留学生の転機
次の朝、彰の目覚めはすっきりとしたものだった。
気分としては上々だ。でも身体を起こすとやはり目まいがした。どうやらもう一日は身体を休めた方がいいようだ。もう一度ベッドに身体を横たえたところでノックと共に彼女が入ってきた。
「あきら、身体の様子はどうですか?」
「ああ、ずいぶんよくなったよ。今日一日休めば、もう大丈夫だよ」
マトアカルはいかにも喜ばしいという顔だ。
「それでは今日も病人の世話をするのです」
「いや、君は学校……」
そう言いかけたところで、ふと思いついた。この時間を上手く使えないかと気がついたのだ。
「わかった。よろしく頼む」
それに対する返事は、今まで一番の笑顔だった。
朝食では彰もテーブルに着くことになった。歩くとふらつくので横からマトアカルが支えてくれた。腕を抱えるようにされると、当たる胸はないもののお腹や腕の柔らかさが気になる。出来るだけ目をそらしながら階段を下りた。
テーブルには家族全員が揃っていた。智は一人で食事を始めていた。父は新聞に目をやりながら声を上げる。
「彰、大丈夫なのか?」
「うん、普通に食べられると思う」
「そうか」
そのまま新聞を見ながら食事を始めた。すると今度は母だ。
「それで、調子はどうなの?」
「もう一日だけ休もうと思うんだ」
「そう、じゃあ、マトアカルは?」
「病人の世話をするのです」
そのときだった。
「そんなの変よ!」
鋭い声は、瑞樹のものだった。彰がマトアカルに支えられて姿を見せたときから、彼女はひどく不満そうだった。それが爆発したようだ。
「何ですか、瑞樹は。朝ご飯の席で、そんな大きな声を出しては駄目よ」
母の声は柔らかい。やんわりと諫めようというのだろうが、それがかえって妹を煽ったようだ。彼女はテーブルを平手で叩いて腰を浮かした。
「だってそうじゃない! その女が兄さんの病気を持ってきたんだのに!」
「やめなさい」
母の声は静かだったが、有無を言わさない迫力があった。妹がひるんだところで母が柔らかく続けた。
「それはこの子が悪いんじゃないでしょ? それに、この子は責任を感じて一生懸命看病してくれてるのよ。それでいいでしょ?」
「でも」
「もうその話はそこまでにしておけ」
妹が何か言いかけたところで、父の声が響いた。それで妹はあきらめたらしく、悄然と椅子に腰を下ろした。
すると智が立ち上がった。
「ごちそうさま。行ってくる」
彼は彰もマトアカルも見ることなく食堂を出て行った。程なく父も妹も席を立ち、あとには母と彰達二人が残った。母はすまなそうにマトアカルに頭を下げる。
「ごめんなさいね、マトアカル。瑞樹は彰のことが心配で仕方ないのよ。腹を立てないでやってね」
「いいえ、謝罪が足りないのだと思うのです」
「そんなんじゃないの。今はそっとしておいてやってね」
それで話を打ち切るように声を高めた。
「さあ、あなた達は部屋に戻りなさい。すぐに沢本先生が来てくださるから」
「その前に、お願いがあるんだけど」
彼は部屋に戻り、ベッドに身体を伸ばした。ずいぶん楽にはなったが、やはり横になっていた方がいい。そこにマトアカルがやってきた。
「これで全部運んだのです」
「そう。じゃ、良さそうなの持っておいでよ」
それはさっき母に頼んだ案件だった。書斎から、本を貸し出しすことをお願いしたのだ。
彼が考えたのはこうだ。本を読むのを覚えるなら何よりも興味の持てる分野がいい。そして彼女の興味が植物だとわかったのだから植物の関係の本を読めばいいのだ。彼の家にはその分野に興味のある人間はいない。だが何よりも体裁を尊重する家だ。百科事典など外装が立派な本はたくさんある。だからその中からそれに近い本を何冊か選んだのだ。
彼女は何回か階段を上り下りしてそれを部屋に担ぎ上げ、そのうちの二冊を彼の部屋に持ってきた。それも彼の提案だ。彼の体調は今では寝てさえいればいい程度だ。看病といってもすることは多くない。だからその時間を読書の練習に費やして貰おうというわけだ。昨日からの会話の中で思いついた策だった。案の定、彼女は植物図鑑のページを捲って歓声を上げた。もちろん読めない字は多く、そのたびに彰に質問が飛んだが、その勢いはやはりそれまでとは違っていた。
しばらくして沢本がやってきて、彰を診察した。経過良好とのことだった。彼女の帰り際、彰は彼女にも依頼を伝えた。それはすぐに実現され、黒服達は数冊の分厚い本を届けてくれた。
