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ヴェルナ霊導録 ――環の静寂  作者: 桐原 朔


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第一章 低脈席 第一話「王都」

都市とは、流れの上に人が積み上げたものである。流れは都市を知らない。

――『大陸地誌概論』序文より 王暦百三十二年

 王都アークレアが見えたのは、馬車が丘の頂を越えた瞬間だった。


 御者は何も言わなかった。

 だからカイン・グレイは、自分でそれに気づいた。


 窓の外いっぱいに、灰白色の建造物群が広がっていた。

 その中心に、ひときわ高く突き出た塔がいくつも立っている。霊導塔だと、すぐにわかった。塔の上部には術式環が幾重にも巻かれ、昼間でも薄く発光している。遠目にも、それとわかる光だった。


 カインは窓枠に手をかけ、少しだけ身を乗り出した。


 九年ぶりの長距離移動だった。

 ラギールから王都まで、乗合馬車で三日。奨学生向けの通達に同封されていた券で乗れる便は、四人掛けの狭い車内に人を詰め込んだような造りで、向かいに座った中年の商人はずっと眠っていた。隣には母親と幼い子どもの二人連れがいて、子どもは最初の半日だけ泣き続け、その後は静かになった。


 カインはほとんど眠れなかった。

 馬車の揺れのせいだけではない。


 王都に近づくにつれて、足元の感覚が変わっていた。


 霊脈が、濃くなっている。


 地殻の下を流れる霊脈は、流れが太い場所ほど地表への影響が強くなる。ラギールにも霊脈の支流は通っていたが、ここまで強くはなかった。あの日でさえ、流れそのものはもっと細かった。王都の地下を流れるのは、大霊脈の本流に近い支流だ。その律動は馬車の車輪越しに、微かに、しかし確かにカインの足裏まで届いてきていた。


 気持ち悪い、とは少し違う。

 ただ、落ち着かなかった。


「着くぞ」


 御者の声が外から聞こえた。

 馬車が速度を落とし、地面の感触が土から石畳へ変わる。王都の大路に入ったのだとわかった。


 街は、音でできていた。


 馬の蹄の音。荷車の軋み。商人の呼び声。子どもの走る足音。

 それらが重なって、ラギールとは比べものにならない密度の音の層を作っていた。


 カインは馬車を降り、荷物袋を肩にかけ、しばらくその場に立った。


 大路の両側に建物が連なっている。石造りの二階建て、三階建て、その隙間に木組みの屋根がはみ出している。建物の壁には等間隔で霊導灯が取り付けられていた。昼間は点灯していないが、灯の中心に術式環が刻まれているのが近くで見るとわかる。夜になれば霊脈から魔素を引き出して光る仕組みだ。


 路面にも術式が走っていた。


 大路の中心線に沿って、石畳に細い術式線が刻まれている。荷重分散のための安定式だと、後で知った。重い荷車が何台通っても石畳が割れないように、霊脈の力を借りて石の強度を底上げしているのだ。

 そういう術式が、王都のいたるところに組み込まれていた。霊脈魔法は戦うためだけにあるのではない。都市そのものが、霊脈の上に成り立っている。


 カインは大路を歩き出した。


 学院への道順は頭に入っていた。

 大路を北へ向かい、中央広場を抜け、王城のある丘の手前で東へ折れる。そこからしばらく行けば、学院の正門が見えるはずだった。


 中央広場に出たとき、霊導塔が正面に現れた。


 広場の奥、王城へと続く大路の両脇に、二本の塔が立っている。

 王都中央霊脈観測塔――王国の霊脈管理の中枢であり、王国内の霊脈変動を常時記録している施設だ。高さは学院の観測塔の比ではなく、上部が霞んで見えるほどだった。術式環が何層にも重なり、昼間でも青白い光を放っている。


