ⅲ
「ちょっと失礼、煙草の火をお貸し願えないでしょうか?」
先回りして進行を遮りながら、低頭で尋ねる。アーロンの繕いもちょっとしたものだった。伊達にその道の者たちに慕われていたわけではない。抑えるべき点、この手の者たちが心くすぐる態度ならそれなりに知っている。
断る方法を知っているということは、受け入れる方法も知っているということに他ならない。この男の懐に飛び込むには、まず弱みがあるように見せねば。経済的事情が、等という素振りは見せず、どちらかと言えば別の事情、後ろめたい過去――主に性愛による、純真無垢であったがゆえに犯してしまった罪――があるような経歴を頭のなかに組み立てる。
それを相手が察せるように表現するのは決して楽なことではないが。しかしそういった事こそが、後々の命運を司る岐路になることを彼は読んでいた。そう、あくまで自然に口を滑らせてしまったという感じだ。そして絶妙な点で相手のプライドをくすぐり、しめしめ、こいつに一杯食わせてやったと思わせるのだ。
男は当初、目元を微かに歪ませていた。しかし始めはそんなものだとアーロンは納得する、警戒の色が最も強いのはファーストコンタクトであり、それを切り抜ければ後はなし崩しにも関係は進む。男からライターを借り受けると、ポケットから潰れた函を取り出してパイプに葉を詰め、二三度火を着けて火種を安定させると、口に咥えたまま遠方を眺めた。あの辺りに実家があるだろう、今は軍兵たちが晴れ晴れとした顔で上に報告しているのだろうか、と考えながら。
「もう良いかね、私は忙しいんだ」
「ああ、ご多忙な所をお引き止めして申し訳御座いません。ところでこちらには長く滞在なされるご予定なのでしょうか?」
そう言いながら、左手の親指と人差指で輪を作る。そういった嗜好を持つ者に示せば、大体伝わってくれるサインだった。
「そう長くは居ない、出張だからな」
相変わらず疑惑の表情を作っている男。だがアーロンの左手に作られたそのサインを一瞥したときに、この男の瞳の奥に濃紫の情が一瞬宿ったのを彼は見逃さなかった。淫らな考えが頭を占拠すれば、ひとは誰しもその片鱗が顔に出るものだ。アーロンはこの男が好色家なのだと確信した。
その男が大きく咳払いし、「それは良いんだが。マッチのひとつ位自分で買えないのか? ここらにも煙草屋くらいあるだろう」「ええ、丁度持ち合わせがありませんで。小銭を持ってくるのを失念しておりました」
恩着せがましい調子で男はふたたび態とらしく咳込んだ。
「ならばマッチくらいは買ってやろう、だがな」
男の口の片側がつり上がる。
「まあ、後で話はしよう。付いてこいよ」
五分ほど歩くと煙草屋に着いた。寂れたクヌギの看板には黒いペンキで『TOBACCO』と描かれている。あまり繁盛はしてなさそうだった。
「マッチをひとつくれ」
応対する煙草屋の店員の女は汚らわしいものを見るような眼つきだった。そんな態度を示すのも無理はない。なよなよとした態度の若い男と金持ちそうな太った男が、仲良さそうでもなければ親子にも見えない様子で店にやってきたのだから。訝しむのがむしろ自然である。
「ほら、早く出てっておくれよ。うちに長居されたくないね」
男が小銭入れから2マルクを出して女に渡すと、その貨幣を握り込んだまま女は出て行けと叫んだ。
「嫌味な女だったな。まあ良いさ」
男は煙草屋の横を指し示して、アーロンに水を向ける。
「そこで一服しようじゃないか。暇なんだろう?」
アーロンからすれば、願ったり叶ったりだった。
「謹しんでお付き合いいたします」
火を付けてひと吐きすると、おもむろに男が話し始めた。
「お前、本当はカネがないんだろう。見たところ外出向けの服をしちゃいないし、家出か魔の手から逃げて来たって感じだぞ」
「いやあ、お恥ずかしい。その通りです、実は家出しておりまして」
自分以外生き残っていないなどとは言わない。こういった手合は面倒くさい臭いを嗅ぎつけると直ぐに逃げていってしまう。
「ははん、それでカネが無いんだな。まあ良いだろう。手癖が悪い感じもしなかったしな。素振りだけを見りゃ、だが。ところでな」
男が咳払いした。さっきからこの男が咳をする度にヤニと牛肉の混ざった臭いが振り撒かれていたが、今回の咳払いは取り分け臭いがきつかった。こんな口臭の強烈な男が初めてだと思うと気が重いが、そこは初めがそうで良かったと頭を切り変える。今さら後にも引けるわけもなし、アーロンは耐える他無かった。
男はちゃらけた様子で例のサインを作り、その輪の中からアーロンを覗き込み、
「たまたまこれをしたって訳じゃあ、ないんだろう?」
「ええ、流石、解りましたか。その通りですよ、ずっとあなた様のような方を探しておりまして」
彼もサインを出す。男は彼のそれを見ると俄にニヤつきだして、
「まあ出張っつっても明日からだしな。今日は酒場でも繰り出そうとしてたとこだ……付き合うだろ?」
どうやら上手く釣り上げられたらしい。後はリールを引くだけだ、とアーロンは安堵する。もっとも一番の難関はその先だが。
「ええ、是非に」
態度では慇懃さを全面に押し出して対応しながらも、アーロンの内心は明日以降にしか意識が向いていなかった。気が急くアーロンは男の手を握る。明日からだ、明日から。手を握られた男は嬉しそうにアーロンを見た。
「気前が良いな。そんなに俺が好みだったのか、ええ?そういうのは俺も嫌いじゃないぜ」
二人は煙草をもみ消すと、昼でも開いている酒場に繰り出した。
空は雲で一面灰色に染まり、鳩が忙しそうに歩いている。