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side L


自分が強いと思ったことなんてない。

けれど、これほど弱いとも思ってなかった。


幸せな夢を見た。泣きたくなるほど幸せな夢。

好きな人が自分を見て、自分だけを見て、抱きしめて、ぬくもりと熱を与えてくれる。

それは夢でしかありえない。

だって、現実ではこの想いにすら、気づいてもらえていないのに。


けど、それでも。

あの人が欲しかった。あの人のすべてが。

だから。


そんなの言い訳だ。分かっている。

そんなことは、嫌になるくらい。


あの人が自分じゃない、別の誰かを求めいているのだと知っていて、それでもそこにつけこんだ。自分の浅ましさに吐き気がする。

だからすべてをなかったことにした。

あの事実は自分だけが知っていればいい。それなら夢と変わりない。誰も知らない、自分だけの幸せな夢。

夢というにはすべてが鮮明すぎるけれど、それだってきっと時間が薄れさせてくれる。

あのぬくもりも熱も、きっと、いつかは。



     ◆



恋はするものじゃなくて、落ちるもの。


そう言ったのは、はたして誰だったか。細かいことなんて覚えてない。けれど、その言葉は真実だと思う。頭で諦めようと思ったところで、心が嫌だと主張する。

その姿を目にするたび、声を聞くたび、気持ちがあふれる。視線から、指の先から、心の奥から。

その気持ちを、たった一言でも、伝えることが出来たなら。

だけど、現実はそんなことすら許されない。


だって、あの人は姉の恋人だった人。そして、自分の、上司でもある人。




光里ひかり!」

無機質な白く長い廊下で、耳慣れた声に呼ばれて振り返ると、そこには自分の顔と同じくらい見慣れた姉の姿があった。

「お姉ちゃ…っと、庄司主任…あれ?」

無意識に答えようとした呼び名を社内仕様に慌てて切り替え、それから相手の呼びかけが身内用のものだったことに気づいて首を傾げる。

親族経営の会社とはいえ公私の別をはっきり分ける姉が、自分のことを社内で名前呼びするのはひどく珍しい。けれど、姉がそう呼ぶ時は自分もフランクな口調に戻す、というルールはこんな時でもあっさり適用される。

自分の基準は何時だって姉。どんなに周囲がシスコンだと騒ごうと、光里には関係のないことだから。

「何? どうしたの?」

足を止めて、自分よりも頭半分小さな姉を見下ろすと、姉は華奢な肩を怒らせて光里を見上げた。

桧山ひやまのバカ見なかった?!」

姉の強い視線に晒されていなかったら、自分はどんな反応をしていただろう。かすかに震えた気持ちを心の内でひっそりと笑って、光里はその質問に答える。

「今日はまだ見てない、かな。桧山さん、また何かしたの?」

「したのよ! ていうか、してないのが問題なの!!」

姉が感情的にエキサイトするのは結構いつものことで、それを宥めるのが妹である光里と、姉の仕事上のパートナーである桧山の仕事だ。もちろん、自分たちの本来の業務はそこではないのだが、姉を巧く宥めることの出来る人間が他にいない。

さらに、姉の機嫌を損ねないことが仕事を円滑に進める最も効率的な方法だったりするため、光里と桧山はそれこそトップダウンで姉の手綱を取ることを指示されていたりする。ゆえに、嫌が応にもそのための手練手管は上達しっぱなしだ。

ただ、桧山に関しては、同じくらい姉を逆上させることも多い。丁度、今みたいに。

ここにはいない人のへらりとした笑顔を思い浮かべ、光里は自分がきちんと冷静であることを確認する。

よし、自分は取り乱したりなんかしていない。大丈夫。平気。問題ない。

「何をしてないの?」

「報告書の提出! 今日の十時までには持って来いって言っといたのに! あのバカ!」

「ああ、今日のビジネスランチで使う資料?」

「午前中に読み込んで、手を加えたかったのに…!」

時刻はそろそろ十時半だ。フレックスが認められているとはいえ、時間期限があるものを抱えたまま、桧山が会社に来ていないのは珍しい。否、異常、かもしれない。

軽い言動と外見に反して、桧山は意外と生真面目だ。

それを面と向かって言ったところで、きっといつものように「ひでぇなぁ」と笑って済ませるのだろうけれど。その声が嫌に鮮明に聞こえた気がして、光里はふるり、とかぶりを振って、姉に問う。

