第十九話 惡の華
前回
雲野研究所に潜入した虻球磨新兒は対峙した武装戦隊・狼ノ牙八卦衆の一人、梶ヶ谷群護を覚醒した術式で辛うじて倒すも、彼から聞かされた家族皆殺しの真実にうちの召されてしまう。
一方で岬守航は遭遇した弐級為動機神体をどうにか全て破壊し、新兒と合流しようとする最中で地下室を発見する。
折野菱は自身の悪性に揺ぎ無い自信を持っている。
罵りたければ勝手に罵るがいい。
嘲りたければ勝手に嘲るがいい。
庇いたければ勝手に庇うがいい。
憧れたければ勝手に憧れるがいい。
悲しみたければ勝手に悲しむがいい。
赦したければ勝手に赦すがいい。
そんなことは自分のしてきたことに何の関係も無い話だ。
悪の悪たる所以は己の所業という絶対的事実である。
どれ程の存在がどの様な態度でそれに臨もうと、変わらない。
時計を逆さに回してみたところで罪を犯したという事実は変えられない。
その真理の前では罵倒も、嘲弄も、庇護も、憧憬も、悲哀も、容赦も、誰の何も無意味だ。
母親の首を絞める父親を背後から酒瓶で殴り、父親とそのまま乱闘になり、割れた瓶の破片で父親を刺そうとしたところ庇った母親を刺してしまい、そしてそれも空しく暴れたことが祟って妻と仲良く失血死した父親を見て、折野菱はそう自分を誇った。
彼は自分が善人である可能性の全てを恒久的に排撃する。
たとえ死んだ両親が目の前に現れて己を赦そうが、折野菱という存在が親殺しであるということに一抹の変化も影響も無い。
この世の終わりまで、折野菱という人間の魂はそう定義づけられる。
それが彼の悪としての信念であり、矜持であった。
そんな彼が三日月由奈という女に強い憧れを抱いてしまった理由、そして彼女に普通と断ぜられたことに強いショックを受けてしまった理由は、今なお彼自身にもわかっていない。
⦿⦿⦿
「くっそぉ~、この餓鬼……。」
土生十司暁は思わぬ苦戦に苛立っていた。
為動機神体に加え、生身の戦闘でも後れを取ろうとしている事実は極めて屈辱的であった。
「何だ? デカいだけで大したことないな!」
虎駕憲進の挑発は男を更に苛つかせる。
この言葉は彼のコンプレックスそのものだった。
「生白い貧弱なガキが、ちょっと使い勝手のいい術式に目覚めたからって調子に乗りやがってぇっ!」
――術式神為・散尽爆光――
土生の掌にテニスボール大の光球が作られ、それは投げつけられると虎駕を爆炎に包み込んだ。
彼の術式は手投げ式の小型爆弾となるこの光球を作るという単純なものである。
ただ、神為によってさらに強化された彼の巨体が生む強肩と、激しい煌めきによる視認性の悪さが回避を困難にしている。
偏に術式の相性によって、おそらく彼は戦えば先日一悶着合った仲間の梶ヶ谷群護をねじ伏せることなど容易いだろう。
だがまさにそれと同じ理由で、虎駕憲進にはまるで通用していない現状があった。
虎駕の作り出した障壁は硝煙から徐々に土生の姿を映して現れ、その鏡面が無傷であることを示していた。
「くそっ! またその厄介な鏡かよ……。」
「もうわかっただろう。お前の攻撃は俺には通用しない。さっさと久住を返して去れ!」
鏡に映された土生の姿が朧に薄れ、その向こう側に守られた虎駕が姿を現した。
彼は土生と対峙しながら、同時に折野への警戒も忘れるわけにはいかない。
その厄介さは、三日月由奈が監視しつつ妙な動きがあったら即座に虎駕に報せる、という形で分担して対処していた。
つまり虎駕は、ある程度土生の相手に集中できる。
土生は光球を低め狙いで虎駕に投げ付けてきた。
しかし、狙いはどこであれ障壁を作ってしまえば関係無い。
ただ爆煙と共に土埃を大量に巻き上げるのみである。
「何度やっても同じことだと……。」
虎駕が言い終わらない内に、土生が突然彼の目の前に現れた。
土埃を巻き上げたのは地面を抉り、障壁の下に潜り込める隙間を作る為だったのだ。
至近距離に迫った土生の手に光球が作られる。
「くっ!」
咄嗟の事だった。
虎駕の術式は何も防御のみに用いるものではない。
鏡面とはすなわち金属、主には銀幕である。
