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月落ちる森  作者: 小湊世月
Ⅴ 毒花の狼

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67 突入

 廃れた漁港のにおい。と誰かが評した。

 腐った海水のような生臭いにおいに、鉄錆が混じった異臭が地下へと続く階段から漂っていた。

 暗い通路の先は淀んだ空気が渦巻き、思わず入るのを躊躇してしまう。


「下水の方じゃなくて良かったね」


 くぐもった声で感想を述べるアルを振り返れば、腕で鼻を隠して顔をしかめていた。五感が敏感な獣人の中でも、特に鼻が利くアルにとっては拷問に近い。


 念のため、においを直に吸い込まないように鼻から口元を派手なスカーフで覆っているけれど、フル装備の騎士たちに囲まれていると、捕まった強盗にしか見えないのが難点だった。


 戦う相手が獣人だと分かった時点で、獣人が嫌がる罠を仕掛けているだろうことは予想していた。実際その読みは当たって、正面入り口から突入した部隊は、閃光玉やら催涙玉やらの熱烈な歓迎を受けた。


 騎士団の輸送馬車にはそのような相手にも対応できるよう、魔法強化されたマスク、盾、鎧、兜などの装備品が用意されている。

 歴戦のエリート獣人部隊がその程度で怯む筈もなく、浄水施設に潜伏していた傭兵達はあっさりとお縄になった。


 施設内の安全を充分に確認してから、隊長のヴェイグさんの許可を得て、私たちはようやく施設内に入ることができた。

 部隊の突入時に多少踏み荒らされたものの、地上部分は何の変哲も無い施設だった。――この異臭さえなければ。


「ここで合ってるんだよね?」


 隣に居るラヴィアに問うと、彼女は訝しげに眉をひそめた。口元はスカーフで隠れているが、青い大きな目は雄弁に驚きを語る。


「前に来た時はこんなじゃなかった。前は研究所の職員も沢山居たのに……。それに、こんな酷い臭いはしなかったわ」


「前に来たのっていつ頃?」


「五日前よ。と言っても、私が入れたのはここまでで、地下の研究室までは行ったことないの。いつもここで当面の生活費を貰って、レニの容態を聞いたりしてた」


「職員が居ないのは妙だな。既に研究所を引き払った後かもしれん。いずれにせよ、進んでみないことには分からない。準備ができ次第、地下に潜る。医療班の手配を急げ。――誘拐された者達が残っていればいいのだが」


 隊員に指示を出しながら、ヴェイグさんが苦々しく呟いた。

 誰も口には出さないけれど、おそらく全員の頭の中には最悪の想像が渦巻いていると思う。

 消えた人達、血に似た鉄錆のにおい。動物への実験が終われば、次は……?


 不安げに階段の奥を見つめるラヴィアの背中をぽんと叩くと、びくりと肩を震わせてこちらを見た。だいぶ肩に力が入っているようだ。


「隊長! 警邏部隊に傭兵共の身柄を引き渡しました」


 隊員の報告を受けて、ヴェイグさんは腕の通信機を弾いた。砂嵐のような音の後に、駐屯地のリヴォフ団長が応じる。


「十八時二十二分。これより地下研究所に突入する」


『了解。戦神の加護を!』


 通信の向こう、団長の声の裏に聞こえる怒号と剣戟が、戦いの激しさを物語っていた。





 ***





 猛スピードで視界を過ぎて行く街並みに、走馬灯ってこういうのかしらとぼんやりと思いながら、アンジェリカは操縦者の背中にしがみ付いていた。


 銀色の鋼鉄馬がブオンと爆発音に似た咆哮を上げる度に、街行く人々が慌てて道を開ける。騒がせて申し訳ないとは思うけれど、彼の背中の温もりにアンジェリカの心は弾んでいた。


 今日に至るまで、なかなか進展しなかった二人の関係も急激に動き始めている。

 普段、手紙はなかなか返ってこない。返ってきても、話す言葉以上にぶっきらぼうで、冷たく突き放されているように感じる。

 重くて面倒な女だと思われているのだろうか? 

