第93話 『悪夢に堕ちる』
「だいじょーぶだよ、アーカディアにはスマホもないし。……なんだか寝る前についついスマホ触っちゃう習慣、無理やり矯正されちゃった気分。いや、おかげで夜はぐっすり眠れるようになったんだけど、素直に喜べないよぉ」
「確かに……俺も同じだ。ゲーム世界に閉じ込められる強制デジタルデトックス——うーん、大仰すぎるな」
そもそもゲームの中とは言ってみればデジタルそのもの。アーカディアにいるうちはデジタルデトックスもなにもあるまい。
もっともいくら視界の端にHPやSPのバーが常に浮かび、なにもない手にインベントリの虚空から一瞬にしてアイテムを現すことができるのだとしても、アレンたちにとってここはゲームに近しいだけの現実だ。
「遠隔でメッセージを飛ばすチャット機能とかもないし、ゲームの中ってんならもうちょっと便利にしてほしいもんだよなぁ。……ノゾミ?」
「……すぅ」
寝っ転がりながら隣のベッドに目をやると、もうノゾミはすやすやと寝息を立てていた。なぜか既に寝相は崩れており、大地を讃える古代民族の儀式を思わせるダイナミックなポージング。
苦笑しながら、アレンは音を立てぬようベッドを出ると、ノゾミのベッドに近づく。そして、あまりにも警戒心を欠いた隣人の寝姿に手を伸ばし——
剥がれてしまった掛け布団を直してやり、自分のベッドに戻る。アーカディアで風邪なんて引かないのかもしれないが、などと心中でつぶやきなから。
(俺も、とっとと寝ないとな。大変な一日だったけど、シグレたちの協力を得て、エルも権能が使えるとわかった。大きな前進だ……)
——バベル攻略は順調に進んでいる。
心配することなどなにもない。パンドラについてはまだ楽観視できる状況ではないが、『スクワッド』とエルの『関数殺し』は大きな助けになるだろう。
パンドラを倒す勝算はある。
倒す。パンドラを倒す。それはゲームオーバーにするということ。
……そのためのバベル攻略。この箱庭の輪廻を脱するには、ループを実行する管理者を打倒しなければならない。
皆、全霊を尽くしている。ユウなどは、そうするためにループの垣根さえ越えてきた。
なのに。
(……ユウは最初、エルを人ではないと言った。NPCに過ぎず、その思考もプログラムだと。けど、のちにユウも認めたように、エルは人だ)
その正体が記憶をなくした『前回』の管理者だとしても。友人を思いやり、周囲の役に立とうと健気に奮起する姿は、どこにでもいる善良な少女そのものだ。
では、同じくアーカディアに生まれた個人である、ネームレスはどうか。
46666回目のループから、パンドラの手によってサルベージ、廃棄物の海より複製された存在。
彼はどこまでいってもスワンプマンだ。転移者IDも持たず、胸に抱き続けた夢も失い、今や『アレン』ではなくなった。
しかしそれでもネームレスには、アレンとはまた異なる意志があり、人格がある。人ではない、などと言えるはずもない。
エルも、ネームレスも、純粋な転移者ではないが、紛れもなくこのアーカディアで生きる人間だ。
……では。パンドラは?
(パンドラを撃つのは、人を撃つのと同じことなんじゃないのか?)