それが自身の付近に自由な形状で生成できると同時に、攻撃的な用途として薄く、鋭く、しなやかな刃で瞬時に対象物を切り裂くこともできるのだ。
土生の攻撃は不発に終わった。
一瞬早く、虎駕の形成した金属が彼の右手を切り落としたからだ。
「ぐあああああっッ‼」
土生は右腕を押さえて蹲る。
瞬時に動脈を圧迫し、止血する様は流石元職業軍人である。
だが、彼は自身の強みを完全に失ってしまった。
いかに守護神為の常識を超えた高い修復力と言えど、欠損した部位を再び生やす事は出来ない。
肉が抉れた程度、骨が砕けた程度、内臓が潰れた程度、神経が切れた程度なら体に残っている限り元に戻るが、完全に肉体から離れてしまった部位を一から生やす事は出来ない。
例外としては爪や歯、髪の毛など、常時新たに生える機能や人生のうち一度だけ生え変わる機能が生態として備わっている場合であるが、基本的に失った手足は戻らない。
右手を失った以上、彼はもう為動機神体の起動状態維持と操縦を同時に行う事は出来ない。
そして普通なら、ここで勝負も決まりだろう。
だがそれは、お互いが通常の精神状態であればの話である。
「お、おい……。それじゃもう戦えないだろう? さっさと帰って手当しろよ。俺達は久住を返してくれて、無事日本に戻らせてもらえればそれでいいんだよ……。」
虎駕は恨めしそうな目で自身を見上げる土生を青ざめた表情で気後れしながら見て言った。
脈拍は上がり、呼吸は荒くなり、声も震えている。
「あのバカ、敵の手を切っちまってビビッてやがる……。」
そんな彼の様子を見て、折野菱は舌打ちする。
「彼、大丈夫なの?」
三日月由奈は虎駕と折野を交互に見て呟いた。
それに対し、折野は鼻で笑って彼女の言葉を否定する。
「大丈夫な訳ねえだろ。考えてもみろ、あいつはつい先月まで喧嘩もしたことねえ大学生の坊ちゃんだったんだぜ? どれだけ強い力を手に入れようが、それを使うやつの中身はそう簡単には変わらねえ。あいつは俺や虻球磨と違って誰かを傷つけて血を見るのに慣れてねえし、苦痛に呻く相手を構わず追い込むことなんか出来ねえよ。」
折野の懸念は当たっていた。
実際、戦意を喪失しかかっているのは圧倒的優位に立ったはずの虎駕であった。
それは、彼が実戦、命のやり取りの現場を知らないが故の不覚だった。
対する土生は、腐っても元プロである。
そうした相手の心の機微を敏感に察知する。
「莫迦がよォッ!」
土生は残った左手で光球を虎駕に投げ付ける。
勝負あったという油断と相手を欠損させた動揺から虎駕は反応が遅れ、ただ飛び退いて避けるだけで精一杯だった。
「し、しまったぁっ!」
光球が三日月の背中に向かって飛んでいく。
虎駕は必死で金属の障壁を作って守ろうとするが、間に合わない。
その猛威が炸裂して激しい爆炎を上げる光景に、虎駕は激しい後悔と自責の念に苛まれていた。
しかし、攻撃を受けて倒れていたのは三日月由奈ではなく折野菱だった。
「折野さん⁉」
彼は咄嗟に彼女を庇い、盾になったのだ。
「折野! すまん、俺の一生の不覚だ‼」
虎駕が慌てて二人の許に駆け寄る。
しかし予想に反し、折野は不気味に笑いだした。
「ククク、ははははは! 確かに不覚だなぁっ! だが、謝る事じゃねえぜ!」
煙を上げながらも手を着いて起き上がろうとする折野を見て、虎駕は彼の意図するところを察してたじろいだ。
「礼を言うぜ。これで久住の術式に縛られていた俺の腕は自由になった!」
久住双葉が彼の腕を縛っていた蔓は爆発によって切れていた。
起き上がった折野は伸び伸びと両腕を広げ、高らかに自由を謳い上げる。
それはこの場における力関係が完全に入れ替わったことを意味していた。
折野菱は拉致されたメンバーの中で地力では最も強い男である。
次点の虎駕が優位だったのは、彼が両腕を封じられていたからに過ぎない。
そしてこの最強の男は、同時に最も危険な人間性の持ち主である。
その最凶の男は狂気に歪んだ笑みを湛えて駆け出した。
自身に向かってくる折野を止めようと、虎駕は金属の障壁を作る。
「無駄だ!」
折野が鏡面に映った自分の姿に手を当てると、壁は粉々に砕け散った。
