ダイバーズ
人里離れた「瘴気の森」のすぐそばにその研究所はあった。
ここはホンダ瘴気技研の持つ研究所の一つであり、主に瘴気を克服するための研究を行っている。
瘴気は有史以来人類の活動を妨げている。いや、この星の誕生以来あらゆる生命の活動を妨げているといったほうがいいか。
ただ一つの例外が瘴気の森を構成する黒く非常に硬い樹皮を持つ巨大な「黒の木」であり、瘴気の森は黒の木で完全に覆わているため常に薄暗く、空から見ても黒々としている。
瘴気は目には見えないが確実に存在している「もの」である。それは黒の木を除くあらゆる生命を害するが、濃度の薄いところでは有益なものであった。それは、瘴気が生命体の思考や意思によってある程度操作が可能である、という特徴を持つためだ。
研究所ではこの瘴気を研究して活用方法を見出し、あるいは瘴気そのものを克服する手段の模索を行っている。その結果、エネルギーの生成や掘削・加工などに使える瘴気機械の開発に成功している。
今でこそ人類はこの星の隅々に至るまで、瘴気の森を除いてではあるが、その生活圏を広げているが、そこに至るまで何千万年もの間、星全体から見ればほんのわずかの「安全地帯」に縛られていた。
なにしろ瘴気の森に深く立ち入ろうものなら瞬く間に正気をなくし、決して回復することのない生ける屍へと変わってしまうのだ。命あるものは瘴気の薄い場所にとどまらざるを得なかった。
外海を航海可能な大型船が開発されたのは今から500年ほど前であろうか。新大陸も発見され人々は大いに盛り上がったが、それもそう長くは続かなかった。新大陸にも、そして外海にも瘴気は存在し、結局はこの瘴気の檻の中から抜け出すことはかなわなかった。
今でも外海にはこの時期に生ける屍と化した乗組員を要する幽霊船が数多く彷徨っている。
大きく状況が変化したのは百年と少し前、ついに人類は「飛行機」の開発に成功した。
もとより、瘴気の森の外にも世界が広がっていることはわかっていた。空を飛ぶ鳥たちが瘴気の及ばない高空を移動し、どこか別の地と往復していることを人々は知っていた。
大空を獲得した人類はようやく瘴気の檻を抜け出したが、そこに待っていたのは瘴気によって飛び地となったいくつかの大地だけであった。
百余年が経過した今ではそのうち人が住むに十分な広さを持つ24の飛び地に24の国が構築され、国家間は航空便と人工衛星を使った無線通信で繋がれている。
すぐそばにあるにもかかわらず宇宙よりも遠い場所、それが瘴気の森である。
さて、今その研究所の一室で、モニターをじっと見つめる数名の学者たちの姿があった。
固唾をのんで見守るそのモニターには、自分たちの作品の最終テスト結果が順次表示されていく。
やがて、最後の項目が表示されたとき、極限まで張り詰めた空気は急激に弛緩し、その後歓声へと変わった。
「やりましたね、室長。耐瘴気装備の最終動作試験、オールクリアです」
「ああ、長かったな。これで人類はついに瘴気の森に足を踏み入れることができる」
この研究所では、生命の正気を奪う瘴気の対抗策を研究していた。
何十年にもわたる研究の積み上げにより完成したそれは、瘴気を希釈し利用可能な濃度まで下げ空気へと変換することで瘴気の森での滞在を可能とする。瘴気の森に「潜る」ことを可能とするそれを、彼らはダイブスーツと呼んだ。
理論自体は何年も前に構築されていたが、装置の巨大さが課題であったそれを、どうにか自動車で運搬可能なサイズにまで小型化し、「船外活動」用の密閉式スーツとの組み合わせである程度の作業性も確保したものだ。
「では、次はいよいよ実地試験ですね」
「そうだな。計画通り、ここから最も近い【安地3Bー485】を目指す」
ダイブスーツの開発成功、実地試験への移行のニュースは世界中に大々的に報じられたが、それに興味を示す者は多くはなかった。人々の興味は、それよりもどちらかと言えば同時期に並行して開発が進められている「宇宙開発」のほうが強い。今更瘴気の森に多少踏み込めるようになったとて、それは湖の底に家を建てるがごとし。そこにロマンはあっても実利はないと考えていた。