 その光が、広場全体に薄く届いていた。


 石畳の上を歩く人々の顔に、青みがかった光が落ちている。

 商人も、行商人も、貴族らしき装いの人間も、誰もその光を気にしていなかった。当たり前の景色として、そこにある。


 カインは立ち止まり、塔を見上げた。


 足元の律動が、また少し強くなった気がした。


 広場の石畳の下を、霊脈が流れている。王都の中心部にいるのだから当然だった。わかっていても、体は正直だった。足裏から膝にかけて、重いとも違う、じんわりとした圧がせり上がってくる。


 カインは意識して呼吸を整えた。

 慣れれば落ち着く。いつもそうだった。


 学院への道は、広場から東へ折れてすぐに細くなった。


 大路の喧騒から離れると、街の音が一段下がった。行き交う人の数が減り、代わりに学生らしき年齢の者が増える。背中に大きな荷物を負っている者、手に案内状らしき紙を持っている者。今日が入学日だから、同じ目的地へ向かっているのだとわかった。


 細い石畳の道を進むと、前方に石造りの塀が見えてきた。塀に沿って歩き、やがて正門が現れる。


 王立霊脈学院の正門は、石でできていた。


 切り出したばかりの白さではない。

 長い年月が染み込んだ、灰がかった白だった。門柱の両脇には術式環が刻まれており、霊脈の流れを常時読み取る観測式が、薄い光の膜を張っている。近づくと、肌がわずかに粟立つような、圧力とも振動ともつかない感覚があった。


 カインはその感覚を知っていた。


 ただ、今日のそれは、これまでより強かった。

 膝のあたりまで来ていたじんわりとした重さが、少しだけ上へ移動した気がした。


「ねえ、大丈夫?」


 声をかけられ、カインは振り返った。


 女子生徒が立っていた。同い年くらいで、赤みがかった茶色の髪を後ろで束ねている。旅用の外套をまだ脱いでおらず、小脇には数冊の本を抱えていた。心配そうにカインを見ている。


「顔色、悪くない?」

「そうか」

「うん。なんか……青いというか」


 彼女は少し首を傾げた。


「荷物、持とうか?」

「いい」

「じゃあ座る? あそこの塀の縁、座れそうだけど」

「座るほどじゃない」

「そう言う人に限って限界だったりするんだよね」


 彼女は困ったように眉を下げた。


「私、医療術とかできないんだけど、でも放っておくのも」

「脈酔いだ」とカインは言った。「少し待てば落ち着く」

「脈酔い?」


 彼女は目を丸くした。


「霊脈が濃すぎると酔うの?」

「人によっては」

「へえ……」


 彼女はしばらくカインを見ていたが、やがてうなずいた。


「じゃあここで少し待とう。私もちょうど休憩したかったし」

「付き合わなくていい」

「いいの。荷物が重くて足が痛いだけだから」


 そう言って、彼女は門柱の脇にどかりと座り込んだ。外套の下から肩紐を引っ張り出すと、たしかに大きな鞄が現れた。本に着替えに道具類、全部詰めたら入りきらなくて、と小さくこぼしながら、地面に下ろす。


