また会う日まで
「しっかしこの屋上、ほんと色々なことがあったな」
オレンジ色の夕日に染め上げられた屋上で、弥生がカラカラと笑いながら言った。
夕日の橙と空の青が混ざりあった空は、夏の熱気を含みながらも澄み渡り美しく、白羅もその夕焼けを見ながら、弥生の言葉に頷いた。
「そのうち妙な噂とかたつかもな」
「もうすでにたってそうだけどな」
いつになく、弥生はよく笑った。
笑って揺れる肩は、相変わらず夕日の光に透けていた。
金髪がキラキラと光って綺麗だった。
その光を見ると、白羅は妙に心が落ち着いた。昔から、そうだった。
数週間前までは、その光が自分の目の前から消えるなんて思ってもいなかった。
ずっと側にあるものだと疑っていなかった。彼は強いからと、安心しきっていた。今思うと、間抜けな話だ。
まさか、こんな形で再び現われるとも思っていなかったが。
弥生が現れてからというもの、おかしな体験ばかりした。
その嘘のような現実を思い出し、白羅は笑ってしまった。
笑えたり、辛かったり、死ぬような経験もした。
その全てが、今となっては可笑しく感じられた。
「何笑ってる」
一人で笑っていると、弥生が訝しげな表情でこちらを見てきた。
その表情にさえ、顔がゆるんだ。
「別に。何でもねェよ」
「何だ。一人で笑ったりして気持ち悪いぞ」
「うっせェよ似非秀才」
「っだから! そのあだ名で呼ぶなっつってんだろヘタレ!」
「テメェこそいい加減ヘタレ呼びやめろ!」
「間違ってねーだろうが! 夜の学校で奇声あげてたのはどこの筋肉馬鹿ですかー?」
「あれは……あれだよ! 気合い入れてたんだよボケェッ! めんどくせーこと考えてビービー泣きくさってた野郎にヘタレとか言われたくねーなぁ!」
「ちーがーいーまーすー! あれは涙じゃなくて鼻水ですー」
「目から鼻水って、お前の身体どうなってんだよ! どうやったら出るんだよ! 是非教えてほしいわ!!」
しばらくしていなかった言い争いを一通りして、二人はギリギリと睨みあう。
しかし、眉間にシワを寄せていた弥生が急に笑いだした。
「あっははは!」
「な、何んだよ急に……!」
いつもなら白羅にも負けないような凶悪な顔で睨み続けてくるはずなのに、愉快だと言わんばかりに笑うので、白羅も睨みを抑えた。
「何か、久し振りにやったな。この言い争い」
懐かしい気さえする、と弥生は笑って言った。
「ああ……そういやそうだな」
白羅は頷いた。
ずっと気を張りつめさせていて、そんなことをしている暇がなかった。
「なあ、国島」
「何だよ」
「お前、ネリネの花言葉って知ってるか?」
「はあ?」
突然話題をがらりと変えられ、白羅は口をポカンと開けた。
弥生が「情けない顔だな」という表情をしていたが、それは横へ置いといて白羅は聞き返した。
「ネリネ……? 何だそりゃ」
「そっからか。阿志田が俺の机に毎日飾っていてくれた白い花だよ。ってか、名前すら知らないんだから花言葉を知ってるはずないな」
「だろうよ」
「さすが脳味噌筋肉」
「テメェぜってぇ喧嘩売ってるよなぁ? 売ってなかったら驚きだよなぁ、こりゃあ。 つーか、そのネリネの花言葉が何なんだよ」
さらりと口にされる悪態に青筋を浮かべつつも、気になった白羅は一応聞き返した。
しかし、質問を投げかけた本人であるはずの弥生は、
「別に。知らないならいい」
と言って夕日に顔を向けてしまった。
「はあ? 気になるだろーが。言えやモヤシ」
「モヤシって言うなっての。チクショウ」
はぁあ、と溜め息をつき、弥生は白羅を見た。
その見つめてくる瞳が、夕日のせいか赤く尾を引いたように見えて、白羅は思わず力んだ。
その現実的でない現象によって、彼がこの世のものではないということを思い出し、掌を握りこんだ。
そうしていると、幽霊はふっと笑った。今にも消えそうなほど、儚い笑みだった。
儚いのだけれど、力がないのとは違う微笑を浮かべて、弥生は風のような声で言った。
「『また会う日まで』だって」
「――……」
ざわりと、夏の風が吹いた。
その風にそそのかされたように、白羅の安定していた心がぐらりと揺れた。
弥生は、視線を再び夕日に戻した。
「なんか、前向きなんだかそうじゃないんだか、よくわかんないだろう?」