それは園芸関係の図鑑だった。マトアカルの願いならすぐに受けてくれると思ったのだが、その通りだった。もちろん彼女は大喜びでそれらを受け入れ、うっとりとページを繰り、思いついては彼に質問をした。
その日一日、彼はうつらうつらしながらベッドで休み、そばでマトアカルはずっと図鑑を楽しんだ。
夕方に瑞樹は帰ってくるなり部屋を覗いて、マトアカルを見て顔をしかめたが、それ以上は何も言わなかった。
翌日には彼の体調はほぼ回復していた。三日ぶりの登校に、クラスの人間の多くが賑やかに歓迎の意を示してくれた。
二人が席に着くと、早速寄ってきたのは泰司と唯花だった。
「よう、もう大丈夫なのか?」
「ああ、心配かけたな」
「いやまあ、こっちはそうでもない。で、宇宙知恵熱はどんな具合だった?」
彰は泰司の顔を見上げた。至っていつも通りだった。
「何だよ、そのネーミングは?」
すると、唯花がその話を引き継いだ。
「それがね、沢本先生が『知恵熱みたいなものよ』と言ったので、そう呼んでるの」
「何だか馬鹿みたいなネーミングだな」
「いいじゃない、そんなの。それよりさ」
彼女はそう言って笑い、それからマトアカルににじり寄った。
「どうだった?」
「はい。言われたとおり、病人の世話をしてきました」
マトアカルの表情はいつも通り。唯花の方は妙に嬉しそうに、というかたまらない喜びに顔を崩している。
「そう、あっくん喜んだでしょー。何か言ってくれた?」
「何かとは何を指しますか」
「うーん、普段とは違うこととか、ちょっと変わったこととか」
マトアカルは首をひねり、それから心当たりに気づいたようだ。
「それに当たるかどうかはわかりませんが、約束をしました」
「へーどんな約束?」
彰は慌てて腰を浮かした。それはまずい。それは絶対にまずい。
「ちょっと待て、おい、まとあか」
だがその口は手のひらに押さえ込まれていた。いつの間にか後ろに回った泰司が彼の身体を抱え込み、口を塞いだのだ。
「まあ待て。面白そうだから聞かせて貰おうじゃないか」
彰は暴れようとしたが動けない。何しろ泰司は柄は小さいがスポーツマンだし、彰の方は病み上がりだ。それをちらっと見て、にんまり笑った唯花が続ける。
「ねえマトアカル、どんな約束したの?」
マトアカルの方は、いつも通りだ。というか、少しは慌ててほしい。
「約束は、『いつもあきらの隣にいる』でした」
「わお」「スゲー」
二人の声に周りからも同様の声が上がる。いつの間にかクラスの半数くらいが二人の周りを囲んでいた。
「よかったねーマトアカル。やっぱり病気の看病ってポイント高いもんね。他には?」
「はい。あきらは父と母にも話をして、これからも一緒にいられるように言ってくれたのです」
もちろんそれは留学を継続する、という話だ。それがどう聞いても二人の結婚を両親に認めさせた、とかにしか聞こえない。いつの間にか人垣が狭まって、このままだと彰がもみくちゃにされるというところでクラス委員の裁定が入った。
「ああもう、知恵熱上がりを苛めないの! 病気がぶり返したらどうするの?」
その声に人垣が割れ、みんなは後ろに下がった。その開いたところを泰司は彰を拘束したままに教室の最前列に引きずって出た。その後ろを唯花がマトアカルの腕を抱えるようにして引っ張ってゆく。
「さあ、婚約会見を始めるぞ」
泰司の声にあちこちから歓声や拍手が巻き起こる。すると委員長殿から再び命令が飛ぶ。
「いい加減にしなさい!」
まさに鶴の一声、全員が三歩ばかり下がったところで委員長自ら彰の隣に立った。
「ここからは私が仕切ります。質問は?」
クラス中に歓声が上がった。彰は慌てて彼女に向かって叫んだ。
「おい、榊原!」
すると彼女は彰に向かって小声で言った。
「弁明の機会をあげるから」
それから再び前を向く。
「はい、質問は順番に。誰から?」
一人の女生徒が手を挙げた。榊原が指で示す。
「今のお気持ちは?」
「マトアカル。昨日までに思ったことは何かしら?」
榊原が質問を意訳して、それをマトアカルが答えるシステムらしい。なんていい加減な。
「病人の世話をして、心配なことも、嬉しいこともありました。それに大事な約束をしました。これからはいつもあきらの隣にいます」
教室中から、特に女子から甲高い悲鳴、いや喜鳴が上がる。
彰はその場に穴を掘って埋まりたかった。それは一から十までその通りなのだ。だが、どうしてそんな言い方になるのか。わかって言ってるんじゃないのか?