 カインも反対側の門柱に背をもたれた。


 しばらく、何も言わなかった。


 門の前を、同じように入学者らしき人間が通り過ぎていく。連れ立って歩く二人組。きょろきょろと辺りを見回している一人。明らかに緊張して顔の硬い者。いろいろいた。


「リナ・ソルト」


 彼女が言った。


「観測科。あなたは?」

「カイン・グレイ。戦術科」

「どこから来たの?」

「南部。ラギールという町」

「ラギール……」


 リナは少し考えるような顔をした。

 何か言いかけて、やめた。


「遠いね」

「リナは?」

「東側。王都から馬車で半日くらいのところ。だから今日が初めての王都なんだけど」


 彼女は広場の方を振り返った。


「あの塔、すごくない? 遠くからでも光って見えた」

「王国の霊脈管理の中枢になっている」

「知ってる。でも、知ってても実物見るとちょっと圧倒されない? 絵で見るのと全然違う」


 カインは少し考えてから答えた。


「そうかもしれない」


 実物を見たのは、彼も今日が初めてだった。


「ていうか」とリナは続けた。「学院の中にも観測塔があるんでしょ? 観測科はあそこで実習するって聞いたんだけど」

「たぶんそうだ」

「高いのかな。高いところ苦手で」

「観測科を選んだのに?」

「霊脈の波形を読むのは好きなんだよ。高さは慣れると思って」


 少しばつが悪そうに笑う。


「慣れるよね、たぶん」

「慣れるといいな」

「慣れる、慣れる」


 彼女は自分に言い聞かせるように二度言った。


「絶対慣れる」


 足元の律動が、少しずつ落ち着いてきていた。


 霊脈の圧に体が慣れてきたのか、あるいは意識が別の方へ向いて気にならなくなったのか、それはわからない。ただ、膝のあたりまで来ていた重さが、足首の近くまで退いていた。


「そろそろ行けそうだ」

「ほんと? 良かった」


 リナは立ち上がり、鞄の肩紐を持ち直した。


「思ったより重いなあ、この鞄。本に着替えに道具類、全部詰めたら入りきらなくて」

「何をそんなに」

「必要そうなものを全部。判断を誤ったよ」

「図書室で借りればよかったな。本は」


 リナは一瞬黙った。


「……そうだね」

「それに気づいたの、今か」

「今」


 カインは何も言わなかった。

 リナは少しだけ唇を尖らせたあと、自分で笑った。


 二人で正門をくぐった。


 内側は、外から見た印象より広かった。中央に石畳の広場があり、その奥に本棟の建物が構えている。入学者の列が受付机に向かって伸びており、列の端では数人が立ったまま話し込んでいた。


「あれが観測塔?」


 リナが本棟の屋上を指した。


 細長い塔が、正門からまっすぐ伸びる石畳の突き当たりに立っている。


「ほんとに細い」

「術式環が上部に集中している構造だから、下は細くて済む」

「詳しいね」

「少し調べた」

「私も調べたけど、そこまで覚えてなかった」


 リナはしばらく塔を見上げていた。


「上、登ったらどんな景色なんだろ。怖いけど、見てみたい気もする」


 カインも塔を見た。

 術式環が昼間の光の中でも薄く発光している。


「行こう。受付が混んでいる」

「うん」


 二人で列の後ろについた。


 前に並んでいた男子生徒が振り返る。背が高く、少し緊張した顔をしていた。胸元の通行札に「魔法戦術科」と書かれているのが見える。


「戦術科?」


 そう聞かれ、カインはうなずいた。


「俺はそう」

「良かった。同じ科だ。知り合いいなくて心細くて」


 男子生徒は少し息をついたように言った。


「トル・ハセン」

「カイン・グレイ」

「リナ・ソルト。私は観測科」


 リナが横から続けると、トルは少し目を丸くした。


「観測科か。頭良さそう」

「そんなことない。本を持ちすぎて後悔してる」

「え、なんで」

「必要そうなものを全部持ってきたけど、図書室で借りればよかった」

「それ気づくの遅くない?」

「今日気づいた」


 トルは笑った。

 つられてリナも笑う。


 カインは二人のやりとりを聞きながら、列がゆっくり動き始めるのを感じていた。


 足元の律動は、まだそこにあった。

 ただもう、落ち着いて感じ取れる程度になっていた。


 王都の霊脈は、ラギールとは比べものにならないほど濃い。

 学院の中は、さらに濃いだろう。

 四年間、ここで過ごすことになる。


 体が慣れるかどうかは、まだわからなかった。

 だが少なくとも、ここでは流れから目を逸らしては生きられない。

 そんな予感だけは、はっきりとしていた。

2026/3/12 改稿

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