第二十話 完全喪失
街の住人の中で唯一無事と言える状態であった老神父アグラファは、勇者と別れて街の外へと向かっていた。
鈴木雄二は街の外に待機している討伐軍の存在を彼に教えたが、そこに至る脱出行の最中に他の魔物と出くわしてしまう危険性も無視できない。ならば自分が守って見せよう、と胸を張った勇者に対し、街を占拠する魔物を討伐する以上の負担を年若き勇者に押し付ける事を良しとしなかった老神父は、一人で大丈夫だ、と年甲斐もなく言い切った。
二人は暫しの間だけ言い争ったのだが、結局は妥協する事にした。
じゃあ途中までなら、という良くある半端な着地点である。
そして二人が別れた直後、老神父は街中から銀色の光が奔るのを見とめた。
銀色の発生地点では勇者が戦っている。
己の半分も生きていない孫ほどの年齢、或いは それ以下の年の少年が、自分が逃げ出した戦場で必死になって戦っている。
その事を改めて理解した時、彼は己の胸の内に懐かしい想いが燻っているのを感じていた。
孫のように思っていた第一王子が生きていた頃に感じていたものだ。
国に仕え、王に仕え、近衛騎士としての職務に励んでいた時代の名残りだ。
「……わしも、」
――自分も、戦うべきではないのか。
銀色の光に包まれた、未来を感じさせる若者と出会ったせいだろうか。
慣れ親しんだ街が魔物によって襲われた直後の事だ。かつての第一王子の代用品とまでは言わないが、よくよく面倒を見ていた青年が魔物と化した事を知ってから然して時を置かぬ出会いだった。
ならば心が揺れるのも仕方が無い。迷いが生まれても おかしくは無い。
髪の毛が残らず白く染まるほどの老齢、しかし年老いる事で凪いだ感情も未だ完全に死んでいるわけではなかった。血の臭いに包まれた街の片隅で、かつての近衛騎士アグラファが抱いた熱意が蘇える。
しかし老神父は頭を振るった。
胸の内には懐かしき熱意が灯っている。それでも、勇者との口約束を破るほどのものでは無かった。
彼に対して、無事に街の外へ逃げると言ったのだ。此処で口先だけの約束を無視して蛮勇を奮えば、若き勇者は悲しむのではないか。それは、やってはいけない事だ。
老神父は そう考えて自制した。
今は危険に身を晒すべき場面ではない。街の事も、トマスの事も心苦しい。しかし耐えねばならない。これ以上の犠牲者を生み出して、それが何になると言うのか。
年と共に衰えきった己の実力と現状の危険度を鑑みて、至極常識的な判断と胸を押し潰すような心的苦痛を同居させながら重たい息を そっと吐き出す。
その視界に、見知った青年の姿を見た。
「――っ!!!」
口を手で覆って呼吸を止める。
気付かれてはならない。動く死骸の数匹程度なら負けはしないが、戦闘の雑音を聞き付けて他の魔物も寄ってくる可能性がある。そうなれば己に対処可能な範囲を逸脱してしまうかもしれない。
此処で死ぬわけにはいかないのだ。もはや残りの寿命が幾ら有るかも分からぬ年だが、それでも無為に散らしては それこそ犠牲となった者達に言い訳が出来ない。多数の命を見捨てた挙句 無駄死にするなど、かつての近衛時代ならば先任の騎士から拳骨を貰ってしまうような大失態だ。
命を粗末にしてはならない。
生きている限り、より長く生き続けるべく努力を重ねろ。
歯を食い縛って動く死骸を見送る。自分が守れなかった者の顔を強く記憶に焼き付けて、今度こそ街の外へ向かおうと足を動かしかけた、のだが――。
「……まずいぜ」
トマスに続いて、銀色の髪の吸血鬼が現れたのだ。
よくよく観察していれば、彼女等の向かう先は勇者の放つ銀光の発生源。
まさか勇者を狙っているのか。そう考えた自分の頭を、掌で掴み上げるようにして押さえ付けた。