ふふ、とまた笑う弥生。
金髪が風に揺れて光を反射する。
「でも、俺は好きだな、とか思ったりするんだよ。阿志田はセンスがいい」
「……」
白羅は黙って弥生の言葉を聞いた。
ぐらぐらと揺れる心臓を抱えたまま。
今にも床に叩き落とされそうな心を何とか維持しているうちに、白羅はずっと気になっていたことを思い出した。
ずっと、とても気になっていたけれど、どうしても聞けなかったこと。聞いてしまえば、ずっと感じていた「嫌な予感」が現実になってしまう気がして、聞けなかった。
しかし、もうその「嫌な予感」から逃げていてはならないと、今分かった。
白羅はゆっくりと息を吐き、静かに尋ねた。
「なあ、雪村」
「何だ」
「今頃って話なんだけどよ……お前、あの『仕返し』ってやつ、どうなった」
「ああ、あれか……。ありゃダメだな、多分」
さらりと、返された答え。
あまりにもあっさりと告げられ、その言葉は白羅の心にストンと落ちてきた。
「……そうか」
「ああ。やっぱり、説教しただけじゃあな。自首にまでは持っていけたけど……手伝ってもらったのに、悪いな」
「……いや。いい」
短く返し、白羅は少し俯いた。
白羅は、薄々勘づいていた。
何となく、分かってしまっていた。
「仕返し」の失敗の先に、何が待っているか。
その何かのために、弥生がわざと淡白に話しているということにも、気付いていた。
しくしくと、心臓が小さな悲鳴をあげる。
勝手に痛み始める心臓を胸に抱いたまま、白羅は弥生に小さく声をかけた。
「なあ」
「……なに」
弥生はこちらを見ずに短く返事をする。
「……なあ」
「……だから、なに」
「……弥生……」
「――っ……」
弥生が息をのむ音が、僅かに聞こえた。
「なあ、弥生」
「……」
「弥生」
「………」
「弥生。こっち見ろよ」
そう白羅が言った瞬間、夕焼けを見続けていた弥生の目から、はらりと涙が一筋零れた。
何の前触れもなく、遠くを眺める弥生の頬を滑った。
ずっと耐え忍んでいたのか、その一筋をきっかけに、何かが壊れたように弥生の目からボロボロと涙が落ち始めた。
あっという間に弥生の足元にいくつもの黒い染みができる。
その染みを見て、白羅は「あーあ」と言った。
「また泣くのかよ、似非秀才」
「……うるさい」
「それとも、そりゃあ鼻水か?」
「……うるさいっ……!」
「………泣くなよ、弥生」
「……っ……!!」
ついに、弥生はフェンスにしがみついて顔を歪めて泣いた。
声を殺して泣いた。
「馬鹿野郎……最後くらい、格好つけさせろ……!」
最後、という単語に、白羅は確信した。
覚悟していたが、実際にそう言われると、思っていたよりも現実味がなかった。
「……そうか」
白羅は細く呼吸し、空を見た。
沈んでゆく夕日が、燃え尽きていく星のように強く輝いている。ひとつだけの影が伸びていく。
「お前の生意気な小言聞くのも、これで終いか」
「……ああ……」
「最後、なんだな……」
「ああ……っ」
弥生は俯いて嗚咽をかみ殺した。息を吸い込む音が、次第に大きくなる。
そんな弥生の顔を覗き込み、白羅はヘラリと笑った。
弥生の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ぶっさいくな顔して泣くんじゃねェよ。みっともねェ。……拭ってやりてェところだが、俺じゃ拭ってやれないからな。テメーでちゃんと拭け」
「うっ……っ」
白羅の言葉に、弥生は顔を両手で覆う。白く細い指から、涙が零れ落ちた。
そんな弥生を見ていると、ある言葉がよぎった。
それは、絶対に言ってはならない言葉だった。
弥生の魂を縛り付けてしまう言葉だった。
言ってはいけない。そう自分に言い聞かせた。
出かけた言葉を深く心の奥にしまいこみ、白羅は泣く弥生をどうにかするために喋り続けた。
「その、何だ。俺、お前のこと忘れねェから。つーか、インパクトありすぎて忘れらんねェよ」
「……うっ、う……」
返事すらしない弥生に、少し焦りつつも話し続ける。
「えーっと、あれだ。毎日墓参り行って、お前の好きなクリーム大福でも供えといてやるよ。あ、お前が好きなの、苺だっけか? チョコか? それとも……」
「うっ……ぶっ、ぶふっ!!」
「!?」
