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第3話 ガヴァネス見習いですが、授業になりません

 ソラーノ侯爵家の門を前にして、ルドミラ・エスカランテは両手を胸の前で握りしめた。


「よし」


 前回は侍女見習いで散った。


 だが今回は違う。

 今度こそ、今度こそ人の役に立てる仕事かもしれない。


 なにしろ相手は、五歳の男の子だ。

 五歳児なら、繊細なティーカップよりきっと丈夫である。


 急に金彩の縁が割れたりもしない。たぶん。


「今回はいける気がします!」

「その根拠のない自信が不安なんだが」

 後ろから低い声がして、ルドミラはぴたりと振り返った。


「ウリセス様、なぜいらっしゃるんですか!?」

「紹介した責任を少しは感じている」

「責任感が重い!」

「君相手なら必要だ」

「ひどい!」


 今日もウリセス・デ・バルモンテは、相変わらず怖い顔でそこに立っていた。

 黒髪に切れ長の目、無表情気味の整った顔立ち。

 これで面倒見がよいのだから、世の中は見た目だけで判断してはいけない。


 ルドミラはふんと胸を張る。

「でも、今回は本当に大丈夫です。子どもは好きですし、教えるのだって、たぶん、きっと、そこそこ」

「どんどん頼りなくなっていくな」

「勢いが大事なんです」


 ウリセスは呆れたように息をつき、懐から小さな包みを差し出した。

「何ですか?」

「ハンカチだ」

「まあ」

「前回のようにお湯を浴びるか、何かをこぼすかするだろうから持っていけ」

「まるで確定事項みたいに言わないでください!」


 とはいえ、ありがたく受け取る。

 ちゃんとした刺繍入りの、上等なハンカチだった。

 こういうところが世話焼きなのだ。


「ありがとうございます」

「返すときは洗って返せ」

「わたくし、そこまで信用ないですか?」

「正直に言うか?」

「結構です!」


 しばらくすると、ソラーノ侯爵家の使用人がやって来た。

「ルドミラ様、こちらへ」


 案内される直前、ウリセスは一度だけ言った。

「本気で遊び始めるなよ」

 去り際、ウリセスは一度だけ言った。


「だから、なぜそこをそんなに心配するんですか!」

「君だからだ」

「うう……」

 今回もたいへん心外である。


 しかし数時間後、ルドミラはその忠告の重みを、身をもって知ることになった。

     ◇

 ソラーノ侯爵家の応接室は、アルメイダ侯爵家とはまた違った雰囲気を持っていた。


 華美すぎず、落ち着いていて、書棚や絵画に品のよさがある。

 育ちのよい家の空気、というのはこういうものかもしれない。


 案内されて待っていると、まず現れたのは、柔らかな茶髪の青年だった。


 年の頃はルドミラとそう変わらない。

 整った顔立ちに、穏やかな笑み。

 立ち居振る舞いは洗練されているのに、威圧感はない。


「お待たせしました。ファブリシオ・デル・ソラーノです」

 長男だ、とすぐわかった。

「ルドミラ・エスカランテでございます。本日より、ガヴァネス見習いとしてお世話になります」

「ええ。弟の相手は大変だと思いますが、どうぞよろしく」

 声も柔らかい。


 ルドミラがほっとしたそのとき、廊下の向こうから元気いっぱいの声が響いた。

「やだー! ぼく、きょうはべんきょうしない!」

「ガエル様、お待ちくださいませ!」

「しないったらしない!」

 どたどたどた、という足音。


 次の瞬間、小さな男の子が応接室に飛び込んできた。

 明るい髪、くりくりした目、表情は生き物のようにころころ変わる。


 なるほど、いかにも元気そうな五歳児である。


 そして彼は、ルドミラを見るなりぴたりと止まった。

「だれ?」

 ファブリシオが苦笑する。

「今日からお前のお勉強を見てくださる、ルドミラ嬢だよ」

「おべんきょう……」

 ガエルは露骨に嫌そうな顔をした。


 わかりやすい。


 ルドミラは椅子から立ち上がると、男の子の目線まで少しかがんだ。

「はじめまして、ガエル様」

「べんきょう、きらい」

「そうですか」

「きみ、ガエルのことしってる?」

「……蛙?」

「ちがう! ガエル!」

「あっ、失礼しました!」

いきなり名前を生き物扱いしてしまった。


 やってしまった、と思ったが。

 ガエルは一瞬きょとんとしたあと、ぷっと吹き出した。


「へんなひと!」

「よく言われます」

「ほんとう?」

「ええ、まあ」

 ファブリシオが少し目を丸くしている。


 たぶん彼は思ったのだろう。

 初対面の五歳児に対し、こんなに自然に謝って普通に会話を続ける令嬢がいるのか、と。


 ルドミラはにっこり笑った。

「では、蛙……ではなくガエル様。今日はいっしょに文字のお勉強をいたしましょう」

「やだ」

「即答ですね」

「にわにいきたい」

「文字を覚えたら?」

「にわ!」

「算術を終えたら?」

「にわ!」

「礼儀作法は?」

「それ、つまんない」


 たいへん正直でよろしい。


 ファブリシオが申し訳なさそうに言う。

「いつもこうなんです」

「なるほど……」


 ルドミラはちらりと窓の外を見た。

 広い庭には花壇があり、小さな噴水があり、春の草木がきらきらしている。


 たしかに、五歳児が文字盤よりあちらに心惹かれるのはわかる。


 ルドミラは少し考えてから、ガエルに尋ねた。

「庭には何があるんですか?」

「はな! ちょうちょ! あと、きのうはへんなむしがいた!」

