side R-1
最初は、何も覚えていなかった。
けれど、時間が経つにつれ、霞がかった記憶から零れ落ちてくる欠片がある。
ふと見せる表情、何気なく伸ばされた手。
それが、何かの弾みで二重写しになって見えることがある。
見たはずのない艶めいた表情、知るはずのない――熱に浮かされて縋るものを求める手、に。
よく知る相手だけれど、そんな関係になったことはない。夢は願望の現われというけれど、それなのだろうか。
そんなはずはない、そう笑い飛ばせない自分に、初めて気づいた。
指先が覚えている体の形、腕の中で解け落ちたぬくもり。
そんな、断片的で、記憶ともいえないような、淡い感覚ばかりが手元に増える。
――それはまるで、夢のよう。
記憶のあやふやさも、それでいて、ありえないほどの充足感と幸福感だけがくっきりと体の中に刻み込まれたことも。
同じ言葉で表現できる偶然は、必然だったのだろうか。
――それはまるで夢のよう、と。
◆
出社しようとしたら、系列会社の社長令嬢に拉致同然で連れ去られた。どうにかこうにか逃げ出して、会社にたどり着いた時には時計の短い針が数字の十一を通り越していて。
会社に着いて真っ先に同僚のところへ走ったおかげで、まとめた報告書を同僚が会議の資料として使うことには間に合った。だが、約束した時間に遅れた理由を問われた時、精神的疲労の度合いがひど過ぎて、言い訳すらもままならず。
朝からの出来事をすべて吐かせられ、聞いた同僚の機嫌は一気に大型台風の気圧並みに低下した。その腹いせと八つ当たりも兼ねて、桧山は朝っぱらから(時間的には昼だったが)同僚の長々とした説教を食らい。
その時点で、残り少なかった気力はすべて使い果たされてしまった。
社内の休憩スポット、自販機なども置いてあるラウンジスペースの小さなテーブルに、ぐったりと体を預けて桧山は深々と溜め息を吐く。
実のところ、桧山が同僚と令嬢から受けたアレコレは、完全なとばっちり以外の何物でもない、ということを、ふたりを知る人間の全員が理解している。
同僚と令嬢は、宿命の、という冠詞を付けたくなるほどのライバルなのだ。周囲の人間には大変迷惑な話でありながら、それが黙認されているのは、彼女たちが競うことで系列グループ全体の利益が伸びるため。大人の事情、というヤツである。世の中はいつだって世知辛い。
その流れで、令嬢は同僚の逆鱗ポイントをよく把握していて、実に的確適切に弱点を抉ってくる。さすが長年のライバル。攻略手段に隙がない。というか、むしろ、えげつない。
令嬢とはいえ、彼女自身も有能で有名だ。自分を含む同僚のチームが破格の業績を叩き出すまでは、彼女の生む利益が会社の柱だった時期もある。仕事相手としては、これ以上を望むべくもない相手。
しかし、個人的にはお近づきにも、関わりあいにもなりたくない、というのが嘘偽りのないところだ。そう思ってしまう理由は単純で、性格に難があり過ぎる、という一点に尽きる。
同僚が目の仇にしている相手だから、というだけでそんなことを思うわけじゃない。そんな理由のわけがない。
同じグループ企業ということもあり、完全に縁を切ることなど不可能だと分かっている。けれど、苦々しい感情は抑えられない。
桧山は自分が、人あしらいが上手くて人間関係に小器用だと思っている。それは自惚れでも何でもない。しかし件のご令嬢は、そんな自分の「外交手腕」を鼻先で笑い飛ばすだけの強烈さを持ち併せていた。
令嬢を直接知って確信したが、同僚の抱える精神的外傷のほとんどは、この令嬢に端を発している。同僚は頑として口を割らないが、相当酷い目に遭わされていた、というのは確かなことだ。
そのことを、姉には内緒ですよと、こっそり桧山に耳打ちしてくれたのは同僚の妹。彼女のことを思い出せば、令嬢に対する否定感情で冷えて固まりつつあった桧山の心が、じんわりとした温かみを取り戻す。
同僚は妹にすら自分の受けた仕打ちをすべて打ち明けていたわけではないらしい。そのプライドの高さを愛おしく思いつつ、折れてくれればいいのに、と願ったことを思い出す。
そうすれば。
――そうすれば、あの子の心痛だって少しは軽減出来たかも、しれないのに。
同僚と令嬢は、どちらもグループ企業の経営者一族に連なる血筋だ。だが、そのつながりは親戚、としか表現出来ない程度に縁遠い。令嬢は本家直系に近い、紛うことなきお嬢様。同僚の家は遠く離れた分家筋。
幸か不幸か同じ年に生まれた彼女らは、どちらも優劣のつけがたい優秀な子供だった。大人たちは無責任に彼女たち、主に令嬢の方を焚きつけた。そうして、あらゆることを競わせ、面白がった。
子供は加減を知らない。そして、甘やかされた本家筋の令嬢に、加減を期待することは難しい。結果は、同僚がひとりで抱え込むことになった幾多のトラウマ。