真剣に話している途中に急に噴き出され、白羅は肩を跳ね上げた。
「な、な……っ!?」
「っははは! 何言ってんの、お前!」
さっきまで泣いていたはずの弥生が、突然爆笑し始めた。
どうやら、大福のくだりがツボに入ったらしい。
「やっ、やばい……! お前、おもしろすぎ……!!」
「は、はぁあ!?」
恥ずかしいやら腹立たしいやらで、白羅は身体中を震わせる。
「て、テメェ……! 人が真剣に……!」
「……ありがとう」
「!!」
せめてぶん殴りたいという意思だけでも見せようと振りかぶった白羅は、拳を止めた。拳だけでなく、身体の動きそのものを止めた。
弥生のありがとうという台詞に驚いたのではない。
弥生の足が、白い光を放ちながら消えていたからだ。
まるでとける雪のように消えていく弥生は、白羅に向き直り、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「俺の最期を一緒に過ごしたのが、お前でよかった。俺の人生は、たった十七年間だったけど、きっと、誰のよりも幸せだった。だって今、信じられないくらい寂しいから」
夕焼けの優しい光に、弥生の姿がどんどん溶けていく。
「きっと、お前が居たからなんだろうな」
その姿があまりにも儚く、白羅は唇を柔く噛んだ。
「お前のせいで、逝くのが死ぬほど辛い。どうしてくれんだこの野郎」
口に手を添え、弥生は声を出さずに笑った。
笑いながら、静かに言った。
「本当に、幸せだった。……ありがとう」
そう言ったときには、弥生の身体はすでに腰あたりまで消えていた。
白い光が橙色の空に吸い込まれていき、気が遠くなるほど美しかった。
その光を見ながら、白羅は喉の奥から熱いような痛いようなものがせり上がってくるのを感じた。
同時に、目がじんと痛くなった。
知らないうちに、唇が震えていた。
目の前の幼なじみが夕日に滲んでいくのが、まるで夢のことのように思えた。
「……馬鹿野郎」
思わず、口走った。
弥生がこちらを見上げる。
再び涙が浮かび始めたその顔を見て、白羅は口の端を吊り上げて言った。
「本当の最後なわけじゃねェだろ。……あっちで待ってろ」
「――……っ」
その、一歩間違えれば自殺願望ともとれる言葉に、弥生は目を見張った。
しかし、すぐに意味を理解し、頬に涙を流しながら顔を綻ばせた。
「……お前は、あと七十年くらいたったら来いよ。あまり早く来られても、うるさくてかなわないからな」
「……そうかよ。じゃあ、そんな生意気なお前にはあと七十年くらい俺を見守る権利をくれてやる」
「バーカ。いるかよ、そんなモン」
親指で涙をふき、弥生はいつかのように毒づいて見せた。
そう言っている間にも、弥生と夕日は混ざっていく。
白い靄のように見えていた弥生のシャツが、夕日の色に染まっていく。
「……素直じゃねェな、お前は」
白羅は飛んできた毒を笑い飛ばし、弥生の頭に右手を伸ばした。
そして、くしゃくしゃと掻き回してやった。
今までかすることすらなかった弥生の身体に、触れられた。
後で気付くことになるが、白羅の右手は通り魔事件の際に御札の光を受けたことにより、弥生に触れられるようになっていた。
この時点ではそこまで考えが至らなかった白羅は、なぜ弥生に触れたのかわからず、動揺と胸の高ぶりに手を震わせた。
「お前……幽霊のくせに、あったけぇな」
掌から伝わるかすかな温もりが、白羅の心臓をより締め付けた。
その、震える白羅の手を、弥生がパンッと力強く握った。
その感覚は、もう空気に包まれたような曖昧なものではなく、確かに、温もりを帯びた皮膚に包まれた、生きた感覚だった。
「全く……言ってることは男前でも、やっぱりヘタレだな」
フン、と笑う弥生は、嘗ての、いつも通りの上から目線の彼だった。
目の奥に強い光を宿し、生きていた頃と変わらない表情で言った。
「俺の前でくらい、ヘタレらしく泣いてもいいんだぞ?」
まるで、もう大丈夫、と言っているようだった。
幼なじみのいつもの笑顔に、白羅はひどく安心した。
「うっせェ。泣くわけねェだろ」
そう言ってやると、自分の中にやわらかい風が吹いたのが分かった。
とても優しく、残酷な風を感じながら、白羅はもう胸あたりまで消えかけている弥生に最後に尋ねた。
「なあ、弥生」
