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月落ちる森  作者: 小湊世月
Ⅸ 満ちる月の狼

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35 満月の夜の小さな舞踏会

 反論を放棄した沈黙は肯定と同じ。そう言ったのはたしかアルだったと思う。その沈黙が、レナリスを縛る主人の正体を明かした。


「君は、今後どうしたい? やっぱり私の血と牙が欲しいの?」


 私の質問にレナリスは首を横に振った。


「それなら、私以外の別の獣人女性を狙う気?」


 その質問には、何の反応も示さなかった。

 ――沈黙は肯定と同じ。

 自分の心は否定しているけど、主人が命じればやらざるを得ない。そんなところだろうか。


「君が本当にラヴィアを思うのなら、獣人女性を襲う前にラヴィアを止めるべきだ。彼女に罪を犯させてはいけない! 今ならまだ救えるでしょう? 助けが必要なら協力する。囮が必要なら私がやろう。だから君も自分がどういう決着を望んでいるのか、よく考えてほしい」


 その言葉が彼の胸に届いたかはわからない。ただ「囮って、どうしてそこまで……」と呟いた彼の良心を信じたい。


「……明日は満月だ。獣人は一旦お休みだろう? 一晩冷静に考えて、僕らの協力が必要なら明後日の午後六時に図書館の裏に来い。必要無いというのなら、今後僕らは君らの事情を一切考慮することはない。……それでいいね?」


 アルの提案に、レナリスと私は頷いた。

 巻き込むなと言っていたのに、助けを求められれば協力する気らしい。でももし助けを拒むなら、こちらは一獣人として通報するなり然るべき対応をすると言っている。


 ヒースの事件の時もそうだったけれど、なんだかんだと文句を言いながらも助けを求められれば手を貸してくれる。逆に、必要とされなければ、目の前で溺れていても一切手を出さない。アルの判断基準は理屈がわかれば明快だ。

 悪い奴じゃないんだけど、気難しい奴だなぁと半ば呆れてしまう。


 抱えるように隠すように私の背中に手を回して、腕の中に閉じ込めるアルは、「セラが協力するって言うから仕方なくだからね? 囮になってもいいだなんて言うから……」と言い訳がましく呟いた。……素直じゃないなぁ。


 方針が決まった頃には寮の門限はとうに過ぎ、白夜の空も日が暮れて、辺りはすっかり闇に包まれていた。

 まだ浅い夏の空に浮かぶ月は丸々と膨らんで、暗い湖の水面にその黄金を散らす。月から水面に伸びる歪な光の橋は波に揺蕩い、その行き着く先は月神の末裔にもわからない。


 月神と月女神の末裔として、同胞である彼らをどこに導けばいいのか、満ちていく月の下、私たちもまた考え続けなくてはならない。





 ――そして翌朝。


 疲労に寝不足も相まって、半分魂が抜け出た私は、なんとか眠らずに授業を乗り切ると、終業の鐘と共に転がるように教室から飛び出た。

 今すぐにでも獣化してしまいそうな嫌な予感がしたので大急ぎで寮の部屋に戻り、バスルームでさっと身体を洗うと、私服に着替えて、エリーに書き置きを残して部屋を後にした。


 女子寮の前で待っていたアルと顔を合わせた途端、安心したのか気が抜けて倒れ込んだ。そのまま意識を失った私が、次に目を覚ましたのはログハウスの中だった。


 自分が思っていたよりも、身体は参っていたらしい。こんなに具合が悪くなるのは、アルに拾われた夜以来だ。

 アルの目の前でぶっ倒れてしまったので、きっと相当驚いたに違いない。後で謝って、よくお礼を言わないとだ。


 丸太が組まれた天井から視線を部屋の中に移すと、私が寝かされていたベッドの傍に、真っ黒で巨大なもふもふの塊が鎮座しているのが見えた。


 新種の魔物かと思いきや、よく見れば何のことはない、オリオンとディアナが寄り添って団子のようになって眠っている。二匹とも体毛が夜を凝縮したような漆黒なので、目を瞑るとどこがどうなっているのか、よくわからない謎の毛玉と化してしまう。

 私は呼吸で小さく動く魅力的なもふもふにダイブしたいのをぐっと堪えて、二匹を起こさないように静かにベッドから起き上がった。


 遮光の分厚いカーテンの隙間から外を窺うと、ログハウスを囲む森の空には夕闇が迫っていた。初夏のこの時期の日没は午後九時頃。寮を出たのが五時だったから、随分と長い時間眠ってしまったようだ。

 私はアルを探してログハウスを出て、隣の温室へと向かった。


 深い森の中にひっそりと佇むガラス張りの温室は、森に溶け込むログハウスと違って、いくら樹々に隠れようとその異質さは決して森とは交わらない。

 ガラスの向こうに透けて見える常しえの夏は、この北国の森には不似合いで不気味にさえ感じる。


 明かりが落とされて薄暗い内部の様子は、外からは窺い知ることはできない。私は昨夜見た怖いぐらいに咲き乱れるバラを思い出して、やや気圧されながらガラス扉の取っ手に手を掛けた。


 鍵は開いていて、キィと甲高い音を立ててドアが開いた。夕焼け色に染まる温室の中、バラの木の影が黒々とした影を落とす。落日を映して俯くバラの花々はどこか寂しそうに見えた。


「アル? ……いるの?」


 私の自信無さげな声が温室の中に飲み込まれていく。しばらく待ってみたけれど、彼からの返事は無い。聞こえなかったのだろうか?