「じゃあ、榎原。言いたいことは?」
「これは単に、世話役としての利便性の問題なんだ。外にいるとき、どこかに行くときは彼女は常に僕を同行させるという、それだけのことなんだ」
「だそうよ」
彼女はすました声でそう言った。それで終わりかと思ったのだが、彼女はこう言ったのだ。
「はい、次は?」
「彼のいいところは?」
「榎原のいいところを言って」
「えのきはらあきらは、多くの事を考えて、工夫してくれるのです。いつもこの体が喜ぶことを探してくれます」
なぜか悲鳴のボルテージが上がり、それに妙な男の声が。
「はい次」
「新居はどこに?」
「マトアカル、どこに住むの?」
「あきらのところです」
要するに、婚約会見などというものを知らないマトアカルにかこつけて、みんなで盛り上がろうというのだ。それは楽しいだろうが、こっちの身にもなって欲しい。まるで公開処刑じゃないか。彰は半泣きで榊原にすがりかけた。
「もう勘弁してくれ」
「仕方ないなあ。じゃ、これで最後ね。誰?」
「はい! はいはいはい!」
短い身長で、飛び上がるように手を挙げたのは唯花だった。榊原が指名すると彼女は言った。
「看病はどんな風にしたんですか?」
「マトアカル?」
「はい。病人の世話は、方法を間違えると危険と考えます。ですから母のひとみに方法を聞きその通りにしました。タオルを絞って額に置き、汗を拭きました。それから、あーんをしました」
更に激しい歓声が上がる。彰は今すぐ誰かに殺して欲しかった。だがさすがに委員長もこれが限界と見たのか、一同に席に着くようにと指示しようやく解放してくれた。朝にそれだけ騒いだお陰か、その後は彰達のことを冷やかすものはいなかった。ただ、なま暖かい視線を体中に浴びているのだけはよくわかった。
それからは、休む前と同じような授業が続いた。彰はマトアカルの机に椅子を寄せ、漢字を教え続けた。
そして三限目のこと。
ふと窓の外に目をやった彼女が動かなくなった。明らかに何かに気を引かれた兆候だ。
(来る、飛び出す気か?)