「連絡は?」

「携帯、通じないの。もしかして、もうこっちにいるかと思って来たんだけど」

ただの寝坊だったら絞め殺してやる、と般若の形相で呟いてから、姉は光里を見上げた。

「…あんた、どこかにかくまったりなんか、してないわよね」

「――してないよ! 何でそんな発想になるの!」

「まだ出来てなくて、どっかで作業中の可能性、とか」

あんた、あいつによく丸め込まれるでしょう、と自分のことをまるっと棚に上げた発言に、光里は頭痛をこらえるように、額に手を当てる。

「そんなことしないです。桧山さんだって、ああ見えてやれば出来る人なんだから、お姉ちゃんの頼み事ぐらい終わらせてるでしょ」

濡れ衣だけは勘弁だ、とばかりにきっぱりと否定して、「それに」と続ける。

「普通はもっと別の心配するもんでしょう」

事故とか病気とか、と光里が指摘すると、「あんたはあいつに対する認識が甘すぎる」と姉が唇を尖らせた。

その、相手を深く深く理解した口振りに、光里の胸がわずかに軋む。

姉がそんな風に言う相手は、ごく限られた人間だけ。無論、光里もその内に含まれているけれど、それは家族だからで、それ以外は本当に稀なのだ。

基本的に姉は、あまり人を寄せつけないから。

それは、将来的にこの会社を負って立つという、気概と責任感、それから姉自身のプライドの高さから来ている。

生真面目でいつでも一生懸命、そして誰より誇り高い。

大好きで、自慢の姉。

そんな姉は、わずかな揶揄と、多大な畏敬を込めて、社内で「女王様」の異名を持つ。

この会社は姉が率いるチームと姉自身の手腕によって、破格の利益を上げ続けている。それに加えて、姉本人の多少強引な独裁的言動も相まって「女王様」の二つ名が献上された。

そのことを最初に教えてくれたのも、桧山だ。


姉と桧山が一緒に働き始めた時、光里は立場が違いすぎて、ただ、遠くからふたりの姿を眺めていることしか出来なかった。

小柄で華奢な姉の隣に並ぶと、彼の上背の高さが際立つ。

最初は、何もかもが好きじゃなかった。

軽薄に思えた言動も、浮わついて見えた外見も。社内で流れる華やかな女性関係の噂を全く否定しない、その態度も。

恋人の回転はやけに速いくせに、女性側からは「最高の恋人」と呼ばれ、おつき合いも実に綺麗なもの。別れた女性たちから恨まれた、なんて話は聞かないし、何故かその後の関係も良好だ。

百戦錬磨の女ったらし。

同性からは羨望と尊敬を込めて、異性からは興味と期待を込めて、彼はそう呼ばれていて。そんな人間が姉の側にいる、というのが許せなかった。

実際のところ、彼がモテる理由は非常に分かりやすい。カッコイイ、と社内で絶賛される顔立ちは、見る人に抵抗を感じさせない程度のイケメン。整いすぎてて怖い、とか、高嶺の花、と諦めるのではなく、誰もが「もしかしたら」と思える、親しみやすくて甘い顔立ち。

加えて、気さくな明るい性格で、常に空気を読んで場を和らげようとする。そのせいで、口を開くと二枚目半になってしまう、ちょっと残念な二枚目扱いされることも多い。だけど、明朗快活、そんな言葉がよく似合う人。

そして、将来の幹部となる姉の右腕的な立場と、会社の主力チームの上に立ち、率いる実力。

――周りにいる女たちが、騒がない、わけがない。

その人が姉と特別な関係になったのは、多分、必然だった。

姉は強い自分を演出して、そうあろうと振舞ってはいるけれど、その本質は、ひどく脆弱だ。その弱さを、補って支える役目を果たしていたのは、ずっとずっと光里、だった。これまでもこれからも、その役目は光里のものであるはずだった。

少なくとも、光里はそう思っていた。なのに、気がつけばその役目は、不意に光里の手から取り上げられていた。

――否。

桧山に「取り上げた」なんて意識はない。ただ、光里がそう感じてしまっただけ。

光里が、自分の存在意義を奪われたと、そう、感じてしまっただけなのだ。

だけど、そのことはふたりの関係を見せつけてもいる気がして。

感じたのは、くっきりとした不快感だけだった。

「姉もただの女だった」、そう思うより、「姉をただの女にした」、その相手に対する激しい嫌悪。

光里が大好きな姉を悪くなんて、思うはずがない。思える、はずがない。なのに、胸の中におりのように溜まっていく、黒い感情。

それから何年も過ぎて、澱んだ感情を胸の内に沈めて、上澄みでその人に笑顔を向けることが出来るようになった頃。

その人と姉の関係が変わった。その事実だけが不意に目の前に差し出された。本人たちは何を言うでもなかった。だけど。

姉は、彼から離れて新しい別の相手へ心を預けていて。それを、その人は暖かい目で見守っていた。

それは、家族とか親しい友人に向ける感情以上のものではないように見えたけど。


光里は、自分の中の澱の正体に気づいて、しまった。


姉と肩を並べるあの人を目にするたび、胸が疼いたのは。

これほどまでに、あの人のやることなすこと全てが癇に障ったのは。


姉を奪われたのが悔しかったせいじゃない。

いい加減に見えたあの人を嫌っていたせいじゃない。

そんなのは全部全部言い訳にしか過ぎなくて、本当は。

本当は、ただ。


自分が、姉のいた場所にいたかっただけ。

自分が、あの人の隣にいたかった、それだけ。


気づくのは容易かった。その結果が見えるのも。

だって、あの人にとって、自分は「同僚の妹」、もしくは「ただの一部下」。さもなければ「恋人の妹」だ。恋人が元恋人になったところで大差はない。


どう足掻いてもあの人の視界に入れない。

諦めたいのに諦められない。ただ、この恋を終わらせるきっかけが欲しかった。だから。


夢を、見た。



大きなプロジェクトが一段落した、打ち上げの席。

それほどアルコールに強いわけでもないあの人に、やや強引に酒を勧めた。

そうして、軽く前後不覚になったあの人を。


――奪うように、体を繋げた。






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