第108話 究極のスローライフ
ハンター協会のビルを出たエリカは、いったん帰宅することにした。
自宅に戻り居間に入ると、シバー少尉がソファに寝っ転がって熱心に本を読んでいる。 『5分でわかる婚約破棄』とかいうハウツー本に違いない。 少尉は婚約もしていないくせにここ数日その本に夢中で、暇を見つけてはページをめくっている。
(あのタイトル絶対ウソだよね。 あんなに分厚いのに5分で読めるわけないじゃん)
エリカの帰宅にシバー少尉が一向に気付く様子がないので、エリカはベルを鳴らす。
チン(ただいま)
「あっ、お帰りなさいエリカさん。 早かったですね」
チン(ちょっと考え事をしようと思って)
「じゃあ、お茶を淹れてきましょう」
シバー少尉はソファから起き上がり台所へ向かった。
次の瞬間、エリカは突然どこだか分からない謎の空間に立っていた。 目の前には厳しい顔をした白髪の老人。
目まぐるしすぎる状況の変化にエリカは戸惑うばかり。
(あれっ? ここは... このお爺さんは...)
◇❖◇❖◇
帰宅したら突然の場面転換。 理解が追いつかず唖然とするエリカに、老人は皮肉っぽく言う。
「誰にも気づかれない状態になって孤独を感じるどころか、安穏と過ごしてしまうとは。 お前は根っからの人嫌いだな」
(神様... 私に何の用なの?)
老人は少し柔らかい口調になって続ける。
「今日はお前に話があってな」
「どんな話ですか?」
「うむ、新しい自殺者が出たため、お前は今の世界を去らねばならん」
寝耳に水で絶句するエリカを見ながら老人はさらに言う。
「お前が送り込まれた世界は、人嫌いで自殺した日本人の女の子が送り込まれる世界だ」
(とても限定的なのね)
「そうして送り込まれた女の子は、誰にも気づかれない存在としてその世界で暮らすが、その世界には5名の定員枠があってな」
(話が見えてきた)
「その定員枠を超えて新たな自殺者が出ると、定員のうち最古の者が選択を迫られることになる。 そして、その番がお前に回ってきたのだ」
エリカは大人しく老人の話を聞いていたが、ここで質問を挟んだ。
「選択って、どんな選択ですか?」
「元の世界に戻り前の人生を続けるか、消滅するかだ」
「他に選択肢は?」
「ない」
「いつ?」
「今すぐだ」
(そんな... マロン君にもアリスちゃんにも、もう二度と会えないの?)
人間関係に極度に淡白なエリカだから、彼らと別れること自体はさほど辛く感じない。 しかし、一言の挨拶もなく今の世界を去るのは心残りだった。
「さてエリカよ、お前はどちらを選ぶ? 元の世界に戻り人生を再開するか、それともこの世から消滅してしまうか?」
この二択なら迷う余地はない。 エリカはきっぱりと答えた。
「消滅します」
元の世界に戻っても、どうせまた人嫌いに耐えられず自殺するだけだ。 愛せる生き物が何ひとつ存在しない人間だらけの世界で、人間を避けるようにして生きていけるものか。
老人は予想通りといった様子で頷く。
「だろうな。 お前はトコトン人に向いておらん。 いや、動物に向いていないと言ったほうが良いだろう。 お前は弱い。 肉体や頭のことじゃないぞ? 性格の話だ。 動物が備えていてしかるべき我の強さが、何の因果かお前にはトコトン欠けている。 そのためにお前は他人との競争を極度に嫌い恐れ、人との接触を拒む。 それがお前の人嫌いの根本原因だ」
長年の悩みであった人嫌いの理由を神様は教えてくれたが、エリカには最早どうでも良かった。 何しろ彼女はこれから消滅するのだ。
説明を終えた老人はエリカに問う。
「よろしい。 消滅する前に何か言い残すことは?」
「特にありません」
「そうか。 では、さらばだ」
そう言って老人は手に持つ杖の頭でエリカの頭をゴツンと叩いた。
「イテッ!」
しかし前回に叩かれたときと違い、今回は神様から憎しみは伝わって来なかった。 そしてエリカの体は消え失せた。
◇❖◇❖◇
次に気がついたとき、エリカは高空から高層ビル街を見下ろしていた。
(高層ビル... ここは地球? 私はこの世から消えたはずじゃ?)
しかも、入り組んだ湾の形に見覚えがある。
(日本の東京? 私は元の世界に戻ってきたのね)
エリカの心に神様の声が響いてくる。
「お前の意識が完全に消滅するまで、お前は幽霊のように地球の周辺を漂うことになる。 それが数年か、あるいは数十年かは分からんがな」
(そうなんだ。 すぐに消えるのかと思ってたけど... これはこれで悪くないね。 思い通りに移動できるし、お腹も空かないだろうし。 試験もなんにもないし)
ふよふよと空を漂い、エリカはなんとなく自分が住んでいた家の上空までやって来た。 自分の家を見て少しでも懐かしい思い出に浸れるかと期待した。
しかし、そんな思い出はほとんど湧いてこなかった。 楽しい思い出と言えば飼っていた黒猫の記憶だけで、その記憶も思い出すうちにやがて悲しい別れに至る。 自分があの家に住み続けていた場合を想像しても気分が暗くなる。
(やっぱり自殺して正解だった。 ホントこの世に向いてなかったのよ私)
これからエリカは世界中の上空を悠々と飛び回り、雄大な雲を眺めたり、一人静かに月夜を楽しんだり、誰もいない静かなどこかで木の葉が風に擦れる音に耳を傾けて過ごすのだ。 彼女は完全に自由な存在だった。 食事は不要だし、暑さ寒さも感じないから衣服も家も必要ない。 病気の心配もない。 なんの不安もない究極のスローライフである。
◇❖◇❖◇
あらゆる悩み苦しみ欲望から解き放たれて自由に空を舞うエリカは、精霊に近い存在になっていた。 しかし、それこそがエリカに適していた。 エリカは生命体に向いていなかったのだ。
人が楽しみ・快感・幸福を感じるのは、生命体に課せられた枷が緩むのを喜んでいるのに過ぎない。 自己を保存し子孫を残すという枷ゆえに、人は楽しみ・快感・幸福を感じる。
「枷が外れることではなく緩むことに喜ぶなんて、人間って哀れな生き物よね」
それが、生命の枷を逃れたエリカの抱く感想だった。
~完~




