字化け。
術式板の一時的読取不能。
子どもの名前呼称の混線。
東街区の井戸水に混じった微細な記号片。
報告はばらばらで、一見すると関連が薄い。
だが翔太はそれらを並べるうち、ある傾向に気づいた。
「“記録”に近いものほど影響が強い」
ミレイアが机越しに顔を上げる。
「どういう意味」
「文字、名簿、標識、治癒記録、水位記録。名前や記述を保持するものに障害が集中してる。単なる物理的な被害じゃない」
グランツが腕を組む。
「世界の表面じゃなく、表面に刻まれた“意味”が削られてるってことか」
「たぶん」
翔太は報告書を広げたまま言う。
「境界の雨は、水じゃなくて基盤記述の断片が混じってる。だからものを壊すより、“解釈”をずらす」
その説明に、数人の術官が息を呑んだ。
昨夜の違和感が、ようやく名前を与えられた気がしたのだろう。
「上へ出せる形にして」
ミレイアが言う。
「分類軸、影響範囲、緊急度。報告書にする」
その一言が、翔太の指を少しだけ落ち着かせた。
報告書にする。
分類する。
影響範囲を切る。
どんなに異様な現象でも、それを仕事の言葉へ落とし込む作業だけは、自分の身体が覚えている。
夕方、保守局の通路を歩いていたところで、翔太は神殿上層の文官風の男とすれ違った。
数日前、会議室で自分を監視対象だと言った男だ。
男は金属札を首から下げた翔太を一瞥し、薄く口を動かした。
「早くも馴染んだようだな」
皮肉とも確認ともつかない声音だった。
「馴染んでません」
翔太は思ったよりもあっさり答えていた。
「必要だから、そこにいるだけです」
男は一瞬だけ足を止めた。
それから、わずかに目を細める。
「その認識を忘れるな」
去っていく背中を見ながら、翔太は自分の胸元の金属札を無意識に触っていた。
必要だからいる。
その通りだ。
だが必要とされることは、ここでは居場所であると同時に、退路を失うことでもある。
夜、机に戻った翔太は、自分の名前の横に新しく付けられた肩書を紙へ書き写した。
臨時保守要員。
その文字はひどく即物的で、だからこそ少しだけ救いになった。
勇者ではない。
選ばれた者でもない。
世界の不具合に対する、臨時の要員。
それならまだ、自分の輪郭を保てる気がした。




