プロローグ
プロローグ
1
そのふたりと言葉を交わそうとする者は、ほとんどいなかった。
男は表情を失していたし、少女は美しかったけれど、これまた歳に不相応な暗澹たる雰囲気を身にまとっていたからだ。
ふたりとも着のみ着のまま。身なりもかなり薄汚れていて、これで都会の駅や公園にいればホームレスに見紛えそうだが、このあたりには鍾乳洞や川の奇岩などの景勝地があるので、親子で遊んでいたとすればさして違和感はなかったし、彼らに気づいた者もいるにはいたが、一風変わった父娘くらいにしか思わなかった。
じつのところ、いまのふたりにしてみれば、そんなことはどうでもよかった。周りの人間はみな、どれも同じ。死んで、肉が腐れば、骨となって朽ちていくだけ。
灰から灰へ――
それ以上でも以下でもなかった。
女人結界の門の前で、男はゆっくりと少女を振り返った。少女はためらいもせずに門をくぐると、気丈な目をして山頂に向かうなだらかな斜面を見上げた。男はほんのすこし左脚を引きずるようにしながら少女の横に並んだ。
下山してきた登山者たちの幾人かは好奇の目を向けてきたが、男はまるで気にならないようだった。持ち物はそれぞれデイパックと小さめのリュックサックのみ。山登りをするには少々心許ないが、奇異な視線の理由がほかにあることを男はよく承知していた。
案の定、
「大峯山は、女の人は登れませんよ。たとえ子供でもね」
下山してきた中年の男性が、訳知り顔で声をかけてきた。
男は相手を一瞥しただけで返事もしなかったし、相手は相手でこれ以上かかわるべきではないと判断したのか、そのまま歩み去っていった。
八月に入り、大峯山は登山シーズンの真っ盛りだった。
二〇〇〇メートルほどの山だが、古来から修験道の聖地として栄え、いまでも夏になると、全国から人が集まり、開基である役の行者に因んで〝行者講〟なる登山ツアーのメッカとなる。奈良、和歌山、三重にまたがる参詣道や霊峰が世界遺産に指定されてからは一般の観光客も増え、このときばかりはふだん静かな登山口の洞川村も、宿が満員になるほどの賑わいを見せる。
また、この一帯は空海ゆかりの逸話や義経伝説なども残っており、さらには山岳信仰に根ざした、いわゆる独特な〝気〟のようなものが漂う土地柄のせいか、パワースポットとしても人気が高い。超常的な話や未確認飛行物体の目撃談も数多く存在し、時には山間がオレンジ色の光に包まれたりする日もあるらしく、異世界説からUFO基地説など、そちらの方面でも幅広く人を惹きつけている。
この日は盆や休日と重ったこともあり、登山道はかなり混んでいた。
夏の強烈な陽射しと蝉時雨のなか、次々やってくる登山者たちのなかには彼らを訝しむ者もいたが、あながちそれが少女を連れているという理由だけではないことを、男はよく心得ていた。
男は、ちょっと心配そうに少女を見やった。
まるでこの世の果てを旅してきたような、ひどい顔をしている。きっと鏡を見れば、俺も同じような顔をしているだろう。
そう、微笑みは死んだのだ。いまはどうすることもできない――。
「いこうか」
男がつぶやくと、少女は小さく頷いた。
ふたりは一歩一歩、踏みしめるようにして山を登っていった。
2
しばらくのあいだ、少女は風になびく草木の音や部屋が軋む音にさえおびえ、夜もうなされて目を醒ますことが多かった。男が横にいるのを見つけると、いくぶんほっとした表情を浮かべるものの、それでも身体の震えは止まらなかった。
「大丈夫だよ。もう終わったんだ」
男はそのたびにそう言い聞かせたが、外が明るくなるやいなや、あたかも夜を終わらせようとするかのように、少女はすぐさま起きあがって障子を開けた。
朝焼けに照らされた周囲の山々が借景となり、石と砂利だけの庭園は素朴だが美しい眺めだった。しかしそれは男の心に巣くっている地獄絵のような情景とのギャップを痛切に感じさせた。
どうやら彼の悪夢もまだ、完全には終わっていないようだった。
ふたりが寝起きしている宿坊は、大峯山の八合目あたりに位置していた。