 そんな事を思いながら、毎日祈るように彼の返事を待っていた。


 そんな折、何ヶ月かぶりに届いた返事を手に、浮かれるアンジェリカに声をかけたのが、セリアルカだった。その夜の女子会で聞いたお出掛けの話が、今はこんな大騒動になっている。

 ――そういえば。とアンジェリカは記憶を遡る。


 フィリアスとエルミーナの婚約が正式に決まったのも、セリアルカとエルミーナが事件に巻き込まれたことがきっかけだという。

 どちらもセリアルカが直接何かをしたわけではないが、彼女と関わり始めた途端に、止まっていた運命が好転した気がする。


 ――月女神(ルーネ)って、自覚の無い縁結びの神様なのかしら?

 それにしては、本人は初心で脳筋だし、ちょっと仕事が荒い気もするけど……。


 アンジェリカは微笑ましい気持ちになって、密やかに笑みを零した。

 このまま真っ直ぐ駐屯地に向かうと思いきや、鉄馬はキューッと苦しげに鳴いて足を止めた。慣性に従って彼の背中に胸をぎゅっと押し付ける形になるが、彼はそれどころではないらしい。


 女慣れしているのか、この手の誘惑には一切乗ってもらえない。アンジェリカとしては自分の武器が活かせていない気がして複雑な気分である。もちろん、お互い貴族の子女だし、清い交際でなければいけないけれど。


「なんだ、ありゃあ?」


 彼の背中越しに前方を見ると、煉瓦造りの街並みの向こうに、古い石造りの砦を改築して作られた駐屯地の見張り台が見えた。その向こうの空はまだ明るい白夜の空にしてはやけに暗く霞んでいる。


「土煙……かしら? 午後になって雨が蒸発して乾燥してるのかも」


「それだけならいいけどよ……魔物が溢れているってことは瘴気混じりだろう? 俺は半分魔族だから大丈夫だが、普通の人間には障るんじゃねぇか?」


 ドッドッと武者震いのように鼓動する鉄馬の背の上、ライルの決断は早かった。道の端に魔導二輪車を寄せるとスタンドを立てて降りた。ヘルメットを脱ぐと、まだ乗ったままのアンジェリカに投げ渡す。

 掻き上げた黒髪の下に覗くピンク色の瞳がやけに色っぽくて、アンジェリカは紅潮する頬を隠すようにヘルメットを抱きしめた。


「……仕方ねぇな。二回目だし疲れるからやりたくねぇけど」


 渋滞列を抜ければ通りを歩く者は誰も居ない。街に住む人々は家の中に引っ込み、嵐が通り過ぎるのを待っているようだ。静まり返った街に魔族の子が紛れ込んでも、咎める者は誰も居ない。


「――シュセイルの祖神、天つ風と蒼き炎を纏いし戦神の子。嵐と雷霆を司りし雷神に請い願う」


 低く謳うように紡がれる呪文が、一陣の風に攫われる。自由な風を従えんとする術者を嘲るように、暴風がライルの身体に纏わりついた。抗う風を押さえつけるその顔は好戦的に歪み、魔力を帯びた双眸は禍々しい真紅に光る。


「来い!」


 吼えて天に突き上げたライルの拳に紫電が疾る。俄かに暗くなった空に暗雲が渦巻き、ゴロゴロと雷鳴が轟き始めた。暗雲は風を纏って移動し、駐屯地の上空に急速に拡がると豪雨となって降り注ぐ。土煙に瘴気が混じった黒い靄は洗い流され、役目を終えた暗雲はあっという間に霧散した。


「流石に二回目ともなると威力が下がるなぁ……。まぁ瘴気を吸い込んで寝込むよりかはマシだろ」


 魔物の体内で生成される瘴気は、人間が大量に吸い込むと発熱や咳などの症状が出る。抵抗力が弱っていると重篤な症状になることもある。


「ふふっ……」


「な、なんだよ」


 思わず噴き出したアンジェリカに、ライルは首を傾げる。


「なんでもなーい! ほらほら、行きましょ!」


 薄っすらと虹が架かる空に、大聖堂の鐘の音が朗らかに響いた。

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