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side R-2


「――え、あ」


驚いたのは、なぜか光里の方だった。

嫌がっているわけじゃないことは、相手のどこか途方に暮れた表情からも窺い知れた。

知り合った当初は確かに害虫でも見るかのような目で睨まれることも多かったけれど、それはもう、はるか昔のことだ。今では当時を笑い合えるくらいには打ち解けている。

だから、彼女のそんな反応に桧山はただ、戸惑った。

――なぜ、だろう。

明確に拒絶されたわけじゃない、ただ驚かせただけの可能性だってないわけじゃない。なのに、なぜ。

ただそれだけのことを、自分はこんなにも苦々しく感じているのだろう。

――まるで手酷い裏切りを受けたみたいに。

「…え、と。ゴメン、ね?」

「――いえ。こちらこそ」

理由がどうあれ彼女にそんな反応をさせたのは自分で、そう謝罪を告げると、相手はますます気まずそうに下を向いてしまった。その頬が、わずかに赤い。

「…暑い?」

「え?」

普段は気にも留めないわずかな沈黙がいたたまれなくて、思ったままに問いかけると、相手は不思議そうに首を傾げた。同僚に似た、けれど同僚よりも柔らかい印象を与える顔立ちが、無防備に見返してくる。

そのことに、なぜかたまらない気持ちになった。

「顔、赤いよ」

何気なさを装って指摘すると、相手の顔が更に赤らんだ。

(――え)

「ぁ、――やだ、熱、かな」

慌てふためいたように顔を背け、うつったら大変ですから、と言い訳を残して辞去しようとした相手の二の腕を掴んだのは反射、だった。

――逃げるから追う。男の本能的な、条件反射。

「桧山さ、ん?」

戸惑った声を無視して、相手の顔を覗き込む。上気した頬、熱に浮かされたように潤んだ瞳。それは、ひどく見慣れた感情を映している。

「あの、」

動揺した色を載せて揺れる視線が、内心の混乱の酷さを物語っていた。

相手の上腕を取ったままの手に、ひやりとした細い手が触れる。いつまでも放さない桧山の手を外そうとする、光里の手。

「…はな、して」

掠れた小さな声は、耳の中で別の音を伴って聞こえた。

(…ください)

聞こえた言葉と声音に、背筋を羽毛で撫でられたような錯覚に陥る。

ぞくぞくするのは、自分も風邪にかかったせいか。考えて、考えた内容の馬鹿馬鹿しさに笑みが浮かぶ。

風邪ではない。だが、病気の一種ではあるかもしれない。何百年もの昔から医者も治せない、治療法もないという重篤な。

気づいて感じたのは高揚感だけだった。

そうして、身の内にくすぶる感情の名前を見つける。

――ああ、成る程。そういう、ことか。

分かった。

分かって、しまった。

「桧山さん…?」

(桧山さんを、…ください)

気づいた途端、体に、熱が灯される。真っ昼間から考えるようなことじゃない。それでも、一度意識してしまった熱は鎮まらない。

「…光里ちゃん」

知らず噛みしめていた歯をこじ開けるように言葉を発して、その声がひどく掠れていることに、内心で苦笑した。いい歳をして、まるでサカリのついたガキのような反応。

「君に、訊きたいことがある」

続けて口にした声は、少しはマシに聞こえた。相手にも、そう聞こえていることを祈っておく。そうでなかったら、あまりにも――みっともない。

あの時・・・さ、」

明確に何時いついつ、と限定したわけでもないのに、相手の体が明らかにビクリと反応して、桧山は疑惑を確信に強める。

あの時。

あの打ち上げの席で、いつもは桧山が酒を過ごさないよう諌めることの多い光里が、やけに積極的に酌を重ねてくれた。

「オレのこと、わざと酔わせた、よね?」

「――!」

見開かれた目は、うっすらと濡れて光を放っていた。おののくように薄く開いた唇が誘っているように見えることに、きっと本人は気づいていない。この姉妹は、基本的にひどく無防備なのだ。

そのくせ、感情は表情と直結していて。

昔はそれが憂鬱だったが、いつの頃からか好意的にしか見られなくなっていた。本人がどんなに隠そうとしても、隠しきれない。嘘も吐けない。分かりやすくて、壊れやすくて、――守って、やりたくなる。