彼女が腰を浮かせた。いつもは「あきら、ついてくることを希望」くらいの言葉を残してそのまま飛び出したところだ。それが今日は違った。彼女は彰の横で立ち止まったのだ。
「あきら、行くのです」
そう言って彼の手を掴んで引っ張った。結構な力だったが彼もじっとしてはいなかった、引かれるより早く立ち上がると、あきれる教師に向かって頭を下げた。
「すみません、出ます」
それから二人一緒に窓を飛び越えた。背後から教室中の歓声が窓を抜けて追いかけてきた。
彼女が見つけたのは猫だった。今回は黒猫で、猫を知らない彼女のこと、全く別の動物と思ったらしい。その猫も餌付けしているものなので、近寄って頭を撫でることが出来た。ただ、抱かせてはくれない奴なので、それであきらめさせた。猫は二度目なので、質問も多くなく、彼女は気絶せずに授業に戻ることが出来た。
そしてその日から、すべてがいい方向に変わり始めた。
彼女の飛び出す回数は少なくなり、飛び出していっても気絶にまで進むことは珍しくなった。時には飛び出す前に説明して、それで収まることも出てきた。これはあの約束の効果もあったろう。特に一緒に連れて出てくれることは、彼の負担をずいぶん楽にしてくれた。ただし彼女が地上の文物を見知ってきたことの方が効果としては大きかったようでもある。
そこで彼は大きな決断をした。それまでは最初のままに車で送迎して貰っていたのを、徒歩通学する事にしたのだ。
渡辺氏に頼むと準備に一日待って欲しいとのことで、翌々日からとなった。
もちろん最初は彼女があれこれ目移りしては走り回り、結局予定の倍もの時間がかかった。しかも学校に着いた途端に彼女は気絶。彼は登校生徒の注視する中、彼女を背負う羽目になった。しかし毎日のように繰り返していると、時間は次第に短くなり、次の週には普通に登下校できるようになった。
ただし副作用も出た。彼女があちこち走り回り、そのたびに彼の手を掴んで引っ張るのだ。二人はいつかずっと手をつないだまま登下校するようになっていた。もちろんそれは必要なことではあったのだ。とはいえ教室で唯花に指摘されるまでそれに気づかず、言われたときには既にみんなが見慣れて生暖かい視線を向けていたと知って、気づいていなかったとみんなに笑われて赤っ恥をかいた。かといって手を離すわけにも行かない。結局、周囲の目があきれつつもそれを見慣れた風景として受け止めるようになるのを待つしかなかった。
勉強の方も植物図鑑が突破口となったのか、彰が質問を受ける回数は次第に少なくなった。そうして次第に文章をすらすら読めるようになってきた。そうなれば授業にもついて行く事が出来る。すると彼女は授業内容にも関心を向け始め、時には授業中に先生を質問責めすることまで起きるようになってきた。もちろんそれはそれで授業の進行を妨げるものだったが、彰はそれには文句を言わないでおいた。その方が授業が面白くなるし、それを上手く裁けないなら先生の方が悪いというものだ。
ちなみに英語に関しては話は別で、彼女は最初からペラペラだった。これはもちろん翻訳機のお陰なので、彼女の能力とは言い難い。そもそも日本での英語という科目は日本語話者に英語を教えるものなので、彼女には無関係なのだ。ただし英語の先生の弁によると、翻訳機の英語は日本語よりずっと様になっているそうだ。
ともかくそうして奇行が目に見えて減るようになり、するとあとに残るのは美少女の留学生、しかも宇宙人という彼女の姿だ。なにしろ文句なしに美人だし、性格がまっすぐでしかも笑みを絶やさない。奇行が目だっていた頃から彼女は一定の人気を持っていたが、今では更に多くのファンを抱えるアイドルだった。
それに人類より遙かに進んだ文明から来た宇宙人という、ともすればねたみやそねみの対象となりやすい設定だったわけだが、最初の頃の奇行と授業の出来なさが目だって人類の劣等感を刺激しなかったようだ。あの世界史の先生も、最近はマトアカルの質問に楽しげに答え、ついでとばかりに余計なトリビアや面白い挿話を聞かせてくれるようになり、クラスでの人気が上がった。
榊原はいつも彼女に気をつけて指示してくれた。泰司と唯花は親身に接してくれる。特に唯花はことあるごとに彼女に付き添い、何でも一緒にして、何くれと世話をした。マトアカルも彼女には他と違った表情で接しているようだ。二人は、特に唯花は徒歩通学にしてからは帰りに一緒に来てくれることもあり、商店街を散歩したりした。
マトアカルは花屋が好きで、何度も覗いてはため息をつき、そのうちに鉢植えなども買い込むようになった。本屋では園芸関係の本などを楽しく眺めた。他方で唯花おすすめのファッション関係の店には一切の興味を示さなかった。衣服はもちろん、ちょっとしたアクセサリまでも触れようとさえしなかった。
そう言えば唯花は何度かマトアカルの呼び名をつけようとしたが、彼女はそれに対しても頑強に拒否した。
「だって、マトアカルって長いんだもの。マトちゃんとか、マッちとかでは駄目?」
「マトアカルの名はマトアカルが正しいです。ですからこの体が勝手に名前の改変を認めるのはあり得ないことです」
そんな風でがんとして認めないのだった。その理由は、全然わからない。文化の違いとでも考えるしかなかった。