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月落ちる森  作者: 小湊世月
後編 Ⅰ 遠足の狼

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48 くさいものって嗅ぎたくなるよね

 風も無いのにザワザワと森が蠢き、太陽の視線を遮るように高く枝葉が伸びていく。

 暗い森は怖い。あの大雨の夜の光景が脳裏を掠め、心が騒めいている。


 にこやかな笑みを浮かべて私の顔を覗き込む男の目には、纏わりつくような昏い欲が見え隠れしている。足元から冷たい何かが這い上がるような悪寒に震えて、私は心を落ち着けるためにベルトに差した短剣の柄を握りしめた。


「名前は? いくつ? 出身はどこ? ……恋人はいるの?」


 こういった一見好意的なアプローチが、実は一番怖い。

 ひとつ対応を間違えれば、鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てられ、あっという間に悪者にされる。

『冗談のわからない奴だ』『ちょっとぐらい付き合ってあげればいいのに』何も知らない人は、そうやって背中から言葉のナイフで刺していることに気が付かない。


「悪い奴らはもう捕まえたよ。君、怪我はしていないかい? こちらへ来てよく顔を見せて。……怖がらなくていいよ。俺はもう牙が抜けているから」


 ――だとすれば、何故私だけに言うの?

 私がまだアルの腕の中に居るにも拘らず、彼はまるでアルが見えていないかのように、私だけに向けて言葉を重ねる。明らかにアルを挑発している。


 こんな安い挑発に乗ってくれるなよと、彼の顔を見上げれば、意外にもアルは平然としている。私の視線に気がつくとアルは穏やかな笑みを浮かべて私の額に口付けた。


「お気遣い感謝します。ですが、この娘は僕の婚約者なのでどうぞお構いなく」


 私の頭に頬を寄せて、刀の鞘を掴んだ腕でぐっと抱き寄せる。鍔にかかった親指が薄く鯉口を切り、必要があればいつでも抜くぞと誘う。

 気にしていない風を装って、めちゃくちゃ気にしてる! 挑発に挑発で返すなんて……。


 騎士は、そこでようやくアルに目を向けた。ふうんと胡乱げにアルを上から下から眺めて、また人の良さそうな笑顔を見せた。


「へぇ〜婚約者ねぇ? ……番犬じゃなくて?」


 膨れ上がる濃厚な殺気に森が揺れた気がした。

 しかし、それは破裂することなくみるみるうちに萎んでいく。騎士の背後から差した巨大な影に、彼の辿る運命を覚ったからかもしれない。


「任務中にナンパとは貴様も偉くなったものだな?」


 地を這うような暗く低い声に、騎士は笑顔のまま固まり、ぎぃ〜っと音がしそうなぎこちなさでゆっくりと振り返った。


「た、隊長〜! 冗談ですよぅ。弟君があまりにも必死ににおいを擦り付けてるから、ちょっとからかっただけで……」


「そうか。ガキをからかう余裕があるなら、伝令に走れるな? 今すぐ学院まで走って、昼までに戻って来い」


「そ、そんなぁ〜! 横暴だー!」


 ヴェイグさんから書類を押し付けられて、騎士は情け無い声を上げながらも、栗色の狼に姿を変えて走り去った。

 においって……さっきの乱暴なハグのこと?

 真意を確かめようにも、アルはまだ警戒を解かずにヴェイグさんを睨みつけ、先ほどよりも露骨に威嚇していた。


「さて……」


 部下の後ろ姿を見送り、ヴェイグさんはため息をつく。懐から煙草を一本取り出して咥えると、太い親指でオイルライターを弾いて火をつけた。


「集合! 整列!」


 一服の後、発せられた号令に、エリーとアンを含む私たち七人は、バタバタと一列に整列した。ヴェイグさんことセシル教官は、そんな私たちの前を檻の中の猛獣のように行ったり来たりしながら、一人一人の顔を睨みつける。


「自らを囮に、わざわざ危険に突っ込み無理矢理騎士団を動かしておきながら、お咎め無しだとは思っていないだろうな?」


 ディーンとフィリアスの前で立ち止まり問う。王子と護衛としての義務は果たしたが、生徒と教官としては話が別のようだ。

 氷雪に鍛えられし森の巨人は、二人の王子の前に泰然と立ちはだかる。立ち向かうは炎の王子。


「申し訳ありません。全て私が画策しました。罰を受ける覚悟です」


「策に乗ったのは自分の判断です。自分にも非があります」


 間髪入れずに助太刀したディーンに全員の視線が集まった。煙草を咥えたまま、ほうと呟いてセシル教官は目を細める。そのまま無言で睨み合うことしばらく。短くなった煙草を弾き、灰を落としてフッと笑う。


