第一部 第二章 4〜5
第一部
第二章
4
午前七時。
およそこの村の子供部屋では、いっせいに目覚まし時計が鳴りはじめる。
小学校は八時三十分、中学校は八時四十五分までに、奈良県立吉野郡三郷共同分校、通称「三校」の校門をくぐらなければならないからだ。
十五分の時間差は、同じ三郷地区の白河村と黒滝村をつなぐ一本道が混雑するのを防ぐためである(これはかつて、小学生だけに義務付けられていたラジオ体操の名残でもある)。また同じ理由から、下校時間も同様の工夫がなされている。
「千尋! チーちゃん、起きなさい! 今日で一学期終わりでしょ! 遅刻するわよ!」
いっこうに鳴りやむ気配のない二階の目覚まし時計の音に、母親の南原千鶴子が階下から苛立った声をあげた。しばらくして、
「……オキテルワヨ……」
ひとり娘の気怠そうな、そして反抗的な姿勢を色濃く滲ませた返事が返ってきた。目覚まし時計の音が止まったのは、さらに十秒ほどしてからだった。
本日は終業日。午前で下校になるので、弁当の用意はしなくていい。午後の授業がない日は、親も楽だし、子供たちも身軽だ。しかも、これから約一か月半は弁当から解放されることになる。
三校は、中学校はもとより、小学校も給食制ではない。構内に調理場を設けるスペースはいくらでもあるが、栄養士や調理士、そして食材の確保が難しいからだ。市の給食センターへの依頼や、完全給食制とまではいかないまでも、おかずのみの捕食給食制や、村の商店と協力して乳製品のみ配膳するミルク給食制も検討されてはきたものの、学生数や配送の兼ね合いで採算が合わず、断ち消えになっている。
キッチンに取って返した千鶴子が、ガチャガチャと音をたてて朝食の用意をしながら、こっちに話を振ってくる。
「ねえ、あんたも千尋に注意してよ」
テーブルで新型農耕期のカタログを見ていた(途中から見ているフリをしていた)夫の耕平は、その剣幕に気圧されてしかたなく顔を上げた。
「ん? なにをだ?」
林業の仕事から帰るころには小綺麗にしているが、いまはまだパジャマ姿のスッピンアラフォー女が見下ろしている。素は悪くないのでそのほうがずっといい、と耕平は思っていた。美意識が高いのもけっこうだが、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し、ということだ。
「最近、あの子、たるんでると思わない? このままだと大学どころか、高校もろくなとこいけないわよ」
「まだ小学生だぞ」
「なにいってるの。いまからがんばらないとダメなのよ。それにどこで油売ってるのか、ここんとこ帰りも遅いし、ヘンなオトコも村をうろついてるみたいだし、あなた心配じゃないの」
尖った語尾に合わせて、朝食の皿がボンと置かれる。ベーコンとスクランブルエッグ。一応、亭主のぶんもちゃんとある。
耕平はほとんど毎朝、妻子が起きる前に朝食をすませてから農作業に出る。今朝も自分でとろけるチーズを載せてトーストを食べたが、ひと仕事終えて小腹が減っていたのでありがたい。そう。彼女は農作業以外なら、まあ、やることはやってくれている。
千鶴子も自分のぶんを持って席につく。
「ヘンなオトコ……。ああ。あれは旅の途中に立ち寄っただけの、ただの旅人だよ。斉田も確認したらしい。それより明日から夏休みだろ。また去年みたいに友だちと図書館で勉強ってパターンじゃないのか。そんなに心配することないさ」
「だ・か・ら・ね」
千鶴子は、まるで幼児に話して聞かせるように言葉を区切ると、あとはつっけんどんにいい放った。
「夏休みであろうがなかろうが、私は千尋の生活態度のことをいってるのよ!」
朝からひとり農作業を終え、収穫した農作物を公民館の前に置きにいき、これから林業に向かおうという亭主に対して、この女は思いやりや労いの気持ちってもんはないのだろうか――いや、もうないのかもしれない。