桧山としては、当時の「無責任な大人たち」、すなわち今の経営陣を横一列に並べて順に殴りつけたい衝動に駆られる過去話だ。それが巡り巡って現在の会社の利益を生んでいるのだとしても、許しがたく感じるのは人間として正常だと思う。
度し難いのは、同僚自身がそれを是認している点だ。あの同僚は、それが会社の利益になるのなら自分が今更何を言うこともないと考えている。
桧山は基本的に、同僚の言うことならばどんな無茶でも大概呑む。呑まされているとも言うが、この点に関してだけは譲れなかった。
令嬢が過去、同僚にして来たトラウマになるような数々の事実を、仕方がないとか、結果的には良かったとか、そう言って肯定して、受け入れるのはやめろ、と。
同僚の「女王様」振りは、世間知らずであることと、本人のプライドの高さから来ている、実は案外微笑ましいものだ。何も知らない子供が気を大きくして偉そうなことを言う、そんなものによく似ている。
けれど、同僚にとってそれは同時に――鎧、なのだ。彼女を傷つけようとする、ありとあらゆるものから、その心を、守るための。
なのに、その鎧は脆弱で、いとも容易く剥がれ落ちる。彼女が精神的に弱ったり傷ついたりすれば、卵の殻を割るよりも簡単に。
対する令嬢の「女王様」振りは、自分以外を人間だとは認めない、そんな傲慢さから来ていた。同僚の振る舞いとは、根本的に質が違う。令嬢の傲慢さは相手を傷つけ、傷を抉る技術に良く似ている。
令嬢の言うことは多くの場合正論だ。だが、すべての場合において正論が真実正しいとは限らない。しかし、正論なだけに言われた側は傷を負う。主に、自分は駄目な人間だと思い込む方向で。
かつて、弱りきって自分に縋りついた痛々しいほどに細い手と、今日の拉致まがいの顔合わせを思い出し、やはりあの令嬢は好きになれない、と結論づけたところで耳慣れた声がした。
「お疲れですね?」
小さな笑いを含んだ柔らかな声は、耳に馴染んで、いつの頃からかどんな喧騒の中だろうと拾い上げることが出来るようになっていた。それを聞き分けて、桧山は力の抜けた笑みを浮かべ、顔を上げる。
「――よぉ、光里ちゃん」
名前を呼ぶと、ぺこり、と頭を下げられる。
目の前には、同僚の妹。多分、同じ苦労を一番分かち合えている、同志にも似た間柄の相手。会社での肩書きは自分の部下に相当するが、多分、それより幾分かは確実に親しいはずの。
「疲れてるなら、甘いものがいいですよ」
ひとつ、いかがですか。
そう言って差し出されたのは色とりどりなジェリービーンズ。その目にも鮮やかな色彩は、思わずの苦笑を誘う。
「すっげ、体に悪そうな色だねぇ?」
「たまにはこんなのもいいでしょう?」
どことなく自慢げな口振りに小さく笑って、一粒摘み上げれば見事なまでに原色の青い色をしていた。少し首を傾げて口に放り込めば、味は普通のブルーベリー。
「味は普通だな」
「普通じゃなきゃ困ります」
そう言って彼女もオレンジ色のものを一粒口に入れ、菓子の袋をポケットにしまう。その動きを、知らず目が追いかけていた。
彼女の仕草のひとつひとつがいやに目に残る、と考えて、無意識に目で追っていた自分に気づく。
見ていたのだから目に残って当然だ。自分の無意識の行動に、桧山は静かに息を詰める。
まただ。
また、自分はもう一人の彼女を見ている。自分が知るはずのない、あえかに色めく彼女の姿を。
それを振り払いたくて、わざと明るく「もう一個ちょうだい」とねだると、相手は慌てて一度しまった袋を引っ張り出した。
「しまう前に言ってください、そういうことは」
「いんや、あと引くよね、こういうジャンクな味って」
「ジャンクって言わないでください。失礼ですよ」
業務にまるで関わらない会話は随分久し振りだった。――あの、打ち上げ以来か。
思い出して、また自分の知らない記憶がひらりと脳裏を掠めた。だが、それは形を成す前にほろほろと崩れて消え落ちる。
「お姉ちゃん、大丈夫でした?」
目の前の相手との会話以外に気を取られそうになる自分を律して、桧山は思考を立て直す。
「――あぁ。うん、何とかね」
身近に個性の強い人間が揃っているおかげで、常識人を自負する桧山には気の休まる時が少ない。そんな中、自分と同じ苦労を分かち合う光里の存在は、桧山にとって癒し効果さえ持っていたりする稀有なものだ。
折角の機会だ、今はこの効果を存分に享受せねば。
自分の少々変態じみた考えに苦笑すれば、それを別の意味に取ったのだろう相手に、いつもすみません、と再度頭を下げられた。
「いいって。気にしないで」
そう言って下げられた頭を戻そうと、何気なくその薄い肩に手を置いた。
途端。
びくり、と誤魔化しようもないほどはっきりと、相手の体が跳ねたのを感じ。
――桧山は間抜けにも、手をわずかに浮かせた形のまま硬直した。