「何だ」
「お前……どうして俺のところに来たんだよ」
ずっと、知りたかった。
阿志田でも狩脇でもなく、自分の前に訪れた理由を。
白羅の質問を聞いた弥生は、ゆっくりと目を閉じた。
「そんなの、決まってるだろ」
長い睫毛がそろってふせる。
「白羅。お前が、俺の――……」
言いかけて、止まった。
閉じていた目を開き、弥生は、薄く微笑んだ。
「俺の、心臓の一部だったから」
そう言った幽霊は、とても、幸福に満ちていた。
「――ああ、そうか――」
白羅の中にも、幸福と似たものが満ちた。
今、全てが過去のことになろうとしていた。
全てが、白羅の中にしか残らない真実になろうとしていた。
それでも、二人はいつものように笑って、右の拳をつき合わせた。
「きっと、また逢う運命だ。だから、忘れてくれるなよ、国島」
さらさらと、弥生が夕焼けに消えていく。
「ああ。忘れるかよ、雪村」
白羅は夕日をあびながら消える弥生の手をとった。
「それじゃあ」
「ああ」
そして、二人は、互いの手を強く握りあった。
「「 また会う日まで 」」
次の瞬間、白羅は一人、夕日に染まる屋上に立っていた。
先程まで幼なじみの手を握っていた右手から、小さな光の粒が零れた。
空気を掴む手を見つめ、ゆっくりと降ろした。
空を見上げる。強い金色の光が差していた。
「………」
心の中で、静かに水が流れていく気がした。
幼なじみの姿は、もうどこにもなかった。消えてしまった。
そうと分かった途端、全身から力が抜け、屋上の冷たい床にへたり込むようにして座り込んだ。
「本当に、消えやがった」
あまりにも突然すぎて、現実味がなくて、白羅は笑った。乾いた笑いが屋上に小さく響く。
そうやって、暫く一人で笑った。
そうしているうちに、だんだんと喉の奥が熱くなった。
鼻と目の奥に鈍い痛みが広がった。
心臓が、ぎゅう、と悲鳴をあげた。
――ああ、いてぇな―……
そう思った瞬間、手の甲に何かぬるいものが落ちてきた。
みると、それは水だった。
――雨……?
パタタ、と、白羅の手の甲に雨粒が落ちる。
さっきまで晴れていたのに、と思い、白羅は空を見上げた。
「………?」
空は、金色に輝くほど晴れていた。
夕日の光が眩しいほど晴れているのに、白羅の頬には幾粒もの雨が落ちてくる。
「………」
白羅は自分の頬を手の甲で拭った。
しかし、拭っても拭っても、白羅の頬が乾くことはなかった。
白羅の目から零れる涙は、いくら拭いても止まらなかった。
まるで涙腺が壊れてしまったかのように、涙がぼろぼろと落ちる。
「……あー……ちくしょう」
勝手に溢れる涙を掌に感じながら、白羅はふと思った。
――これじゃあ、アイツと一緒だな……
幼い子供のように泣きじゃくる幼なじみの顔が、鮮明に頭に浮かんだ。
ついさっきまで隣にいて、今はもう手の届かない彼の姿が。
怒る顔も、泣く顔も、笑う顔も、何もかもが鮮やかに思い出せた。
「――っづ、ぅ……っ」
身体中から、熱いものが溢れる。
彼は、一度死んでまでも隣にいた。隣にいて、色々な時間を共に過ごした。
その彼が、今、二度目の死を迎えた。
今度こそ、白羅の前から消えてしまった。
もう二度と、会うことはないだろう。
今、白羅の中で、弥生の死が――
――現実となった。
「っあぁあぁあああ!!」
そうと分かった瞬間、白羅は空に向かって泣き叫んだ。
喉を震わせ、悲鳴をあげるように泣いた。
弥生を想って泣いた。
――ああ、雪村。
――もう、お前はここにいないんだな。
彼は逝ってしまった。
もう二度と、隣には来ない。
もう二度と、会うことはできない。
――もう二度と、あの馬鹿みたいな喧嘩もできないんだな――……
「お前は……本当に……っ」
――死んでしまったんだ――……
「っあぁあああ!!」
身を裂く痛みに、白羅は叫んだ。
彼という人が、思い出になってしまったことに、叫んだ。
この声が、お前に届いていないといい。
何も知らず、笑顔で逝ってくれればいい。
もう二度と、こんなふうには泣かないから、
お前を想って泣かないから、
今だけは泣かせてくれ。
お前を想って、泣かせてくれ。
数週間前、雪村弥生という人間がいた。
数分前、雪村弥生という幽霊がいた。
雪村弥生は、確かに、ここに、
俺の隣に存在した。