「まあ、虫まで」

「みる!?」

「見ていいんですか?」

「うん!」

 ガエルの目が、ぱっと輝いた。


 ファブリシオは微妙な顔をする。

「ルドミラ嬢?」

「はい?」

「今のは、お勉強を庭に誘導する流れですか?」

「たぶん、その予定です」

「たぶん」

「ええと、実地観察と申しますか」

「まだ一文字も書いていないのですが」

「今から書きます! たぶん!」


 なんとか言い切ったところで、ガエルに袖を引っ張られた。

「いこ!」

「はいはい、行きましょう」

「行くのか……」

 ファブリシオが呟く。


 その声音が責めるものではなく、どこか感心したようでもあったので、ルドミラは少しだけ胸を撫でおろした。

     ◇

 庭に出たガエルは、たいへん元気だった。


「これ、おはな!」

「ええ、きれいですね」

「これ、むしがいたとこ!」

「まあ」

「こっち、ちょうちょ!」


 走る。跳ねる。しゃがむ。見つける。報告する。


 そしてルドミラも、気づけば一緒にしゃがみ込んでいた。


「本当だ、羽に模様があります」

「でしょ!?」

「これはなかなかおしゃれな蝶ですね」

「おしゃれ?」

 ガエルが首をかしげる。


 ルドミラは近くの花を指さした。

「この花と色が似ていますでしょう?」

「ほんとだ!」

「つまり、蝶もお花に合わせてお出かけしているのかもしれません」

「すごい! おしゃれ!」

 ガエルは大喜びした。


 ……しまった。今の会話は、ものすごく勉強ではない。

 慌てて軌道修正を図る。


「では、ガエル様。『はな』の『は』の文字を書いてみましょうか」

「やだ」

「即答」

「ちょうちょのほうがたのしい」

「そうですねえ……」


 ルドミラは地面に落ちていた小枝を拾った。

「でしたら、土に書いてみませんか?『は』と書けたら、次は蝶の絵を描いてもいいですよ」

「えっ、え、かいていいの?」

「いいですよ」

「じゃあやる!」


 よし、乗ってくれた。

 ガエルは小枝を握りしめ、一生懸命地面に線を引き始める。


「ちがう、こうです。最初は上から」

「こう?」

「はい、とても上手」

「できた!」

「では次」

「つぎ、ちょうちょ!」

「まだ『な』が残っています」

「……」


 露骨に嫌そうな顔をされた。


 それでも、絵を描くために何とか二文字分くらいは頑張る。

 教育としてこれでよいのかは正直よくわからない。


 だが少なくとも、ガエルは文字盤の前で泣き出すよりはるかに楽しそうだ。


 遠くから様子を見ていた侍女たちは、なんとも言えない顔をしていた。

 そのうちのひとりが、そっと近づいてくる。

「ルドミラ様、そろそろ室内へ……」

「はい、そうですね。ガエル様、続きは中で――」

「やだ」

「ですよねえ……」

 すぐにやだと言われた。


 ルドミラはどうしたものかと考えたが、そのときガエルが花壇の前で声を上げた。

「みて! てんとうむし!」

 小さな赤い虫が葉の上を歩いている。

 ガエルは大興奮だ。ルドミラもつい覗き込む。

「まあ、本当に」

「ちいさいね!」

「かわいらしいです」

「もじより、こっちのほうがおもしろい」

「それは……否定しづらいです」


 教育係失格の発言だった。

 しかしガエルはすっかりうれしそうで、ルドミラも否応なくつられる。


 そのあと彼は「虫の数を数えよう!」と言い出し、ルドミラは「それなら算術ですわね!」と乗ってしまった。


 花びらの数を数えたり、石を三つ並べて足し算もどきをしてみたり、蝶を追いかけて全力で走ったり――最後のは、もう完全に遊びである。


 気づけば二人とも、靴も裾も土だらけだった。

「……ルドミラ嬢」

 背後から穏やかな声がして、ルドミラはぴたりと止まった。


 振り向くと、ファブリシオが立っていた。

 にこやかだ。にこやかなのだが、ほんの少しだけ困っている顔でもある。


「申し訳ありません!」

 ルドミラは反射的に頭を下げた。

「いえ。弟があんなに楽しそうなのは久しぶりですから」

「そ、そうですか?」

「ええ。ですが」

「ですが?」

「ガヴァネス見習いとしては、ずいぶん斬新な授業ですね」


「うっ」

 痛いところを突かれた。


 ガエルはそんな大人たちの空気など気にせず、泥のついた手を高く上げる。

「にいさま! ぼく、『は』かけた!」

「そうか」

「ちょうちょもみた!」

「それはよかった」

「るどみら、へんだけどおもしろい!」

「褒め言葉として受け取っておきます……!」


 ファブリシオは口元を押さえ、笑いをこらえるように目を伏せた。

「なるほど。たしかに、あなたは物怖じしませんね」

「そうでしょうか」

「少なくとも、普通のご令嬢は初対面の五歳児と土に文字を書いて、そのあと蝶を追いかけて泥だらけにはなりません」

「そう言われると、その通りですわね」


 ルドミラが素直に認めると、ファブリシオはついに笑った。

 その笑い方も上品で、いかにも育ちがよい。


 それなのに、次の言葉はとても自然だった。

「……最近、アルメイダ侯爵家で侍女見習いをされていたとか」

「はい。少しだけ」

「エスティバリス嬢は、お変わりありませんでしたか」


 その訊き方が、いかにも『さりげなく』だった。

 さりげない。さりげないのだが。


 ルドミラはぴんときた。


 この方、ただの世間話の顔をしているけれど、訊きたいのはエスティバリス様のお話なのでは?


