第76話 ヂン
エリカは台所で誰にも見えない4つ目の椅子に座り、依然として動けずにいた。 アリスの到来に気付いてはいたし、麻痺薬による痺れが少し取れてきたようにも思う。
だが、時すでに遅し。 いまエリカの頭の中では、さきほどメカジキ少尉がメモ用紙から読み上げた6つの命令が鳴り響いていた。 《支配》の魔法の作用の一部なのか、6つの命令は脳裏にこびりついて一向に頭から離れない。
(うぅ、頭が割れそう......)
《支配》の魔法をかけられても、エリカの自我は消滅せず意識は残っている。 被術者の自我はそのままに術者の命令に従わせるのが《支配》の効果であるらしい。 被術者の感情は手つかずで残っているから、軍に対する怒りも命令に従いたくない気持ちも当然エリカの中にある。
◇❖◇❖◇
(とりあえず他の部屋を見回ろか)
廊下に戻ろうとするアリスの背中にガブリュー大佐の声がかかる。
「ヒロサセ少尉は何かを誤解しているようだが」
アリスは足を止めて大佐のほうに向き直った。
(誤解...?)
アリスはここまでの経緯を思い返す。 発端は、ガブリュー大佐とフロスト中尉の会話だった。 その会話を盗み聞きしたときに、大佐が「ヒロサセ少尉の《支配》も検討」と言ったのだ。 そして、今夜のフロスト中尉の内容の薄い説教。 さっき玄関の呼び鈴を鳴らしたとき誰も出て来なかったのも怪しい。 後ろめたいことが無いなら、どうして誰も出て来なかったのか?
(誤解してないと思うけど)
「我々は今夜、サワラジリさんを再び軍に勧誘しに来ただけなのだよ」
(ウソやろ。 それやったら、なんでこんなに物々しいねん? なんで呼び鈴を鳴らしたときに誰も出てけえへんねん?)
大佐の白々しいウソに我慢できず、アリスは思わずベルを鳴らす。
チンチン(ウソつくな!)
「ウソじゃないさ、なあサワラジリさん?」
(エリカさん!? この台所にいてたん?)
ガブリュー大佐に声を掛けられたエリカは、ようやく少し動けるようになり始めた指先を懸命に動かして、ポケットの中のマイ・ベルを鳴らそうとする。
(まだ痺れが取れてないっていうのに!)
心の中で罵りながらも、エリカは必死の思いでベルのボタンに不自由な指先を這わせる。 そんな思いをしてまでベルを鳴らそうとするのは、《支配》の後にエリカに与えられた命令の1つが「ガブリュー大佐の指示に従うこと」であり、さきほどのガブリュー大佐の「なあサワラジリさん」をエリカが「ベルでの返答を要求する指示」と理解してしまっているからだ。
指先が思うように動かないので、エリカは手全体をボタンに押し付けるようにしてベルを鳴らす。 そして放たれた音は――
ヂン
普段のエリカのベルの音とはかけ離れたひどい音だった。
(何よこのひどい音。 これが私のベルの音だっての?)
(これ、ほんまにエリカさんのベルの音?)
(いやっ! こんなひどいエリカさんの音は聞きたくないっ)
最後の感想は、シバー少尉 ――エリカに痺れ薬を盛った例の少尉―― のものである。
泣きそうな顔のシバー少尉とは対照的に、ガブリュー大佐は満足そうな笑みを浮かべる。 メカジキ少尉はホッとした表情。 今エリカがベルを鳴らしたことで、彼らはエリカに《支配》の呪文がかかっていると確認できた。
◇❖◇
「聞いた通りだ、ヒロサセ少尉。 何を勘繰っているのか知らんが、我々はサワラジリさんに危害を加えてなどいない。 宿舎に戻りたまえ」
(さっきのおかしなベルの音。 ぜったい異常事態や!)
さっき玄関のドアを壊したときには、今夜にでもエリカとミザル市を脱出するぐらいの気持ちでいた。 だが今アリスは、どうすればいいか分からなかった。
大佐の今の発言からすれば、アリス1人でミザル市を脱出するほどの事態でも無いように思える。 しかしガブリュー大佐が今晩ここでエリカに何かをした疑惑は濃厚。 その内容は不明で、エリカが今どんな状態にあるかも分からない。 加えて、大佐のアリスに対する態度も捉えどころがない。 大佐はアリスを反逆者ではなく、あくまでも部下として扱っている。
決定力に欠ける思考の材料ばかりがアリスの頭の中でグルグルと渦を巻き、アリスはその場に立ち尽くす。
(けっきょく...... どうしたらええんやろ)
そのとき、汚らしく濁ったベル音が再び鳴り響く。
ヂョン
エリカが死力を振り絞って鳴らしたベルの音である。 ひどい音ではあったが、エリカの卓絶したベル・スキルは彼女の伝えたいことを確りとアリスに伝えた。
(「逃げなさい」? エリカさんは私に逃げろって言ってる?)
エリカのベル・スキルは本当に卓絶していたので、アリス以外のその場にいた人たちにもエリカの伝えたいことは伝わった。
「『逃げろ』だと? 余計なマネを」
「いかがいたしましょうか?」
「エリカさん、アリスさんのために痺れる体で必死で...」
「《支配》の影響下にあっても禁止してないことは実行可能ですから」
メカジキ少尉が迂闊にも《支配》という言葉を使ったことで、アリスは知った。 エリカがすでに軍に《支配》されていると。
(エリカさん...... もう《支配》されてたんか。 そしたら私は1人で逃げるしかない? でも――)
自分1人では、この国はおろかミザル市からだって逃げる自信がない。 この世界の地理の知識がゼロだし、町の外に出たことすらほぼない。 町から町へ移動する手段もよく知らない。
(どうしよう。 私どうしよう)
エリカを失ったアリスは、この異世界に放り込まれたときと同じ不安に襲われた。 彼女は自分でも知らぬ間にエリカに依存していた。 互いに姿が見えないエリカに対しては人嫌いが発揮されることもなく、アリスは生来の依存性の強さをのびのびと発揮できた。
この場から逃げるべきなのは明白。 エリカがすでに《支配》されてしまった以上アリスに出来ることはないし、シバー少尉はさっき「痺れる体で」と言っていた。 軍は何らかの方法でエリカを痺れさせて《支配》したに違いない。 この場に留まれば、いつなんどき自分も痺れさせられるか分からない。 アリスは台所から後退りして廊下に出ると、玄関を目指した。