「これは小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩である」
まばらな報道陣の前でそう宣言した研究室の選抜メンバー四名の「ダイバーズ」は、これまたまばらな拍手に見送られ、フェンスで区切られた緩衝地帯を超えて瘴気の森へと踏み入った。
今回の目的は、ここから十数キロ先にある安全地帯のひとつ、3B-485と呼ばれる地点に行って帰ってくることである。
瘴気の森の中にはと瘴気が薄くなった安全地帯が無数に存在している。このような小さな安全地帯は利用が難しいため、航空機から見つけ出されても番号が振られる以外はほとんどまともな調査がされていない。ヘリコプターやVTOLがもっと進化し庶民の乗り物になるまでは捨て置かれる運命だった土地だが、自動車で持ち運び可能なダイブスーツで移動可能となれば活用の幅も広がる。
とはいえ森の中である。自動車での移動では、ましてや予備はあっても壊れてしまえば命を失う精密機器を搭載した状態ではその進みは遅い。将来的には森を切り開き道を敷くこともできるだろうが今の段階でそんなものは望むだけ無駄だ。
結局、たった十数キロの道のりを蛇行に蛇行を重ね、密閉式スーツが不要な程度に瘴気濃度が薄まった地域に到達するのに一週間を要した。瘴気の森の中では瘴気を使った通信はもちろん、電気や光を使った通信すら瘴気に妨害され困難である。天蓋を深く瘴気と黒木に覆われGPSに頼ることもできないその道のりは苦難の連続であった。
そして今、テストダイブチームの四人は己の目を信じられず混乱している。
「ねえ、なんか人?みたいなのがいるんだけど?」
「ゾンビかしら?」
「それにしては瘴気の濃度が薄い。ここらはもうゾンビは入ってこれないはず」
「……近寄って確認するしかないか」
密閉スーツのヘルメットを外し低木の陰から双眼鏡で様子をうかがっていた四人だが、意を決して立ち上がると、ゆっくりとそれを刺激しないように近づいていく。一人が前に立ち、後ろから三人が瘴気銃やコンバットナイフを目立たないように構えながら。男はすぐに四人に気づき、目が合った。
「……こんにちはー」
四人と向かい合う男の目には確かな知性が感じられたため、努めて友好的に声をかけてみる。しかし。
「○×△!!! ●●!!」
帰ってきたのはわけのわからない叫びのような「声」だった。
「!!? !!?」
四人と一人は意思の疎通が取れないことに困惑している。ほんの百年ほど前まで閉ざされた狭い檻の中で成長してきたこの文明にとっては、「言語が複数存在する」ということは常識の範囲外の出来事だったのだ。
一方で男のほうも「言葉通じないのかよ!途中スタートなら言語機能プリインストールがデフォじゃないの!?」などと思っているのだがそんなことは四人の知る所ではなかった。
半ば刃物で脅すような形になりつつも、四人は男の様子をうかがった。手を上げて何も持っていないことをアピールしているような感じから悪意はないと判断し、慎重に後ろに回って男の後頭部の輝石を確認すると、それが瘴気に染まっていないことを見たことで小さく息をつくことができた。
改めて男の姿を見ると、小さな獣の皮を無理やり毛糸のようなもので縫い留めた原始的で汚れた「衣服」を纏い、手には黒木の枝に鉄の穂先のようなものを括り付けただけのシンプルな短槍を持っている。理科の資料集でしか見ないような出で立ちである。
「あなたは一体?ここで何を?」
「×△■。◇○○……」
質問を試みたが、やはり帰ってくるのは意味の分からない声だけ。
やがて男は困ったような顔で頭を掻くと、手をパタパタと振って四人のほうを気にしながら歩き始める。
「ついてこい、ということでしょうか?」
「帰れ、あっち行け、かもしれん」
「あ、立ち止まってまた手を振ってますよ。やっぱこれ、ついてこいって意味じゃない?」
「威嚇されているという可能性も…」
こんなことは議論しても答えは出ないので、ダイバーズは男についていくことに決めた。男が満足げにしているのでこれで正解だったようだ。
少し行くと森が少し開けた場所に出た。
そこには小さな畑と、石を積んで作ったシンプルな住居のようなものがあった。