 ルドミラはとりあえず普通に答える。

「ええ。お元気でしたよ」

「そうですか」

「とてもお優しくて、素敵な方でした」

「……そうですね」

 ほんの少しだけ、ファブリシオの声音がやわらかくなる。


 あ、と思った。

 これはもしや。


 ルドミラは探るように続ける。

「ドレスは、薄紅のお色がとてもお似合いで」

「薄紅……」

「はい。最初は別のお色で迷っていらしたのですけれど、あちらのほうがお顔が明るく見えました」

「なるほど」

「そういうお色をお好みなのかしらと、勝手に思っておりました」

「え?」

「いえ、何でもありません」


 ファブリシオが少しだけ目を見開く。


 それから、咳払いをした。

「……あなたは、本当に遠慮がない」

「よく言われます」

「否定しないんですね」

「事実なので」

 ファブリシオは困ったように笑った。


 その反応を見て、ルドミラの中で確信が強まる。


 ただし、今はまだ口にしないほうがよいだろう。

 たぶん。

 いや、けっこう高い確率で。

     ◇

 その日の授業と呼んでよいのかわからない何か――を終えて、ルドミラは控え室でがっくりしていた。


「……授業になっていない……」

 机の上には、今日使った文字盤と紙、それから土のついた小枝まで置いてある。

 途中から何も隠せなくなって、証拠品のようになっていた。


 そこへ、ことことと茶器を運ぶ音がして、振り返る。

「ルドミラ様、お茶をどうぞ」

「ありがとうございます……」

 侍女が去ったあと、ルドミラは深々と溜め息をついた。


「今度こそいけると思ったのに……」


「その台詞、何度目だ」

 低い声がした。


「ウリセス様!?」

「だからなぜ毎回そんなに驚く」


「毎回ちょうど落ち込んだところにいらっしゃるからです!」

 ウリセスは扉のそばに立ったまま、呆れた顔をしている。


「ソラーノ侯爵家にも用があると言っただろう」

「本当に顔が広いですね……」

「君の見習い先に妙によくいるだけだ」

「それはもう、かなりよくいるのでは?」

 ウリセスは答えず、ルドミラの泥のついた裾を見た。


「……やったな」

「やってしまいました」

「本気で遊ぶなと言ったはずだが」

「最初はお勉強だったんです! 本当です! 文字も書きました! 土に!」

「土に」

「花びらの数も数えました!」

「それで最終的に泥だらけか」

「はい……」

 ウリセスは額を押さえた。

「君という人は」

「でも、ガエル様は楽しそうでした」

「だろうな」

「前より学ぶのを嫌がらなくなるかもしれません」

「それもあるだろう」


「ですが」

 ルドミラは肩を落とした。


「ガヴァネス見習いとしては、たぶん失格です」

 否定してほしかったが、ウリセスはすぐには何も言わなかった。


 それが逆につらい。

「……そんなに駄目ですか」


「教育係として、型にはまった優等生ではないな」

「遠回しに言ってくださってありがとうございます……」


 ウリセスは少しだけ視線をやわらげた。

「だが、ガエルは君に懐いた」

「はい」

「ファブリシオも、珍しくよく笑っていた」

「えっ」

「使用人たちも、君がいると場が明るくなると言っていた」

「そうなんですか?」

 ルドミラは目をぱちぱちさせた。


「それ、仕事としてはどうなのでしょう」

「そこが問題だ」

「やっぱり問題なんですね!?」

「今のところ、君の才能は『規定の仕事をきっちりこなす』方向ではない」

「ぐさっときますわね……」

「だが、『相手の気持ちを軽くする』ことに関しては、かなり優秀だ」


「そんな大げさな」

「大げさではない」

 言い切られて、ルドミラは少しだけ黙った。


 そういうふうに言われると、うれしいような、でも何の役に立つのかわからないような、ふしぎな気持ちになる。


