お人好し
細川の持つスプーンの動きが止まる。
左隣の誠から、右隣にいる兎衣に視線を移した細川は、「……もうやらない」と間を置いて小さく頷いた。不安げだが、その顔には情けない覚悟が滲んでいる。
「でも、どうやってばにぃちゃんが……」
兎衣はその目をじっと見つめた後、背筋を伸ばして得意げに口角を上げてみせた。
「――実は私、細川さんの奥さんと飲み友なんだよね」
兎衣はLINEを開き、大量にあるトークルームをしばらく遡ってから、細川の妻、紗季のアカウントを細川に見せる。
「知り合いが勤めてるマッチョバーの卓でたまたま隣になって、それ以降三ヶ月に一回くらいのペースで飲んでるの。お子さんいるから、頻繁には会えないけど」
「ええ!?」
聞いてないけど!? と細川が愕然とする。
この街は意外と狭い。紗季が飲みながら旦那の愚痴を言い、細川の写真を見せてくれたことがあるので、紗季イコール細川の妻であるということは以前から知っていた。
おそらく細川はガールズバー、キャバクラ通いを紗季には隠している。客の情報をべらべらと他人に話すのもまずいので、今のところは、細川がOnlyに通っていることについては紗季には黙っている。
「最近会ってなかったし、紗季さんのことまたマッチョバーに誘ってみて、会えたらうまいこと言って誠先生の病院に連れて行く」
「紗季……マッチョが好きだったのか…………」
細川がショックを受けたように自身のぽっこりお腹を服の上から擦っている。
「ただし、こんなことするのは一度きり。細川さんがもし同じ過ちを犯したらその時は見捨てる。分かった?」
「わ、分かった。でも何でばにぃちゃんがそこまで」
俯いていた細川がようやく顔を上げ、不可解そうに兎衣を見た。
兎衣は、曖昧に笑う。
「……両親の不仲は子供に影響するし、隠し通せるなら隠した方がいい……と私は思ってるってだけだよ」
子供がいないなら二人の問題だが、子供がいるなら話は別だ。
隠すことが正しいことだとは思わない。でも、父親の浮気で家庭が壊れた経験のある兎衣からすれば、せめて子供が家を出るまでは、偽りのうえでも家族を成り立たせてほしかった。
その夜、細川とはいつもより早めに別れた。誠から妻のリスクの話をされて気分が乗りきらなかったらしく、店を出る最後まで、珍しくいつもの細川とは様子が違っていた。さすがに心配になってきたのだろう。
兎衣は、偶然出るタイミングが一緒になった誠の隣を歩いて帰っていた。
夜パフェ専門店を出ると、空気は一段と冷たくなっていた。わずかな雑音がするのみで、静かな夜である。
兎衣はコートのポケットに手を突っ込んだまま、隣を歩く誠に目を向けた。
「……何か言いたそうな顔してますね、さっきから」
「あれでいいとは思えない。お前、俺には浮気の隠蔽だとか何とか言って噛み付いといて、自分も加担しようとしてんじゃねぇか」
「やっちゃったものは仕方ないですもん。やらないのが一番ですけど」
誠はポケットに手を突っ込んだまま、正面を見据えて歩いていた。吐く息の白さが寒さを物語っている。
「言っとくが、うちに来てもし陽性だったら結果は伝えさせてもらう。虚偽の病名を言うことはできない」
「はい! それはもう、細川さんのせいなんで! その時は観念してもらいます」
兎衣はあっさりと言って、街灯の下で少しだけ笑みを見せた。
誠が足を止める。
兎衣も立ち止まって誠を見上げた。
街灯に照らされた誠の顔は少し呆れているようだった。誠はしばらく黙っていたが、やがて深くため息をつく。
「……言いたいのはそれだけじゃない」
「な、何ですか」
「お前、他人の家庭に深入りしすぎだ。自他の境界線を履き違えるなよ。何かあったら責任取れるのか」
「何かあった時は、頑張って謝ります!」
赤信号の下でどーん! と胸を張って答える。吹き抜けた冷たい空気が兎衣の前髪を揺らす。
「……お前……」
隣から、ぼそりと声が落ちる。
「何ですか?」
兎衣が小首を傾げると、誠は前を向いたまま目だけを横に向け、
「アホなんだな……」
失礼なことを言ってくる。
憐れむような口調だが、その声にはさっきよりも温度を感じた。
「妹を思い出す」
「えっ! 妹さんいるんですか? どんな方ですか?」
「アホだよ。お前みたいな」
食いついて問いかけた兎衣に、誠は初めて少しだけ笑った。昔を懐かしむような、どこか遠い目をしながら。
「なんですかその雑な説明! ていうか、アホって言うのやめてください!」
兎衣がぷくっと頬を膨らませてむくれるのを見て、誠は足を止めた。
しばらく無言のまま考え事をするように立ち止まっていた誠は、ぽつりと言った。
「――俺も、そのマッチョバーに行く」
「……えっ?」
兎衣はきょとんと誠を見上げる。
「俺がいた方が、話の流れで病院に連れてきやすいだろ」
「ええ!? わざわざ付き合ってくれるんですか!? マッチョバーまで!? あそこ、男性客はほぼキャストにガチ恋のゲイしかいないので浮くと思いますよ? それに、お忙しいんじゃないですか?」
「まともなルートに進んだ医者と違って、俺は暇だ」
自嘲気味に笑った誠の横顔を見ながら、兎衣はふと千香子の言葉を思い出していた。
――『伊達に水商売長くやってないから、いい人か悪い人かは見れば分かる』
千香子は本当に人を見る目があるのかもしれない。
誠はいい人というよりは、それを通り越しておそらく、お人好しだ。