折野菱の術式は、極めて破壊力と殺傷力の高い能力である。
その掌で触れて発氣神為の要領で神為を送り込むと対象物を、神為量次第ではどんなものでも罅割ることができる。
例えば地面を広範囲に割ったり、鏡面を作る金属箔や硝子面を砕いたり、そしてそれらよりももっと容易に人体を破壊する事だって出来るのだ。
ゆえに、折野が虎駕に腕を振るったとき、虎駕は死を覚悟して目を固く瞑った。
しかし、不可解なことに折野は虎駕を腕で払い除けただけだった。
虎駕はその場に尻餅を突いた。
「邪魔だ!」
彼が駆け寄った先の相手は、片手を失った土生十司暁だった。
驚いた土生は咄嗟に光球を折野に投げ付け、彼を爆炎で包み込んだ。
「げっほ……。くそっ!」
折野は蹲って血を吐いた。
土生の術式は単純極まりないものだが、当たるとその破壊力は大きく、ダメージは深刻である。
彼は先に背中で受けた時、既に迎え撃つ攻撃を回避することに頭が回らないほどダメージを受けていたのである。
そして、二度目の被弾は回復したばかりの彼の命を再び脅かしていた。
「莫迦が、さっさと逃げれば良いものを……。」
土生は折野の頭を蹴り飛ばそうと足を振り上げる。
しかしその時、折野の手が軸足を掴んだ。
「ぎゃああああっっ‼」
土生の左脚は粉々の肉片となって崩れ落ちてしまい、彼はその場に倒れ込んだ。
「悪いな。どうしても目の前にいる奴らから一人は殺さなきゃ収まらない性質なんだよ……。」
折野は口角から血を流しながら不敵な笑みを浮かべ、土生に馬乗りとなった。
「クソがっ! 離れろ‼」
至近距離から、三度光球が折野に炸裂する。
この時、折野菱は自分の命運がここに尽きたことを悟った。
しかし尚もその表情は何ら悲観することなく狂気に満ちた笑みを浮かべている。
「いけない手だなあ……。じゃ、こっちも潰さねえと……。」
「ま、待て!」
勿論、土生の懇願を聞き入れる殺人鬼・折野菱ではない。
土生は左腕も肉片に変えられ、完全に攻撃手段を失った。
「ぐぎゃああああああ‼」
「あーあ、ピーピー五月蠅え奴だぜ……。こんな奴が最後の殺しとは味気ねえが、まあ悪党に贅沢なんて望めねえのかもしれねえな……。」
折野の手が土生の胸に当てられ、土生は青ざめる。
「止めろ! わかった、俺の負けだ! 頼む止めてくれ!」
「止めるわけねえだろ、この状況で。」
「何で? 何で俺なんだ⁉ お前は別にあいつらの仲間じゃねえんだろ? 誰か殺したいんならあいつらの内どっちかを適当に殺して逃げればいいじゃないか‼」
土生の必死の命乞いの中で生まれた疑問は折野を止めようと駆け寄る虎駕や三日月もまた抱いたものだった。
もしかしたら、この男は自分達に少しでも仲間意識を持っていたのか。
だが、その期待は折野の口から出た言葉に否定される。
「何でお前なのか? 俺は常に一番弱くて殺し易そうな奴を狙う。」
「一番弱いだと? この俺が⁉」
「大怪我して弱った奴が一番弱いに決まってんだろ、ボケがぁ!」
折野の答えを聞き、土生は必死に藻掻いて逃れようとする。
虎駕と三日月は遠すぎて間に合いそうにないし、間に合ったとしてこの状態から止める術は無い。
「止めろ! 何で殺すんだ! 俺はもう戦えないんだぞ? 何の為に俺を、戦えない俺を何の益も無くわざわざ殺すんだ‼ 止めろ止めろ止めろ止めろ止めてくれ止めてくれええええぇぇっっ‼」
「何で殺すかってぇ? そんなもん、面白半分に決まってんだろォが‼」
その瞬間、最期に浮かべた土生の表情は絶望に満ちたものだった。
その断末魔の表情だけを残して粉々に砕かれた土生十司暁だったものの残骸の傍らで、折野は力なく崩れ落ちた。
「あー、楽しかった。」
虎駕と三日月が見下ろす折野は遊び疲れた子供のように笑っていた。
おそらくは朦朧とした意識の中にいる彼に、二人の呼び声は聞こえているのだろうか。
⦿⦿⦿
ムカつくんだよなあ……。
そりゃあ都合良く俺を攫って逃げるチャンスをくれた事には感謝しているんだ。
だが、無法を通そうとしている癖に悪党の自覚が無いのはどういうことだ。
皇國政府が悪ければ自分達は何をしても仕方が無いとでも思っているのか?