 アルが寝ている私を置いて遠くに行くとは考えられないので、おそらく中に居るはずだけど、こんなに静かだと不安になる。

 私は後ろ手に扉を閉めて温室の中を探してみることにした。


 ガラスの天井を見上げるとバラのアーチの向こうに、夕焼けの空が見える。顔を上げた瞬間、バラの香りがふわりと鼻腔に届いた。

 夕暮れに沈む温室の中は茜色の水を湛える水槽のようだ。馥郁たるバラの香りがじっとりと纏わりつき、まだここに昨夜の熱が残っているようで息苦しい。


 バラのアーチを潜り、木の間を通り抜けて大理石のガゼボがある広場に辿り着く。クッションを枕にベンチに横たわるアルの姿をみとめて、私はホッと息をついた。

 石が敷き詰められた円形の広場は、周りをバラの低木がぐるりと囲んでいる。ガラスの天窓から落ちる茜の光がスポットライトのように照らし、温室の主のために誂えられた舞台のようだった。


 私はアルが眠るベンチに腰掛けて、夕焼け色に染まる白金の髪を指で梳かした。閉じた白い瞼に伏せられた長い睫毛が小さく震える。


「……セラ? 具合はどう?」


 指を絡め取られ引っ張られて、そのままアルの胸に折り重なるように身を寄せた。私はアルの胸に頭を預けたまま小さく頷く。耳を寄せると彼の心臓の鼓動が聞こえた。


「大丈夫。ありがとう」


 アルは目を閉じたまま「そう」と呟いて、私の髪を撫でる。私は彼の胸に耳を押し当てたそのままの姿勢で茜色から濃紺へと移りゆく空をしばらく眺めていた。

 撫でる手がいつの間にか止まり、小さな寝息が聞こえる頃には日は完全に落ち、満月が夜空を明るく照らした。


「……時間だ」


 呟いて、温もりから身体を引き剥がす。


「セラ?」


 引き留めようとするアルの手を遮ってガゼボを出ると、バラの枝葉から零れ落ちる満月の光が私の身体を照らす。体表から銀色の光が舞い上がり獣化が始まった。


 月を迎えるように頭上に挙げた手は銀色の光を纏い、私の身体は少しずつ月光に透けていく。

 満月は怖い。けれど、私という存在が希薄になるこの光が怖いと思ったことは無い。この瞬間、私は身体からも解放されてどこにも属することのない自由な私となれるから。


「綺麗だ」


 月光が落ちるバラのステージに影が差す。月明かりから隠すように抱き竦められて、月に伸ばした腕を彼の背に回した。


「君に見せたかったんだ。この時だけは、獣人で良かったと思えるから」


「……今にも消えてしまいそうなのに?」


 銀色の光が舞って、肌を滑り落ちていく。まるで銀色のドレスを着ているかのようにふわりふわりと宙に舞う。頬に掛かる私の髪が黒から銀色に変わったのを見て、アルは息を呑んだ。


「そういえば、すっかり忘れていたけど、そろそろダンスの練習を始めないといけないんじゃない?」


 彼の手に手を重ねて、もう一方は腰だったっけ? それっぽいポーズをとってみると、ふふっとアルが困ったように笑って腕の位置を修正した。


「音楽が無いとやりにくいね。ヒースにピアノでも弾いてもらう?」


「あいつのピアノは楽譜通りに弾けたことがないから、頼むならディーンだね」


 アルのリードに合わせてゆっくりとステップを踏むけれど、これであってるのかわからなくて、なんだか可笑しくなって笑い出してしまった。


「あはは! これでいいのかな? 私たちちゃんと踊れてる?」


「笑わないの。真面目にやって?」


「だって、おかしいもの!」


 そういうアルも笑い出して、何度も中断することになった。寄り添って踊っている間に私は完全に狼に変わってしまって、最終的にアルは大きな狼を抱っこして踊る羽目になってしまい、初回のレッスンは散々な結果に終わった。


 おそらく人生の中で、最も楽しい満月の夜を過ごした次の日の夕方、私とアルは図書館裏でレナリスが来るのを待った。

 けれど、門限の時刻まで待っても彼は現れなかった。


 その日から、レナリスとラヴィアは学院から忽然と姿を消してしまったのだった。

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