「こんなことを言うと失礼かもしれませんが、意外と立派な家ですね」
「ええ。畑もよく整えられているし…あれは井戸かしら?」
「ポンプみたいなものもあるね」
「ええ?あんな石器時代みたいな装備で、畑で農耕して、手押しポンプ?ちょっとちぐはぐじゃない?」
四人でひそひそと話していると(言葉が通じていないのだから別にこそこそする必要はないのだが)、男は家の中からツボを持ち出してきて、手押しポンプで水を汲みだし始めた。
「おお、本当にポンプなんですね」
「ちゃんと動いてる」
褒められていると感じたのか、男は少し照れたようにしながらもツボをもって家に入ったので、四人もそれを追って中に入った。
意外にも中は清潔に整えられていて、土間と板張りに分かれている。土間のほうには竈がある。男は火打石で火をつけようとしているようだが、焚き木が湿っているのかなかなか火がつかない様子だった。
「火打石、初めて見た」
「瘴機で済ませるからねぇ」
ダイバーズの一人がバックパックからライターを取り出す。カートリッジ化した薄い瘴気をガス化し、ボタンを押した衝撃で飛ばした火花で発火するシンプルな瘴機だ。小銭で手に入る普及品だがサバイバルでは重宝する。
火をつけてみせると、男は興味深そうにそれを眺めていたが、すぐに使い方を理解したようだった。知能はかなり高い。少なくとも生き物としては自分たちと同じ人間に見えた。物欲しそうにしていると思ったのでライターはそのまま進呈しておく。
男は竈で湯を沸かすと、中に葉っぱのようなものを入れてしばし煮出したものを磨かれた石の器に注ぎ、四人の前に並べてくれた。
「お茶、かな?」
「おそらく」
「香りは……悪くない」
「苦い」
好みの味ではなかったが、好意で入れてくれたものであろうから、ありがたくいただく。笑顔。笑顔大事。ほら、先方も満足そうではないか。これで虫をすり潰したような如何にもな「何か」が出てきていたらどうなっていたかわからない。
「なにかお礼をしたほうがいいだろうね」
「うん。食料を少し分けよう」
「じゃあせっかくだからスペシャルメニューを」
「……仕方ない」
バックパックから瘴気術でレトルト化したレーションをいくつか取り出し、そのうち一つを開封する。
これは瘴気の持つ「ある程度意図通りの現象を引き起こすことができる」という特性を活用した瘴気術によって小さく圧縮し状態保存できるように加工した一般的な保存食であり、開封して置いておくだけで出来立ての料理を作れるというものである。
男は料理が復元されていく様子を興味深く眺めた後、恐れる様子もなく口に運ぶと満足げに笑い、しきりに頭をぺこぺこと下げている。お礼のつもりかもしれない。
「これからどうします?」
「私は彼と意思の疎通を試みる。今のところ全く何を言っているかわからないが、これだけの生活をする知恵があるのであれば時間があればそれは可能なはずだ」
「わかった。じゃあ私たちは3人でダイブスーツまで戻って報告したら社の部隊と今後の対応を検討するね」
「この辺完全に通信圏外だもんね。それじゃあリーダー、あの人の相手よろしくです」
こうして、ダイバーズは隊長を現地に残し、一旦停泊させていた車に戻った。
通信可能な瘴気濃度のところまで車を走らせ、通信機のスイッチをON。
「こちらダイバーズ。応答願う」
「こちら技研指令室、報告願う」
さて、何から伝えよう。
三人で顔を見合わせて、覚悟を決める。この報告が世に与える衝撃は、正直よくわからない。
オペレータは腹をくくって一言、人類史に大きな影響を与えるかもしれない言葉を投げた。
「原始人がいた」
終わり
【ダイバーズの報告書より抜粋】
人間がいた。それも一人で、原始的な道具を用いてある程度文明的な生活をしている。言葉が通じないため詳細は不明だがお墓のようなものもあり、彼がこの【集落】の最後の生き残りかもしれない。これは人類史を揺るがす大きな発見になりうる。
「現地人」を刺激しないため隠し撮りされた映像とともに伝えられたこのニュースは、たまにお茶の間を沸かせるエンターテイメントの一つとなった。
・・・ええっ!? この状態からできる知識チートがあるんですか!!?