何より、『武装戦隊・狼ノ牙』って名前が気に食わねえ。
何だ『戦隊』って、正義のヒーロー集団にでもなったつもりか?
悪は悪の自覚を持って、高らかに己の悪業を謳い上げなきゃな。
それもできずに己を正義だの義賊だの被害者だの必要悪だのと正当化するのは恥知らずってもんだ。
美学が無いんだよ。
だが、考えてもみればそんな拘りを持っている時点で所詮は俺も悪として半端者だったのかもしれない。
そう言い聞かせないと自分が言い訳塗れの糞以下になって、自分はひょっとしてそこまで悪くないのかもしれないなどと、ありもしない期待を抱いてしまいそうで怖かったのかもしれない。
虎駕憲進、お前の事は本当に嫌いだよ。
お前は俺を最後まで一度も人殺し呼ばわりしなかった。
法的に罪が確定するまでは犯罪者じゃないとでも言いたいのか。
俺が人殺しだってことは俺自身も何ら否定するつもりは無いのに、どうしてそうも頑ななんだ。
俺ですら出来ない期待の可能性を、赤の他人のお前が残してんじゃねえよ。
まあ、それがお前の通すべき筋なんだろう。
真面目なこった。
それとお前の友達の岬守航だが、あいつもあいつで俺なんかさっさと捨てればいいのにわざわざ日本に連れ帰ろうとするとは、本当にふざけた奴だよ。
思い通りにいかなくて残念だったなと心の底から嗤ってやりてえな。
だがあいつは、どうもとんでもない奴の様な気がするぜ。
あのデカいロボットでいきなり戦闘し、自分が墜とされる前提の賭けに出るなんて正気じゃねえよ。
まあ、どうでもいいことだな。
そして、三日月由奈。
俺にはアンタが眩しい……。
アンタが悍ましいものを胸に抱えていることはすぐにわかった。
アンタに比べれば俺の内面なんて小物もいい所だったかもしれない。
互いの胸の内の邪悪を比べたら、わざわざ自分は悪だと意識しなきゃいけなかった俺なんて、自分の悪を確固たるものにするために殺しを、悪徳を重ね続けた俺なんて、そうしなきゃならなかった俺なんて虫螻蛄の様に潰される程度の存在だろう。
また言い訳をしているな。
やっぱり俺は糞以下だよ。
美学なんて烏滸がましい。
そしてそんなアンタが、俺と違って真っ当な人間として生きていけることが俺には心底眩しかった。
到底敵わないと思った。
アンタは俺の女神だったんだなあ……。
だから俺の女神を侮辱した屋渡や、危害を加えようとしたモヒカン野郎に心底ムカついたのかもしれない。
確かにあいつの言う通り、虎駕の方を殺してさっさと逃げれば良かったのにな。
というか俺はどういうわけかこいつらを殺そうと思えなかったんだよな……。
岬守を屋渡から助けた時や椿を炙り出した時は貢献できたと思ったし、墜落しそうになった時は俺がどうにかしなきゃと思った。
どうしてだろうな。
どうでもいいか。
所詮俺はその程度の存在だったってことだ。
だが結局俺は最期まで悪党として死ぬ。
最期まで人を殺して死ぬ。
俺は小物なりに悪の美学を貫けたから、その点俺の方が異常者だったってことで一矢報いることはできたかな、女神様よ?
だからというわけじゃないが、三日月由奈よ。
アンタはアンタで、ずっと俺の女神でいてくれないか?
真っ当な人間のままで、眩し過ぎる存在のままでその人生を全うしてくれないか?
惚れ込んでいたよ、アンタに……。
嗚呼、駄目だ。
東瀛丸の効果すら切れちまったらしい。
こうなったら愈々もうお終いだな。
此処は何処だ?