魔王に関して詳しい事は知らないが、魔物が徒党を組む事があるとは知っている。老神父の持ち得る知識で判断しても、魔物が勇者を殺害するために作戦行動をとる事が有り得ないとは言い切れない。
この街の惨状に関しても、最初から勇者を誘き寄せて囲い殺すためのものだったとすれば、この手際の良さにも納得が行く。
まるで何処か虚空から湧いて出たかのような、一切の予兆無き出現と無音の奇襲。
長年の隠居生活で勘が鈍っているとはいえ、かつて騎士職にあったアグラファが単身で逃げ出すことしか出来なかったのだ。あの少女吸血鬼の保有魔力量からして尋常な相手で無いのは分かりきった事ではあるが、なればこそ、此処で見逃し勇者の元へ行かせるわけにはいかなかった。
己は所詮、老い先短い老兵だ。
未来ある若者のために命を投げ出す程度、恐れる理由には到底足りない。
「問題は、勝てそうに無えって事なんだがなあ……っ」
吸血鬼の有する大魔力、量にして およそ神父の百倍ほど。
一体どれ程の手練れであろうか。体格的には貴族の御姫様と呼んでも差し支えない手弱女だが、亜人型の魔物となれば見た目相応など有り得ない。あの見た目で実は百戦錬磨の豪腕である、という可能性もゼロでは無いのだから恐ろしい。
数珠と十字架で拵えられた祈祷具を手先で手繰り、口中で小さく呪文を囁く。
使う魔法は不死者特効の『浄化』『浄火』『墓標』。階級にして中位以上の近衛騎士ならば必ず修める魔法である。
あの恐ろしい銀髪の吸血鬼を、勇者の元に向かわせてはならない。
恐らくは勝ち得ないだろう強大な魔物と戦う決意を固めた老神父は、神聖魔法を用いて戦闘の準備を整える。
そして神父の視線の先、突然 間借りしていた屋敷を飛び出した正一の後を追って歩いていたイスカリオテは、周辺で巻き起こる魔力を察知して眉を顰めた。
「……生き残り?」
眉を顰めた。――が、そこまでだ。それ以上は何もしていない。
イスカリオテは戦闘者ではない。
彼女は召喚執行師。勇者召喚に関しては国の歴史を遡っても頂点に君臨出来るだろう類希なる天才だが、戦いに関する知識など不要だからと教わっていない。ゼロテ同様、彼女もまた戦場では役立たずの部類である。
黒騎士と正一の戦闘に際しては役立ったが、それとて吸血鬼に効果のある魔法の発現を察知したがゆえの咄嗟の機転。正一に必要とされるために気を張っていた状況でなければ、それさえ出来なかったかもしれない。
動く死骸ばかりの街中で魔力の使用を察知した。魔法を扱う知性を宿した何者か、つまりは街人の生き残りが己の近くに居るかも知れない。
――そこまで察していても尚、次の行動に移るまでのタイムラグが大き過ぎた。
「――ちぃっ!」
神父が盛大に舌を打つ。
魔力の察知と ほぼ同時、瞬時に姿を現した老神父が突き出した拳を、イスカリオテの傍らに立っていた従順なる動く死骸が受け止めた。
握り拳の表面に躍る十字架が淡く輝き、見る間にトマスの肉体が黒く錆び付いたように朽ちていく。
「悪いなっ、トマス!!」
次いで逆の手から立ち昇った白い炎。
トマスの全身を軽く舐めるように火炎が奔り、炙るような熱が死肉の表面を乾いた土塊の如く はらはらと散らして消滅させる。
ここに至って ようやく少女吸血鬼が両目を見開いた。
――これは、自身を狙った襲撃だ。
今更ながらに状況を悟ったイスカリオテが、下していた両手を上げて体内の魔力を練り上げる。
しかし彼女の動きは そこで止まってしまう。
戦いの作法など知らない。戦術など思い付かない。彼女は今の自分の状況を、如何にすれば打開出来るのか僅か数瞬 迷ってしまった。
彼女の扱える魔法は九割以上が召喚属性。召喚魔法を使用するには、魔法陣による座標設定が必要不可欠。準備不足の状態で、予測していなかった襲撃を前にして、座標指定などせずとも相手は紛れも無い敵対者なのだから さっさと魔法を使って何処か遠くへと転移させれば良いものを、戦闘全般に対して余りにも疎過ぎるイスカリオテは迷ってしまった。