第70層で見た、あの無邪気と残忍、そして虚無を湛えたような少女。
無意識に蓋をしていた事実に、アレンは気付いてしまった。
エルやネームレスを人と認めながら、パンドラを撃つ。その矛盾。
ユウがエルを人と思わないように努めていたのは、このことに気付いていたからに違いない。
『——今さらだろうが。オレを撃ち殺したくせに、道徳を語るなよ人殺し』
ぞくりと、背筋を震わせる低い声。
地の底、あるいは海の底から響くようなそれは、耳元ではなくアレンの頭の中から発されていた。
——ああ、夢を見ている。
アレンは自分が思索のうちに眠りこけ、死者の声を夢として聞いているのだと理解した。
『殺人者が夢なんざ追ってもいいと思ってんのか? なにがプロゲーマーだ、なにが日本一だ。テメェにゃ〈ゼロクオリア〉へのリベンジなんて許されない』
——罪は裁かれるべきだ。
——罪人は処されるべきだ。
幻は憎しみを込めてアレンを謗る。だが所詮は夢幻、構うだけ無駄だとアレンは聞き流そうとする。
『それに。お前、孤児院でエルを誘導していただろう? シャドウ組とバベル組が合流したタイミングで自分たちに協力するように、あの時点では軽くだけ諫めておき、バベル攻略に参加する気勢を削がないようにしておいた』
「——っ、それは」
だが、幻とわかっていても、その言葉は反応せざるを得ないほどに痛烈だった。
目を背けていた、己の最も見たくない醜悪さを突きつけられる。
当たり前だ。幻は、アレン自身から生じているのだから。
『テメェのやり方はオレとなんら変わらない! いや、よりタチの悪い偽善だ。善人の皮を被った悪党、最悪のプレイヤーキラー……それがテメェの本性なんだよ!!』
「黙れ……! 違う、俺は——」
違う。
暗い夢の中で、反射的に否定を口にする。
それは燃え盛る火に自ら薪を足すようなもので、幻は下卑た笑い声を漏らし、アレンの反駁などかき消すほどの強さで叫ぶ。
『違わねェよ! オレを殺し、マグナのことも殺したも同然! そして、次にパンドラを殺す。プロゲーマー、お前にできるのは人を殺すことだけだ。人を殺すゲームのプロなんだから当然だよなァ? 殺戮機構がお似合いだよ、クソッタレの『鷹の眼』さま! ははははははははははァ——ッ!!』
「俺は……っ」
くらくらとする頭。ふらふらとする体。
寝ているはずだがベッドの感触はない。夢の中の闇は重く苦しく、粘土の高い液体のように手や足にまとわりついてくる。アレンはその中を漂うように、あるいは沈むように寄る辺なくさまよう。
息もろくろくできない苦しみは溺死そのもの。
だが、真にアレンを苛むものは夢の中の苦悶などではなく、現実として立ちふさがるジレンマだ。
『まだ抵抗があるのかよ? オレのことを殺しておいて、NPCは殺せませんってか? おかしいだろうがッ、理屈を言えよ! 子どもの見た目をしているから? ガキの体になって親近感でも覚えたのかァ?』
「そんなんじゃない。ただ……お前は悪党だ。我欲のためにリカや、同じ騎士団の団員たちを犠牲にした」
それだけではなく、カフカは〈サンダーソニア〉のギルドハウスにも火を放った。
悪しき戴冠者を裁く法は、このアーカディアにはない。だからこそ、代わりにアレンこそがその罪を罰したのだ。
そんな権利などないとわかっていても。
『だったらパンドラは悪党じゃないと? バカな! あれは管理者だ。このアーカディアをループさせる元凶だぞ? 一番の巨悪だろォがよ!』
水中でも声はくぐもらず、鮮明だった。水の中からではなく、頭蓋の内から響いているから。
『殺せ。殺せよ。殺すんだよ。テメェが。お前が。その手で、照準を合わせて、引き金を引くんだよ。頭蓋を撃ち抜くのは得意だろ? 求められる役割、果たすべき機能を理解しろ』
「違う……こんなことは望んでない、俺はゲームを上手くなるために練習をしてきたんだ。人を殺すためなんかじゃない、そんなことはやりたくない!」
『やりたくないで済むかよボンクラが! バベル攻略にテメェは必須だ。この役割をこなせるのはお前だけ。逃げ出すなんてもってのほか。テメェがやんなきゃ、全員ループの闇に消えちまうんだからなァ!』
「それでも——パンドラは……パンドラを倒すのは、まだ……」
『だからその薄ら寒い偽善をやめろ。アサガミユウを見ろよ、あの不惑の決意! やつ男も言っていたはずだ、失敗は許されないと。その通りだろうが! それともテメェが駄々をこねたせいで台無しにするつもりかァ!? あァーははははははははははは!』
そうだ、失敗など許されない。許されるはずがない。
声は命じる。パンドラを倒せ、殺してしまえと。そのためのバベル攻略であり、それこそが仲間たちの悲願であると。
——だけど、殺したくない。
自分がバベル攻略の要であることは理解している。逃げ出せるような立場ではないこともわかっている。
それでも、ゲームの中だと割り切れない世界で、人を撃ち殺すのは——
まだ十七と言えど、人生を懸けて磨いてきた技術を、殺人に使うのはもう嫌だった。
そうだ。本音を言えば、今日も。
「…………シグレがクラックを撃ってくれて、俺は、ほっとしていた」
自分の手を汚さずに済んだこと。それを、心のどこかで喜んでいた。