「で、君が介抱してくれた」

それは自分たちの間では、珍しいことでもなんでもない。彼女の姉と付き合いが長いせいで、その妹とも互いの部屋を行き来することがあるくらいなのだから。だけど。

「ねぇ、光里ちゃん」

あからさまに裏を含ませて、意味深に問う声音を使ったのは――賭け、だ。

それとも願望のあらわれ、だったかもしれない。

――そうであればいい、という、狡くて情けなくて、――どうしようもない願望の。

「オレ、いや――オレたち、あの時、何、した?」

「なに、って…」

普通に考えれば、そこで大人の男女間に起きる出来事なんて一種類しかないと言っても過言じゃない。それが自分だけの認識でないことは、相手の反応がよく示していた。

何か具体的なことをはっきりと思い描いてしまった羞恥のせいか、頬を上気させ、わずかに眉を寄せた光里の表情は、情事の最中のそれを彷彿とさせ、ひどく桧山の劣情を誘う。

自分の疑惑が確かなものなら、それは疑惑ではなく、れっきとした事実で。

それですべてが符合する。


あの時を境に、二重写しになる彼女の姿。その姿に欲情する自分。


最初は同僚の妹だった。それ以上の感情なんて、抱いたことはなかったはず、だった。

気難しい同僚の、気難しい妹。

自分の同僚――姉を神聖視するほどシスコンの光里は、姉の傍にいる桧山のことをひどく嫌っていた。

確かに自分に関する噂にはあまり品がいいとは言えないものもあった。

年頃の少女だという以上に、性格的に潔癖なところのある彼女には、そうした噂のいちいちが、腹に据えかねるものだったのだろう。

その噂が、あながち事実無根というわけではないところが、また少し厄介だった。

本来、桧山の異性関係は少々回転率が良いとはいえ、ごく普通の「お付き合い」の範疇を外れることはない。最初に好意的な感情があって、互いに何らかの意思表示があって、交際に至る。

桧山は交際をオープンにするタイプだから、周囲の人間は桧山の恋人が誰なのか、大概把握している。特定の相手がいる間は、二股なんてしない。深い関係を持つのは、その時々の恋人たちだけで、互いの合意が条件。それが普通で、当たり前だと思っていた。

けれど、たった一人だけ、桧山が自分のルールを曲げた相手がいる。

自分にまつわる低俗な噂を、事実無根だと言い切れなかった、その理由。

それが、彼女の姉。自分の同僚。

困らせられることも多いけれど、自分に仕事を仕込んでくれたのは、間違いなくあの同僚で、仕事に関しては先輩とも恩人とも言える。

そんな同僚のことを、守りたかった。とてもとても大事で、弱りきって縋りつく手を振り払うことが出来なかった。守れるものなら守ってやりたいと、思った。だから。

乞われるまま、抱いた。

そんな仲になっても、互いに恋愛感情なんて最初から最後まで皆無だった。

どんなに大事でも、恋じゃなかった。

だからそれは、平たく言ってセフレ。でなければ、精神安定のための非常手段。どちらにしろ、おおっぴらには口に出来ないような理由で体を重ね続けて、それなら無難に恋人関係だと思われたほうが、まだマシだった。

――誰にそう思われたかったか、なんて、今更考えるまでもない。

その時期、他に女性を寄せつけなかったのが、桧山なりの誠意。周囲はそれで、彼らが恋人同士なのだと誤解してくれた。もちろん、当人たちにそんな意識は毛頭なくて。

それでものしかかるような罪悪感と庇護欲で、それまでの誰よりも丁寧に抱いていた。

そんな不健康な関係が長く続いたあと。

同僚は、ようやく人並みの幸せを手に入れた。桧山にも、こればかりは光里にも、決して与えられない種類のもので。そのことに、心の底から安堵した。

同僚の心の内を少しでも守れたことを誇りにも思ったし、彼女の幸せな姿を見るのが何より嬉しかった。けれど、そんな事情は人に説明出来るわけがなく。

特に、光里に対しては同僚も自分も何も言えなかった。

同僚が何より恐れたのは、妹から軽蔑の視線を向けられて見放されること。

誰よりも姉が好きで、情に脆い光里がそんなことをするはずがないと宥めたが、同僚は事情を知られることさえ嫌がった。

だから、桧山は同僚の秘密を漏らさないよう、そんな自分の計算高さを気づかれないよう、かすかな後ろ暗さをひた隠しにして、同僚とよく似た生真面目さと、同僚にはない柔らかさに向き合うことになった。