ああ、女神様の腕の中か。
おかしいな。
人間、死ぬときは何処までも瞑く淵い闇の中に墜ちるもんだと思っていたんだが……。
光り溢れて、眩しいなあ……。
⦿⦿⦿
⦿⦿
⦿
息を引き取った折野菱の顔に、三日月由奈の涙が零れ墜ちた。
「この人ね、屋渡に酷いことを言われた私を慰めてくれたの……。」
岬守航、虻球磨新兒と共に残された夕暮れ、屋渡倫駆郎は彼女を豚呼ばわりし、人語を話すことを禁じた。
そんな彼女に、帰りの車の中で寄り添ったのは他ならぬ折野菱だった。
「確かにろくでもない人だったと思う。でも、この人がいたお陰で助かったことも沢山あったよね……。」
虎駕憲進は言葉を失っていた。
こうなったのは元々自分のせいだと、強い自責の念に駆られていた。
あの時、油断と動揺さえ無ければ土生の攻撃を自分の術式で止められただろう。
そうすれば、折野を自由にすることも無く土生を撃退できたかもしれない。
折野の目蓋を閉ざした三日月に対し、彼女が立ち上がってから虎駕は漸く重い口を開いた。
「岬守が来たらすぐに出発しよう。彼の死を無駄にはできない。宿に着いたらここで起こった顛末をすべて話すんだ。そうして公的機関に現場を確認してもらう。それまでは下手に現場を弄らない方が良い。」
「そうね、死体遺棄になっちゃうかも……。」
「まあ皇國の法律は分からないが、隠蔽を疑われるのは間違いない。」
三日月は思い出していた。
折野菱は自分達に、真っ当に生きている者は真っ当な人間だと言っていた。
その言葉を信じるならば、ここで真っ当な道を踏み外してしまうことなど彼は望まないだろう。
「変かな? 私、彼の事嫌いじゃなかった。」
虎駕はそんな三日月の言葉に対し、首を横に振った。
「善悪、有罪無罪、それと好き嫌いは別だ。こいつは悪党で、罪は確定していなくて、そしてアンタは嫌いじゃなかった。別にそういうこともあると思う。」
一か月共に過ごした彼の死に、何の感慨も抱かないものではない。
昼に差し掛かろうという川辺を、遣る瀬無さが只管に包み込んでいた。
⦿⦿⦿
雲野研究所の地下室に足を踏み入れた岬守航は驚くべき光景を目にした。
それはコンクリートの部屋一面に根を張り咲く大量の花だった。
「何だこりゃ……?」
元々この有様だったとは考えにくい。
これは明らかに後から予定外に植え付けられて変容した状態だ。
茎を掻き分けて奥へと進むと、半ば程で二人の男がだらしない半笑いを晒して倒れていた。
何やら幻覚を見ているようだ。
「何なんだ、こいつら……?」
気にはなったものの、命に別状は無さそうなので奥へと進むことにした。
そして最奥に待っていたのは、少女の様に朗らかでどこか浮世離れした笑みを浮かべて舞い踊る久住双葉だった。
「あはははは、あはははははは。」
「久住……さん?」
双葉は困惑する航に気が付くと、それまでの彼女からは信じられないほど蠱惑的な表情で航に近寄って来た。
「岬守君、見て。凄いでしょ?」
双葉は腕を振るい、辺り一面の花を見るように促した。
その姿は自分の成果を心底から誇っている様に思えた。
「これ、もしかして久住さんがやったの?」
「そうだよ。私、今凄く気分が良いの。とても力が溢れている。」
まるで美酒に酔い痴れているかのように妖艶な立ち振る舞いの彼女に対し戸惑いを隠せない航は、何かその原因は無いかと周囲に気を配った。
すると壁際に何やら人間大のカプセルが二基設置されており、大量の管が繋がれている。
航はその中にある異様な気配を訝しんだ。
「そこに、誰かいるのか?」
恐らくは傍にいる双葉にも聞こえるか聞こえないかくらいの小さな呟きだった。
しかし、聞こえる筈の無いカプセルの中から、聞こえる筈の無い反応が返ってくる。
『居ます。此処に居るのです。』
『来てくれてありがとう。僕達は、ずっと誰かを待っていた。』
同時に、カプセルがゆっくりとその扉を開いて真二つになる。
中にはそれぞれ小さな少年と少女が、非常によく似た奇妙な少年と少女が鎮座していた。
瞬間、航は自らの海馬に記憶の奔流が迸るのを感じた。
この二人を、特に少年の方を自分は見たことがある。
「桜色の……髪?」
かつて幼馴染の麗真魅琴の家で見た、写真に佇んでいた桜色の髪の少年。
その彼とそっくりな少年と少女は、その両目を開き徐に立ち上がった。
「初めまして。貴方は岬守航さん、そちらは久住双葉さん?」
口を開いたのは少女の方だった。
「私は兎黄泉、こちらは兄の幽鷹。男女になっていますが、元は同じ遺伝子から生まれた双子なのです。この雲野研究所で生み出された双子。雲野幽鷹と、雲野兎黄泉。」
突然の出来事が起こり過ぎて頭が追い付かない航は、ただその場に困惑を極めながら立ち尽くすしかなかった。
次回更新は、11月4日㈬