次に、何をすれば良いのか。そんな単純な疑問で一秒以上の無駄な時間を消費した。
一度でも戦場に立ったのならば、精神の成熟など関係無い。
魔物を相手に、街を滅ぼされた被害者側の人間が攻撃を躊躇う理由もまた存在しなかった。
「――ぁ、」
薄く開かれた唇から声が漏れる。
何を言おうとしたのか、何を願っていたのか。彼女自身にも分からない。
彼女の前に立つ人間は、そんな事に気を取られるような半端な覚悟を持っていなかった。
己が死ぬことを覚悟して、如何に可能性に乏しくとも、未来ある若者の助けになるために その身を投げ出せる男だった。
彼の動きには微塵の躊躇も無く、例え この瞬間に自身の命を奪い得る一撃が自身の老体を打ち砕こうと構わないと思っていた。殺されようとも止まるつもりなど欠片も無かった。
仮に相打ちで終わろうと、とどめを刺すには至らなくとも、物理的にも精神的にも もはや財産と呼べるものを何一つ持たない、老い先短い男の命で先々の平和に貢献できるというのなら、危地に踏み出し力を振るう。
既に騎士とは呼べぬ身だ、しかし彼の精神はかつての気高さを完全に忘れたわけではない。
無数の十字架が舞い踊る老木の如き肉体を己が前方へ投げ出すと、途中で拾い上げていた何の変哲も無い木の枝に都合三種の神聖魔法を重ね掛けした上で、決して仕損じる事無いように吸血鬼の心臓へと突き立てた。
抵抗は無い。魔物の肉体が如何に頑強な作りであろうと、不死者に対して神聖属性を用いた以上、薄紙を突き破るかのように すり抜ける。
武器の良し悪しは関係無い。届きさえすれば、触れさえすれば、墓標の魔法は吸血鬼にとって既に過ぎ去った筈の死を取り戻し再度その肉に刻み込むのだ。
それは、第四号勇者 鈴木雄二が事切れるのと同時同瞬の事だった。
勇者の死骸を見下ろす正一が、呆然と座り込んで黙り込む。
今の彼は何をする気にもなれなかった。
頭の中は真っ白で、理解不能な目の前の状況に意識全てを囚われて、虚脱感に身を任せるのみ。
視界の端では勇者の剣が火で炙られたスポンジの如く ぐずぐずに溶け出していたが、その様子を注視する事も無く、仮に見ていても どうしてそうなるのか理解が出来なかっただろう。
勇者の意味も、適正も、試練も、剣の機能も、第四号勇者の死因も、何もかもが分からないまま。何一つ知ろうとさえせずに此処まで来た。何時だって深い考えなど持たず、その場限りの衝動と、現状からの逃避を望む恐怖心に後押しされて足を動かしていた。
ならば後悔するのは当然だ。
何も悪い事をしていないのに、という言い訳さえ出来ない人喰いの化け物。殺した数など憶えていない。食べた人数を数えた事すら一度も無かった。茫然自失の彼の姿は、きっと自業自得と言うべきものだ。
しかし不幸は終わらない。正一が本当に絶望するには まだ早かった。
地面から銀色の飛沫が立ち昇り、彼の目の前に更なる苦痛が姿を現す。
何処かで見たようなドレス姿。
土で汚れた銀色の髪。
青白い、正一と同じ肌の色。
「いすか……?」
うつ伏せに倒れている少女の名前を呼んだ。
呼びかけても答えは返らず、ゆっくりと震えながら己へと伸ばされる少女の手を不思議そうに眺めていた正一の目の前で、顔の見えないままイスカリオテの腕が地に伏した。
そしてそのまま動かなくなる。
正一は首を傾げた。
目の前の少女は何をしているのだろうか。
うつ伏せのままでは苦しいだろうに、どうして身動きもせず寝転がっているのだろう。
「イスカ?」
そっと手を伸ばして、自身に向けられた腕に触れる。相変わらずの低体温。吸血鬼の冷えた素肌は、真っ当な生き物よりも随分と冷たい。
「イスカ……?」