そうして気づいたのは。

自分も同僚と全く同じ恐怖を抱えていたこと、だった。

彼女の真っ直ぐな気持ちを映す、一点の曇りもない眼差し。

愚直なまでの、敬慕、愛情、信頼。桧山の場合は、怒りとか嫌悪とか、そんなものばかりだったけれど。どんな言葉だって構わない、一番酷い時期の同僚をも支えきった、絶対の感情。

決して揺らがず、なくならず、いつだってそこにあると思えるもの。そう思わせるだけの、まじりけのないひたむきさ。真っ直ぐに向かってくる、強い感情。

それを失うかもしれないと考えることは、身の竦むような恐怖だった。負の感情ですらない、無関心を向けられる絶望感は、想像さえもしたくなかった。


最初から。

向けられた感情に安らぐ同僚の姿を見て、敵わないと思って。

次に、羨ましく思って。それから。


――欲しいと、思っていた。


臆病にも程がある、気づいてしまえば苦笑しか浮かばない。情けない限りの自己暗示。

女なら誰でもいいんだろう、と揶揄されることさえある自分が、彼女に対してだけは、そんな意識を持たなかった。一度も、少しも。そのことが示す、明らかな異質さ。

同僚の妹だからとか、嫌われていたからとか、それらは全部言い訳だ。言い訳を連ねることで、彼女を特別視している事実から目を逸らそうとした。

大事だからこそ迂闊に手を出せなかった。そういう意味では自分にとって、同僚よりも特別な存在だということになる。それも、彼女自身に突き崩されてしまったけれど。

答えが出てみれば、これ以上ないほど単純で、明快な事実がひとつきり。

特別な存在だった、最初から。ただ、気づいていない振りをしていただけで。


目の前の相手は、桧山に手を取られて戸惑ったままだ。

桧山もまた、戸惑っている。

所有欲と、独占欲。彼女を得るために、どこまでも狡猾になれるという予感。失うことを馬鹿みたいに恐れる弱さ。

どれも今までの恋人たちには感じなかった感情ばかり。

苦笑して、光里の腕を掴んだままだった手をするりと滑らせ、指を絡めるようにその手とつなぎ合わせた。

「あれは全部夢でした、なんて、言わないよね?」

かすかに息を呑む声が聞こえた気がして、間に合ったことに安堵する。

きっと、この子は夢にしようとしていた。自分たちの間に起きた出来事を。

震える手を親指でそっと撫でて、桧山は続ける。

「ダメだよ」

そう、そんなことは許さない。

「夢でなんか、終わらせないから」


夢のよう、で済ませられるほど自分は情緒的な人間じゃない。

夢は叶えて手に入れるものだ。

終わらせたりなんかしない。絶対に。








コンセプトは「軽い人×純情な人」と「体の関係から始まる恋」。

上手くいったかどうかは定かではありませんが。


登場人物


◆庄司光里

二十代前半、OL、重度のシスコン。純情な割にやることは大胆。

その結果が片恋相手の桧山を押し倒すという話に。

シスコンは「姉大好き」というのと、「姉には絶対敵わない」というダブルバインド。

姉と桧山は普通に恋愛して、普通に別れたのだと思っている。


◆桧山

三十代前半、サラリーマン、軽くてタラシの色男。

なのに時々アホみたいな純情を発揮してみたり。

イジられキャラで、立ち位置は無茶苦茶低い。

光里と付き合うことが確定した以降は、やっぱりシスコンの姉からシゴキとかイビリとか、

不当な扱いを散々受けることになる。

光里のことを大事にしすぎて中学生並みのキヨラカなお付き合いから始めてしまい、

焦れた光里に再度押し倒されるとかいう、お前本当に色男? なフラグあり。






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