「…………次からはもっと上手くやれ。お嬢さん方を巻き込まないようにな」


 全員がホッと息を吐き、罰を回避したと思いきや。


「まぁ、それはそれとして、罰は受けてもらう。ディーン、フィリアス、ヒースは反省文レポート用紙二十枚と今回の作戦の問題点と対策をレポートにして提出。期限は十日後だ。一日遅れる毎に腕立て千回を追加する。ヒース、反省文だ。わかっているな? 前回の恋愛感動巨編のような怪文書を書いたら、大公殿下に仕送りを止めてもらうからな」


 天国から一転、課題地獄に叩き落とされた三人は『うわあぁー!』と頭を抱えた。

 嘆く三人を横目に、セシル教官はアルと私に向き直る。アルの挑戦的な視線を一笑に付し、にやりと口角を上げた。


「アルファルド、お前はこれから十日間、俺と柔術の稽古だ。何も知らされていなかったセリアルカ、非戦闘員のエルミーナ、アンジェリカは不問とする」


「有情な処分に感謝する」


 アンとエリーが抱き合って喜ぶ横で、アルの表情はまだ固いままだった。私はまだきちんとご挨拶できていないことに気がついて、離れようとするヴェイグさんを呼び止めた。


「ご挨拶が遅くなりました。セリアルカ・リーネと申します」


「セシル家三男、ヴェイグだ。先程は部下が済まなかったな。暗殺者と一戦交えた後で、血のにおいで嗅覚が鋭くなっているんだ。許してやってほしい」


 見た目のいかつい印象ほど威圧感は受けず、アルとよく似た緑の瞳は木漏れ日のように穏やかだ。軽く会釈してヴェイグさんは新しい煙草を咥える。

 ……やはり、私のにおいが気になるのだろう。


 獣人はその鋭敏な感覚で、知りたくない情報まで知ってしまうことがある。感覚を鈍らせるために、お酒や煙草を嗜むうちに量が増えて身体を壊す者が多い。

 握手のため差し出された手を握ろうと手を出すと、その手をアルに乱暴に掴まれた。


「……相変わらずだなアル。そんな態度だから、未だに仔犬扱いされるんだ」


「誰にどう思われようが構わない。セラは僕を月神(セシェル)と認めたんだ。兄さんじゃない!」


 突然話を向けられて、私は戸惑いながらアルに加勢する。


「えっと……こんな大きい仔犬はいないと思うので大丈夫だと思います!」


 声を張って元気に答えたものの、求めていた回答と違ったのか、アルはガックリ脱力して私の肩に額を乗せると大きく息を吐いた。何故かヴェイグさんも顔を背けて噎せている。


「……まぁ、そういうことだから。父上に心配いらないって言っておいて」


「ああ、わかった。……別の意味で心配だけどな」


 最後にやけに実感の篭った一言を残して、ヴェイグさんは報告のため街道で待機している本隊に戻った。


 幸いにも街はここから三十分程の場所にあるそうで、騎士団から馬具を借り受け、四頭の馬に分乗して街に向かうことになった。

 散々走った後なので馬の歩みは遅かったが、そのおかげで景色や空気を十分に楽しむことができる。


 森の道案内のために先頭を行く私とアルで一頭、続いてフィリアスとエリーで一頭、ヒースが一頭、そしてディーンとアンで一頭という分け方になったのだが、それが後にあらぬ誤解を招くことになるとは、その時は考えもしなかった。


 街道のように舗装されてはいないが、轍が残り人の往来がある小径に出ると、街が近付いた気がしてようやく気分が上向きになった。近くを流れる小川のせせらぎも耳に心地良く、やっと遠足らしくなってきたなぁなんて思う。


 水のにおいに、ふと先程の話が気になって、後ろに座るアルを振り返る。すぐに「どうしたの?」と返すアルに疑問をぶつけてみた。


「私、今朝ちゃんと薬飲んだのに効いてないのかな? 自分ではよくわからないんだけど……」


 思い切って聞いてみたところ、アルは深刻そうな顔で考え込む。


「……くさいってこと?」


「セラがくさいわけないだろう!? 君はすごく良いにおいがするよ! 許されるなら全身嗅がせてほしいよ!」


 許すわけないだろうが! 君、正体がバレてからなりふり構わなくなってないか?


「やめてください。ヴェイグさんを呼びますよ?」


「セラが冷たい!」


 くさくないなら良いけどさ……。いや、良くないな。

 背後から抱き締めすんすん嗅いでくるこの狂犬を見てると、色々と悩んでいたことがどうでもよくなってしまった。

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