長年にわたって生じた夫婦間のヒビ割れは、そのたびに修復してこなかったせいで、いまや亀裂にまで発展している。このままいずれ、完全に分裂してしまうかもしれない。チェーンソーなどなくても、糸ノコひとつでどんな大木でも倒れてしまうように。
千尋が階段を下りてくる足音がしたので、夫婦の朝の会話はそこで打ち切られた。
耕平は千鶴子が出した朝食に手をつけないまま、木を伐り倒しにいく仕度にとりかかった。
5
午前八時。
「いってきまーす」
「いって、きまぁーす!」
真央と由美子の快活な声に、
「いってらっしゃい。気をつけてね」
見送りに出てきた晶子が微笑みながら応えた。が、玄関を閉める刹那、その顔にひと筋の翳りが射すのを真央は見逃さなかった。
ふたりとも小学六年生。同じ毛利姓だが、実の姉妹ではない。真央は父、雅治の妹の子。
自分だけ異質な、もっといえば特異な存在――。
だからそれも致し方ないことなのだ。叔母が複雑な表情を見せるたびに、真央は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
自転車の前カゴにサブバッグを収め、スタンドを蹴り上げたとき、ポンッ、と由美子が真央の背中を叩いた。彼女とて、そのことは先刻承知で、そんな微妙な空気が流れたときは、いつもこんな感じでフォローしてくれる。ふたりは笑顔で頷き合うと、元気よくペダルを漕ぎだした。
村道から三校へ向かう一本道のところまでくると、水色の制服を着た駐在所のおまわりさんに軽く手を振りながら道を折れる。学校まで十分ほどだが、すでに汗が胸のあいだを伝い落ちていく。
髪をなびかせ、真央は周りの山々を見上げた。
陽の光をいっぱいに浴びている山、逆光で稜線が浮かんでいる山、さらに遠くに連なる山々……。
山並みは折り重なり、四季折々、時間や天候によって微妙に色彩を変えながら、田んぼと畑しかない山村にふさわしい景色をもたらしてくれる。絶対的な力強さで、時に厳しく、時に優しく、毎日見ていてもちっともあきない。
そして……母もこの景色を見て育ったのだ。
そう思うと、いつも心がやすらぐのだった。
やがて一本道が田畑を抜けて木立ちにさしかかると、真央は深呼吸するように樹々の香りを胸いっぱい吸い込んだ。気持ち好い。体じゅうに自然のエネルギーをチャージしている感じだ。大音量のセミの多重奏も、夏ならではのもの。そう考えれば嬉しくなってくる。
ここからはペダルの力を緩め、スピードを落とす。この時間なら急がなくても充分間に合う。木の幹や枝が創りだすバーコードのような明暗のなかを走り抜けるうちに、すこしずつ汗が退いていく。
全体的に周囲の自転車のスピードが落ちると、「通知簿が心配だぁ」とつぶやきながら由美子が真央の横に並んだ。頭を振って、顔にかかった髪を除ける。それよりいくぶん長い真央は、片手で髪を搔き上げた。ふたりともいま、髪を伸ばしている最中だ。
Tシャツはどちらも汗で濃淡が出ているものの、下はふたりともデニムのショートパンツ。晶子は、脚を露出するのを(特に高学年になってからは)あまり好まないが、この解放感は終業日にピッタリだ。
「ま、終わったことは仕方ないか。それより、シノラ―、宿題たくさん出すかなぁ」
由美子の切り替えは早い。
「小学生最後の夏休みだから、五年生のときよりずっと少なくするって、こないだ廊下でいってたよ」
「アリガタイッ! 去年は最後の最後にふたりで徹夜したもんね」
そうだった。昨年の夏休みは図書館に通ってはいたものの、ふたりともRPGゲーム(シノラ―こと担任の篠原先生お勧めの旧作。現行のゲームに比べるといろいろショボいのだが、そこがまたよかった)にハマって宿題など後回し。結果、とうとう最終日までもつれこんだのだった。
