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形なんかどうでもいい《浜松町》

紗久良との別れ、そしてよどんでいく心。沈殿する泥は凛の心に重くして押しつぶしそうになっていく。それを浄化したのは凛が女の子になった時、彼女のために尽力した担任教師の言葉だった。

 終着駅『浜松町駅』に滑り込んだモノレールの車両は滑らかに停止してドアを開くと同時に外から流れ込む構内の熱気と喧騒が凛の涙の幻想を現実に引き戻した。


 霞む視界のまま車両を降りるとJR線に乗り換えるためにエスカレーターに向かって歩き出したのだが現実に引き戻された筈の心はまだ涙を止める事は無く、頬を伝う雫を拭いながら歩く彼女の姿に奇異の視線を送る者達が何人かいたのだが彼女はそれを気にすることはなかった。何故なら、今流れ落ちている雫は自分の内側にこびり付いた垢のような蟠り(わだかま)だと感じられたからだ。これは絞り出してしまわないといけない心の深部に沈殿した泥なのだ……このまま放置したら自分はその中に沈んでしまうだろう。外に吐き出す事が出来ることが有る意味救いでそれが出来なくなった時、紗久良との繋がりも途切れてしまうだろう。目詰まりを起こした心は抱えきれない質量を処理できなくなり、崩壊してしまうのだ。


 下りエスカレーターのステップに立ちJR線の改札に向かう凛の視界は相変わらず滲んでいる。それはどこまで続くのか分からない深い森の中を彷徨っている錯覚を感じさせた。本で読んだことが有るが、明治の頃、青森県にあった陸軍第五連隊が冬の八甲田山で寒中訓練を行った結果、大暴風雪に見舞われて目的地までの進路を見失っい、参加人数二百十名中、百九十人が亡くなると言う世界最大級の遭難事故を起こしたのだ。一泊二日の訓練計画だったが結局十一日間雪山を彷徨い続けた彼等の視界はこんな風ではなかったのかなどど変な事を考えると自分も凍り付きそうになったが、その後に出てきたのは担任教師が紗久良と凛に送ってくれた言葉がそれを阻止する。


「愛は義務でも強要でもない、これからの展開は時の流れに任せるしか無くてその結末がどうなるのか、先が長すぎて正直先生にも分からない。だけど今の気持ちを否定して引き裂くべき理由を先生は考えつかなかった、だから堂々としてればいい。愛に年齢は関係無いさ、りょう寛和かんおしょうの初恋は七十歳の時に押しかけて来た四十歳年下の貞心ていしんだって言うしな」


 正直な話この言葉を聞いた直後の凛と紗久良にはこの真意を理解する事が出来ずに二人で顔を見合わせた後、考え込んでしまったのだが、教師の言葉はゆっくりと解け始め、凛の心に同化し始めているような気がした。


 ――愛は義務でも強要でもない……そして時は長い。


「そして、形などどうでもいい」


 ゆっくりと面差しを上げる凛の頬にはまだ透明な尾を引きながら雫が輝く。それは今までの蟠りにまみれた物では無かった。心の濁りがゆっくりと消え100%の透明度を取り戻した瞬間、凛は微笑藻を取り戻すと同時に自分と紗久良は量子もつれの関係に有ることを再認識した。自分の思いは瞬時に紗久良に通じるのだ。物理学の法則で説明することも、いや、人の思いは方程式で証明することなど出来ないのだ、だから難しくもあり爽やかでもあり熱くもあり純粋なのだ。担任教師が言いたかったのはそれではないのか。そう考えたらなんだか学校と言うのは色々なことを教えてくれるまるで魔法の箱なのではないかと言う気がした。退屈な授業も心を開いてよく聞けば、それは自分のみらいの指針になるのではないかと感じられるのは今だけなのかもしれないが、少しは授業にも身を入れようとも思ってみる。なんだか頭の中がとっ散らかってしまっているがそれが不快ではない、そして不思議だとも感じられない。それが自分なのだ、そして形などどうでもいいのだ。


 妙なおかしさがこみ上げて来る。その中でなんとなく分かったような気がした。僕は紗久良が戻ってくるまでに自分を仕上げておかなければならないのだと……いや、仮に未完成だったとしても……未完成の可能性の方が高いのだが、仕上げるための努力は怠らなかった事実だけは見せられるようにしておかなければならないのだ。少なくとも、傑と同じ高校に滑り込みでも補欠でもいいから合格しておかなければならない、話の全てはそれからなのだが、まずは部活に心血を注ごう、今年は中学生活最後のコンクールが控えている、いつものまぁまぁよかったでは無くて、結果を残しておきたいと凛は本気で感じた。そしてそれが未来に繋がり、紗久良に見せられる仕上がりまでの努力のような気がしたのだが、ちょっとした不安の隙間風がちょっとだけ吹き抜けた。


「――分かってもらえなかったらどうしよう」


 まぁ、ほぼほぼそんな事は無いとは思う、紗久良の聡明さはここ最近磨きがかかってきている。日本を離れる緊張感がそうさせているのかもしれないが、頼りになる感が日に々増してもしもこのまま今の学校で三年に進学していたら学級委員長に抜擢されるのではないかと言うくらいの勢いだった。今までの彼女は引っ込み思案なところが有って反対する者がいれば自分の意見を引っ込めることが有ったのだが、女の子になった凛との関係を深めていくにつれて内向きさはゆっくりと消えて行き、主張するところは主張し、しかし思いやる感性を一番大切なものと考え笑顔に輝きが増した。姉のような存在に進化しつつある紗久良、彼女は帰国したときにどんな情勢になっているのだろう。もしかしたら帰国しないとか言い出さないだろうなと言う不安が心をよぎって行ったが自分が彼女を引き戻すと凛は強く誓った。


 浜松町駅のホームに発車を知らせる『JRE-IKST-010-01』のメロディが響く。この時間帯の山手線は一本位見送ったとしても目的地への到着時刻は五分と変わらない。だから駆け込む必要などなかったのだが、凛はホームドアが閉じる直前の車両に滑り込んだ。確実に駅員に怒てしまう行為だが、それは彼女の高揚感を表していた。


『駆け込み乗車はご遠慮ください』


 車内に響いた放送に凛は思わず頬を真っ赤に染めた。それは定常的に行われる危険防止のための放送なのだが自分が名指しで叱られたような気がして思わず肩をすくめて小さくなりながら背中を丸めて席に座ると乗客の視線が自分に集中しているみたいな気がして冷たい汗が額に滲んだ。そして心に誓う、いくら調子に乗ってたとしても、電車の駆け込み乗車だけは一生やらないと。紗久良に仕上がりを見せると誓ったのと同じくらいに強く金剛不壊こんごうふえな誓いだった。

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