勇者の死骸の直ぐ傍に、見知った少女の身体が転がっている。
いきなり現われて動かなくなったイスカリオテを、不思議そうに見つめる正一が再度名前を呼び掛けた。しかし返答が無い。何時もならば然して間を置かず答えてくれるのに、気味の悪いくらいに笑顔を向けてくるというのに、これはどうした事だろうか。
伸ばされた腕を優しく掴んだまま、少女の細い肩に手を伸ばす。
正一は勇者が死んだショックから立ち直る暇も無く、意味不明な硬直状態を見せ付けるイスカリオテの身体に触れた。何も理解出来ないまま、動物のように無思慮に動いた。
異様に硬い感触が返ってくる。
それを感じて、少しずつ、正一の呼吸が荒れていく。
何かが起きている。――違う。何か、ではない。間違いなく、正一にとって良くない事だ。
硬い、まるで石でも掴んでいるかのような触感が掌に返ってきた。魔物になったとはいえ少女の肉体が、そんな異質な手応えを返す事など有り得ない筈なのに。
やめろ、と自分の中の何かが訴える。
逃げろ、と自分の中の弱さが嘆いた。
それでも手を伸ばし、力を篭めて、石像の如く重々しい少女の肉体を仰向けに返す。
「……ははっ」
乾いた笑みだけが口を衝く。
可笑しなものなど何も無い。想像していた以上のものが其処にあっただけの事。
真っ黒で光沢のある、人型の石塊。
見開かれた両目は白く濁りきっており、赤く輝くはずの瞳は暗く空けられた穴のように固まっている。
銀色の髪はそのままに、胸元から頭頂部までの皮膚が残らず黒く染め上げられ、触れた感触は見た目通り、艶めいた石ころの それと変わらない。
死んでいる。
間違いなく、イスカリオテは死んでいる。
見間違いなどでは無い。見知った形状そのままに、生命活動を司る主要器官の全てが黒い石と化して固められていた。この状態で生きているとするのなら、吸血鬼という名の魔物は正一の想像以上に化け物だったのだろう。
当然、そんな都合の良い展開は無かったのだが。
「はっ、はっ、ははは、ははははは――」
もはや笑うしかない。
勇者が死んで、イスカリオテも死んだ。
予兆も予感も何も無く、遺言の一つも聞き取れないまま、正一にとって数少ない見知った顔が、容易く死に絶え死骸を晒していた。
撫でるように触れていた掌に力が篭もり、真っ黒な肌が徐々に砕けて土へと還る。最初に罅の入った部分から伝播するように、やがては黒石と化したイスカリオテの全身が ざらざらと崩れて広がっていく。
「はあああっははああああああははあはは」
自分の口から零れ落ちる音が、笑い声なのか悲鳴なのかさえ判然としない。
崩れていくイスカリオテの身体に手を添えれば、触れる端から更に勢い良く形が無くなって うろたえる。これ以上崩れないようにと思って弱々しく支えてみても、逆に その動きが彼女の崩壊を助長させていく。
「ああははははああああはあは」
阿呆のように口を広げ、激情に見開かれた視界の中、真っ黒な土塊に埋もれた彼女のドレスだけが その場に残された。
他には何も残っていない。
かつて見惚れた銀色の髪も、作り笑いで勇者に気に入られようとした顔も、森で泣き濡れる正一を抱き締めてくれた両腕も、――美しいイスカリオテの何もかもが残らなかった。
「あああああああははははは――」
だから正一は笑った。
何も無くなったからだ。今度こそ、自分には何一つ残っていないと理解したからだ。
名前も知らない勇者の死骸と、遺体さえ残らぬ真っ黒な土の山。そしてそれらの傍らで天を仰いで笑い狂う黒髪の吸血鬼。
見る者が居れば きっと誰一人として同情など抱かない、おぞましい魔物の哄笑。
佐藤正一は たった一人で笑い続けていた。
顔に刻まれた碑文の傷痕を淡く輝かせ、赤色の両眼を炎のように滾らせながら。
この世で最も惨めな化け物が、涙を流して虚ろな声音で笑っていた。