 だって、家を助けるために必要なのは、もっとこう、誰が見てもわかりやすい有能さではないのだろうか。


 丁寧に働けるとか、きちんと教えられるとか、そういう。


「……でも、わたくし」

 ぽつりと漏れる。


「何にも向いていない気がしてきました」

 珍しく素直に弱音を吐くと、ウリセスは少しだけ眉を動かした。


 そして、低い声で言った。

「二回駄目だったくらいで全部駄目だと決めるな」


「二回も、です」

「まだ二回だ」


「前向きすぎません?」

「君が後ろ向きすぎる」


 ルドミラはむっとしたが、少しだけ胸のあたりがあたたかくなる。

 この人は、顔は怖いのに、どうしてこういうところだけやさしいのだろう。


「……ありがとうございます」

「礼を言うのは、正式に採用されてからでいい」

「それ、まだ何かあるような言い方ですね」

「ないとは言っていない」


 気になる言い方だ。

 だが、問い返す前に、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「ルドミラ嬢」

 現れたのはファブリシオだった。


「兄上」

 ウリセスが軽く会釈する。


 二人は知り合いらしく、空気が自然だ。

 ファブリシオはルドミラの前まで来ると、穏やかな笑みを浮かべた。


「今日はありがとうございました。弟があんなふうに文字の話をしたのは久しぶりです」

「い、いえ。ほとんど遊んでしまいましたし……」

「それでもです。少なくとも、『勉強は嫌だ』と泣き出さなかったのは大きい」


 ルドミラは少しだけ顔を上げた。

 それなら、ほんの少しは役に立ったのだろうか。


 だが、ファブリシオは続ける。

「ただ」

「はい」

「ガヴァネスとして求められるものとは、少々違うのも事実です」


「……ですよね」

「ええ」

 穏やかに、とどめを刺された。


 でも、彼の目には悪意も軽蔑もない。

 ただ本当に、事実を言っているだけなのだとわかる。


 ファブリシオは一通の封書を差し出した。

「それでも、これはお渡ししておきます」

「え?」


 ルドミラは受け取る。

 見覚えのある、上品な封蝋だった。


「アルメイダ侯爵家からです」

「エスティバリス様から……?」


「ええ。今日、ちょうど使いが来まして。あなたにぜひ届けてほしいと」


 ルドミラの胸がどきりと鳴る。

 どうして今、エスティバリスから手紙が?

 おそるおそる封を切る。


 そこに記されていたのは、やわらかな筆跡で、たった一文だった。

 ――今度の夜会、わたくしのそばにいていただけないかしら。


「……まあ」

 思わず声が漏れた。


 ウリセスとファブリシオが、黙ってこちらを見ている。

 ルドミラは手紙を見つめたまま、ゆっくり瞬きをした。


 侍女見習いは駄目だった。

 ガヴァネス見習いも、たぶん駄目だ。



 それなのに。

 それでもなお、自分を必要だと言ってくれる人がいる。

 胸の奥で、何かが小さく灯るような気がした。


「エスティバリス様が……わたくしを?」

「そういうことだろうな」

 ウリセスが言う。


「さて、どうする」

「どうするも何も」


 ルドミラは顔を上げた。


 まだ何の仕事に向いているのかはわからない。

 でも、呼ばれたのなら行くしかない。


「参ります」


 その返事に、ウリセスはごく小さく口元をゆるめ、ファブリシオは静かに笑った。


 そしてルドミラは、手紙を胸に抱きしめながら思う。


 ――もしかすると、まだ終わっていないのかもしれない。



 そうして、がさつ令嬢の就活は、思いもしなかった方向へと進み始めるのだった。



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