男はここにくるまでに片っ端から宿坊を当たっていったのだが、どこも登山客や行者講の予約でいっぱいだと断られ(もっとも対応に出てきた寺の者はみな、まずふたりの身なりを見、次に少女に目がいっていたが、彼はその理由を信じることにした)、ここもなかばダメ元で訪ねてみた古寺だった。
ところがここの住職は(ふたりを見たとたん、あからさまに驚いた顔をしていたが)、満員になってもいつも一部屋だけは空けてあるという部屋を提供してくれた。
男が礼を述べると、老齢のわりに背筋がぴんと伸びた住職は、落ち窪んだ眼窩の奥からふたりを見据えるようにしていった。
「好きなだけいるとよろしい」
寺全体は木造の平屋だが、敷地はかなり広く、役小角(役の行者)を御本尊として祀った本堂と、六室の日本間がある宿坊と、それとはべつに住職らの住まいがあり、敷地内の庭園は寺男によっていつもきれいに手入れされていた。
男は身支度を整えると、縁側に立って、本堂から庭伝いに聞こえてくる住職の読経に耳を傾けながらタバコ(麓でカートン買いした加熱式たばこで、少々歯の黄ばんだ住職はこの部屋限定で許可してくれた)をくわえた。
身なりに関していえば、ふたりとも登山前に衣服や最低限の日用品は購入していたし、ここにきて風呂に入って小ざっぱりもしていたので、よくいる親子連れと変わらない程度には復活していた。この山で、連れているのが女の子ということを除いて。
そろそろほかの部屋から洗面所に向かう宿泊客が出てくる時刻だが、ここは廊下のはずれのいちばん奥の部屋なので彼らが行き来することはなく、好奇の目に晒されないで済むのはふたりにとってもありがたかった。
朝食をすませると、男と少女は山歩きに出かけた。
山頂なので陽射しはきついものの、下界ほど猛暑ではなかった。鬱蒼とした樹々に行者札が貼られた登山道は修験の道そのものだが、さらにルートをちょっとはずれただけで、古の修行者たちが縦横無尽に深山を駆け巡っていたころに利用したであろう、岩窟や巣窟なども発見することができた。
動植物も豊富で、クマにこそ遭わなかったものの、キツネやタヌキ、なかでもシカは毎日のように見かけた。男の左脚は徐々に良くなり、少女がしばしば時間を忘れて過ごすお気に入りのも見つかった――住職の話によれば、役の行者や空海が長いこと修行のために籠もっていた場所らしく、たしかに独特の霊気が漂っているような気がした。そもそも日本古来の山岳信仰においては、山そのものが神域であり、曼荼羅的な世界観、つまり山での修行は死と再生を意味するというからそれも不思議ではなかった、
ふたりは日暮れとともに宿坊に戻った。
夕飯は朝食同様、寺男が厨房に用意してくれたものを自ら部屋に運び、食器を戻すときにまとめて洗った。風呂も最後にいただき、掃除をしてから出るようにしていた。厚意で居させてもらっているのだから、できることは自分たちでやると決めていた。
それがここでの日課だった。
3
しばらくすると、男はテレビのニュースと宿坊に遅れて届く新聞のチェックをはじめた。
といっても、彼が期待しているようなニュースはすぐに発覚するような場所で起きたものではなく、それらしい記事が紙面に載ったときには、ここにきて一週間以上が経っていた。
意外と遅かったな、というのが男の率直な感想だった。
おそらく、あのメンバーのうちの誰かか、あるいは郵便や宅配便、ゴミの定期回収などに携わっている人々からの情報で明るみに出たのだろう。
そう。村にはもう、誰もいないはずだから。
少なくとも生きている人間は――。
男は思いのほか小さく扱われている記事に目を通すと、少女に見えるようにテーブルの上に新聞を広げた。彼女は瞳を大きく見開き、睫毛を震わせながら行を追った。この程度の報道で終わってくれればいいと願う反面、ふたりともそうはいかないことは覚悟していた。案の定、その翌日には早くもテレビで大きく取り上げられていた。
【山村で大規模火災発生・住民は全員消息不明】