「よし、今年こそ前半に終えて、後半ゆっくり遊ぼう……ってもさ、なんかおんなじセリフ、もう五年間もいい続けてきた気がするよ」
由美子の軽快な口調に真央は笑った。
そう。彼女にはいつも救われている。
ここまでくると、ほかの児童たちも列を崩して友だちと話しながらゆっくり走っている。
同学年の優花と唯などは、昨夜のテレビドラマの話に夢中になっていて、後ろから追いこそうとしているガリ勉で有名な(運動神経はからっきしの)垣迫雅子にも気づかない様子だ。おかげでいつも渋面の雅子の眉が、さらに狭まって一筆書きしたような波線になり、それを由美子が真似したものだから、真央は堪えきれずに噴きだした。
しかしその結果、スマートフォンのイヤホンで音楽を聴きながらさらに前を走っていた小松正一が振り返り、結果、後ろにいた優花と唯がとっさにブレーキをかけ、雅子はその一瞬の隙をついて横をすり抜け、正一まで追い越すという(体育の時間でもお目にかかれない)早業をやってのけたのだった。
みんなおおかた陽に灼けて、男子のなかには真っ黒けの子もいる。女子は気を遣っている子が多いので様々だが、それにしても不健康なくらい白目立ちしている南原千尋が、息を切らしながら真央と由美子の横に並んだ。
スパンコール付きのオレンジ色のTシャツに、キャメル色のキュロットスカートという、ちょっとオシャレな格好なのに、顔の表情はやけに暗い。
「おはよう……」
声も凍てついたみたいにかぼそい。
真央と由美子は思わず顔を見合わせた。
最近、彼女の様子がちょっとおかしい。学校が終わって一緒に帰ろうと誘ってもすぐには帰らないし、遅い時間に陰森のほうから歩いてくる姿を何度か目撃している。
「……マオ、今日も神社にいくの?」
真央は、亡くなった母がよくお参りにいっていたと聞いて、小学校に上がったときから、ちょくちょく大神神社に出入りしている。そのことは三校のクラスメイトだけでなく、村人全員の知るところであり、また真央が通いはじめたのが、ちょうど無人だった神社に宗方が宮司としてやってきて一年くらいしたころのことで、以来なんとなく雑務の手伝いをするようになっているのも、周知の事実だった。
「うん。お盆の神事や秋の収穫祭の準備とかもあるしね」
大神神社は宗方の意向で、基本的に神仏や宗派を分け隔てしていない。彼自身、仏教にも造詣が深く、神仏習合のような立場をとっている。なので通例神事である秋の収穫祭の前に、祖先の御霊を鎮める神事も行っている。
由美子が「フフン」と鼻を鳴らす。
「マオはさ、宗方さんのこと、歳の離れたおニイさんみたいに慕ってるもんね。……いや、違うか。ひょっとして恋心か」
「な!」
由美子を牽制しようと真央が口を開きかけたとき(といっても、由美子が場をもたせるためにわざといったのはわかっていたが)、千尋がポツリとつぶやいた。
「あたしも……いっていいかな」
驚いた。千尋がそんなこというなんて、はじめてだ。断る理由はないが、でもどうだろう。山道はたいしたことないけれど、神社にいる時間を併せると往復で三時間はかかる。
真央が返事をためらっていると、由美子が助け船を出した。
「でも、チヒロさ。親、許可してくれる?」
「そう。そこ。ユミのいうとおり」
「うん……それは、大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
それならまあ、いいか。
「……じゃあ、授業終わったら相談しよ」
反対側からやってくる白河村と黒滝村の児童たちの自転車に注意しながら、真央は応じた。ちょうど、三校の隣の三郷図書館とのあいだにある駐輪場に着くところだった。
駐輪場は、校庭に近い場所からどんどん埋まっていってしまう。対面にある駐車場はいつもたいていガラガラなので、そこに置いてもいいのだが、なるべく空けておくよう指示されている。三人は自転車を降り、なるべく校舎寄りのスペースを探した。




