006 場面緘黙3
「まず……無理に話そうとする必要はないからね」
「……」
「絶対に無理は禁物よ。その上で……どんな小さなことでもいいから、“出来た!”という体験をまずするの」
「…………」
「そして……その“小さな出来た”を少しずつ増やしていく。ただそれだけ」
わたしは何を言っているのか、ピンとこなかった。
「場面緘黙になる人って、さっきも言ったように、すっごくシャイな人が多いの。多分、蒼井さんもそうなんだと思うけど……そういう人って、人前で何かをしたり……新しい関係を受け入れたり……新しい自分に変わったり……そういうのが苦手だと思うんだ」
「…………」
「例えば……みんなでカラオケに行って、人前で歌を歌うとか」
「……!(想像するだけで汗が吹き出る!)」
「アタシの友達と会って、その子と、友達になるとか?」
「!(絶対無理!!)」
わたしは、無言のまま目を見開いて、硬直した。
珠綺さんが優し気な笑みのまま、だけど無慈悲に言葉を続ける。
「それから……こういうのも苦手でしょ? 例えば……アタシのことを……下の名前で呼び捨てにする……とか?」
わたしは、小さく何度も何度も、首を縦に振り続けた。
これもなんか無理だ。やっているところを想像するだけで、こそばゆいというか、落ち着かないというか……
「どうして嫌なのかな?」
珠綺さんが少し意地悪っぽい形に、唇の端を僅かに歪めて聞いてくる。
わたしはその質問に答えられず、固まった。
「ごめんね。嫌なこと聞いちゃって。多分、蒼井さんって、変化や新しいことを……受け入れることを恐れる人なんじゃないかなぁ? だから、今まで家族以外の人とは……新しい関係を作れなくて……距離を置いて接していたと思うんだ……」
「…………」
「だから、こうやって、呼び名を変えて、互いの距離が近づいて……これまでと、その人との距離感が変わっちゃうことが、なんとなく怖くて……気味悪くて……嫌なんじゃないかな?」
「(確かに……そう言われてみればその通りかも……)」
「ごめんね。他人の心を勝手に推し量って、分かったようなこと言って。傲慢極まりないよね……アタシ……」
わたしは、なんと返事をしてよいのか分からなかった。
「でもね、小さな変化を自分で起こして、それが“出来た!”という経験を積み重ねていくと、それが自信になって、いつか人が怖くなくなるの…………アタシがそうだった、というだけの話で……なんか……その……偉そうなこと言ってて、恥ずかしいんだけど…………」
「……」
またしても、なんと返事をしてよいのか分からなかった。
何かモヤモヤっとしたものが胸の内に立ち現れるけど、それは言葉という形にならなくて……口に出る前に消えてなくなるような……そんな感じだった。
「……じゃあ、もういい時間だから、今日はもう帰ろうか? 遅くまで付き合わせちゃって、ごめんね……」
珠綺さんがそう言って、わたしが時計を見ると、もう十八時を過ぎていた。
わたしは無言で頷いた。
二人で会計を済ませて、お店の外に出ると、オレンジ色の夕日が目に飛び込んだ。
空には巣立ったばかりの小さなツバメたちが、夕闇を切り裂くように飛び交っている。
ほんの僅かの時間、ツバメに気を取られていたわたしを現実に連れ戻すように、珠綺さんの声がわたしの耳に届いた。
「じゃあ、蒼井さん、アタシこの後、お母さんと会う約束があるから、ここでお別れするね」
その言葉を聞いてようやく一人になれると、わたしは心底安堵した。と、同時に言い知れない後ろめたさを感じた。
彼女の言葉に対して、わたしはどう返事をしたのか覚えていない。
ただ、天使のような笑顔で手を振って遠ざかる彼女に対し、わたしはパッとしない笑顔で手を振り返していた…………んだと思う。
……遠くで動き始めた、灰色とオレンジ色の……モノレールの音を聞きながら。