NHKのローカルニュースは、そんな見出しからはじまった。
中継地点は、警察の黄色い《KEEP OUT》のテープが張られた村の入り口付近からだった。変わり果てた村の姿は、まるで異界の地のようだった。報道のヘリコプターからの空撮した映像に切り替わると、少女は静かに涙を流した。まるで自分が泣いていることに、気づいていないかのようだった。
だが、それは良い兆候でもあった。なんせ、つい今し方まで、その涙さえ忘れていたのだから。男はそれが嬉しかった。
ここにきてようやく、ふたりとも恐怖を克服するとまではいかなくても、受け容れることができそうだった。
問題は――
男は、自分たちが容疑者にされることなど、まったく恐れていなかった。
それに関しては細心の注意を払ってきたつもりだし、それ以前に犠牲者が発見されなかったせいか、さほど大きな事件としては扱われていなかったからだ。男はむしろそっちのほうが気に入らなかった。
――あの夥しい数の死体はいったい、どうなったんだろう。
NKHのニュースは、およそ五百人にのぼるであろう村人の情報等はついぞ語られないまま、政治家の汚職事件が不起訴になった件の続報へと移っていった。
民放のワイドショーにチャンネルを変えると、消息不明となっている村の住民をめぐって、いかにもワイドショーらしい推理を展開しているところだった。スタジオにはオカルトやUFOの専門家たちがあらかじめ米ンテーターとして呼ばれていて、パネルに用意された【世界各地で起こった大規模な失踪事件】に推移しながら各自意見を述べていた。
NHKよりも民放のワイドショーのほうが興味を示すであろうことはわかっていたものの、男は苦笑まじりに吐息をついた。
しかし、予想をはるかに上回る速さで、このニュースは終息していった。三日後には、火災による行方不明者の発見に全力を挙げるという警察の公式発表があり、それ以降はほとんど取りあげられることもなくなった。
それはふたりにとっては願ってもないことだったが、やはり男はどうにも気に喰わなかった。
警察は事件性を充分把握しているはずだった。にもかかわらず詳細を伏せたのは、捜査に影響するからか。それとも――。
4
数日後、少女は自ら長い髪にハサミを入れた。住職は男の子のようになったその姿を見て、本堂で行う読経に同席を許した。彼女は般若心経をスラスラと唱えることができ、住職を驚かせた。
いつしか少女は、悲鳴をあげて目醒めることもなくなった。
それはたいそう喜ばしいことではあったが、反面、男の胸のうちでは複雑な想いが交錯していた。
5
宿坊を出るとき、住職は頑として宿泊料を受け取らなかった。
男と少女が感謝の意を述べると、住職は笑いながらいった。
「ここへきたときは山人にでもなりそうな面持ちだったが……そうかね。里人に戻りなさるかね」
山人とは文字どおり山に暮らす者、一方、里人とは里に暮らす者を意味する。
遥か昔、国が統治される際、山人の多くは里に下り、里人とともに農耕を営むようになったが、なかには山に残る者もいた。その後、道教や仏教が渡来し、日本古来の山岳信仰と結びついて、ふたたび両者が交流するようになるまで、山人は俗世とかけ離れた独自の世界観で生きていたという。各地に残る天狗や鬼の伝説は、そうした山人に対する里人の差別意識から生まれた話であることが多い。
「ええ。なんとかなりそうです」
男の答えに、住職は二度深く頷くと、穏やかに笑んだ。
落ち窪んだ眼窩の奥に覗く眸は、澄んだ水面のように静かだった。最後まで事情を訊かれることはなかった。
彼にも山人の血が流れているのかもしれないな、と男はふと思った。山里で暮らす人々のなかには、山人の末裔がいても不思議はなかった。
老齢のわりに背の高い住職は、わざわざ山門まで見送ってくれた。
あれから一カ月以上が経っていた。
やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、山は秋の色に染まりつつあった。




