雨が止むまで
他サイトに掲載していたものの転載です。
地面が雨を跳ね返す。
「あ……」
声を上げて、しまったと思った。
突然降り出した雨の中。
飛び込もうとした廃線のバス停には先客がいて、思わず足を止めてしまう。
前髪からしたたる雫。
威圧的な鋭い目。
胸の前で腕を組んでいた彼としっかり目が合い、瞬時に眉を顰められる。低い声をかけられた。
「なにやってんだ、入れよ」
「……はい。失礼します」
木造りのぼろぼろの屋根の下、私は極力彼から離れ、バス停に潜り込んだ。
目の前には植え付けが終わったばかりの水田が広がり、見渡す景色にはぽつりぽつりと民家があった。
春と夏の境。
雷鳴が近づいていた。
「……すごい雨ですね」
「だな」
「急に降り出したからびっくりしました」
「ここらじゃ珍しくはないけどな」
「……勉強不足で、申し訳ありません」
漂う重い空気に、私、雛山ももせは、つい逃げ出したくなった。
──先客である彼の名は早坂和臣さん。三十二歳。独身。
都心から車を走らせること二時間と少し。
山と海に囲まれたこの穏やかな地域一帯を占める名家の現当主さんだった。
近隣にリゾートホテルを建てるべく交渉役に立っている私の難敵でもある。
土地の買収について、早坂家を筆頭に近隣住民の了承が得られず、計画はもう三ヶ月も難航していた。
観光客が増えることによる金銭的なメリットよりも、マナー違反者が起こすであろう騒音やごみの問題、連休の混雑などが反対されている理由だった。
私はもう何度も上司と共に住民説明会を開いては説得を試みているのだけれど、これがなかなかうまくいかなかった。
帰れと言われたり冷たい視線を投げかけられたり、配った資料を目の前で破られたり。根性だけが取り柄の私も、さすがに心が折れそうになっていた。
会社に戻っても味方はおらず、社長に至っては『絶対に成約しろ』の一点張りで、引き下がることもできなかった。
澄んだ海。
豊かな山。
夏は爽やかな風が吹き抜け、冬は幻想的な雪景色が堪能できるこの町は、社長が推す通り、都会に疲れた人々を癒すリゾート地にぴったりだと思う。
けれど私は、早坂さんたちが難色を示す気持ちもよく理解できていた。
自分の住んでいるところに毎日のようによそ者が訪れるのだ。当然今までとまったく同じ生活とはいかなくなるだろう。よくないことが起こるんじゃないかと不安になる気持ちもわかるし、特にご年配の方々の懸念は最もだと思えた。
そこで私は社長に直談判し、建設計画を練り直してみた。
地域の人々に迷惑がかからないように、生活を脅かさないようにプランを再構築してみたのだ。
そして今日は、その再交渉にあたろうと馳せ参じたところだった。
私はそっと隣に並ぶ早坂さんをうかがう。
無謀かもしれないけれど、せっかく会えたのだから話してみよう。
意を決して、話しかける。
「あ、あの」
──幾つもの土地と各地にも複数の会社を持つ早坂さんは、大変な大金持ちらしい。けれど生まれ育ったこの土地をとても大切にしていて、自ら農業も行なっていた。
白いTシャツから覗く二の腕は筋肉質で、見える肌は浅黒い。高身長も相まって、さながら洋画に出てくる戦闘員のような印象を覚える。おまけに今日は少し、顎髭まで生えていた。
ちょっと怖い。
早坂さんには怒鳴られたことも恫喝されたこともないけれど、彼の射るような視線は、いつも私の背中をシャンとさせた。
「少しお話をいいですか?」
「ホテル建ててぇって話なら聞かねえぞ。耳タコだっつの」
鬱陶しそうに言った早坂さんが私を見下ろす。
せっかくの勢いを削がれそうになるも、私は懸命に自分を奮い立たせた。これは仕事だ。怖がっている場合じゃない。
早坂さんの切長の瞳をまっすぐに見つめ返す。凛とした黒を宿していた。
「不躾に申し訳ありません。お願いしている土地の件ですが、大柳とも話をつけ、計画を練り直しましたので今一度再考をお願いできませんでしょうか」
「大柳……? て、あんたんとこの社長だよな」
「はい」
私は肩にかけていたバッグからタブレットを取り出し、用意していたスライド資料を開いた。
「だから、見ねえって」
「雨が止むまでで構いませんから」
強く食い下がる私に、早坂さんの眉間の皺が深くなる。構わず、私は話を続けた。
「ご覧ください。洋風ホテルではなく和風旅館に変更し、階層も高層ビルから平屋へ、部屋数も八室にまで減らしました。これで休日の混雑は解消されますし、わたくしどもも一組一組、お客さまへの丁寧なおもてなしが実現できます」
あまりに私が強引だったからだろう。もしくはこの大雨のおかげか。早坂さんは渋々といった様子で、私がスライドする資料を覗き込んでくれた。
「ふうん。洒落てんな」
「でしょう? 昨夜もつい盛り上がってしまって、デザイナーさんと一時まで話してしまいました。どんどんアイデアが湧いてきて……」
「なるほど。それでそのクマか」
早坂さんが不意に、私の目元を見つめてくる。
顔が少しだけ近づいて、私は緊張に身を固まらせた。
意外だったのは、早坂さんが多分、香水をつけていたこと。
「あ、あの」
「顔色、悪いぞ。それから足。血がでてる」
「あ」
「痛いんだろ。雨が降ってる間くらい無理すんな」
気付かれていたのか。
恥ずかしくなって、私は愛想笑いを浮かべた。
──大学を卒業後、就職がうまくいかなかった私はやっとの思いで今の職場である大柳観光に拾ってもらった。関東を中心に事業展開を広げている、小さな会社だ。
二十二歳の春に採用されてから二年。
私は与えられた役割を果たそうと必死だった。
事務として雇用されたはずが、これも勉強だと開発に回されたのが半年前。こうした現場交渉も経験になると上司にせっつかれ、今はほとんどひとりで仕事に当たっている。
高給取りとは言えなくても、毎月決まった給料をいただいているのだ。
要領が悪く、知識もない半人前の私は、多少の無理もすべきだった。
上司や社長の言う通りに。
心がすり減っても。
慣れないヒールで靴擦れを起こしても。
土砂降りの日でも。
「だ、大丈夫です。これ、見た目より痛くないですから」
私はなんでもない風を装って、タブレットをバッグにしまう。
「すみません。お見苦しいものを見せてしまって。それにしても雨、止みませんね。やだな、こんな日に限って傘忘れちゃうなんて。いつもは折り畳み傘持ち歩いてるんですよ?」
何故だろう。
無理をすんな。
早坂さんのその一言が、胸に突き刺さって抜けない。
「ったく」
隣から小さな、呆れたような舌打ちが聞こえた。
「もうすぐ迎えが来る。乗ってけよ。この分だとしばらく止まねぇから」
「え、そんな」
「ついでに俺んち寄ってけ。手当と……まぁ、茶くらいは出してやる。で、その間だけはあんたの寝不足に免じてプレゼンも聞いてやるよ」
「! ほ、ほんとですか!?」
食いつくように言った私に、早坂さんがふっと笑う。
「ああ」
「……っ! ありがとうございます! 細かくご説明させていただきます!」
「聞くだけだからな」
「はい! わかってます!」
「本当かよ……」
ざぁざぁと雨が降る。
目の前に広がる田園では、カエルがうれしそうに鳴いている。
迎えが来るまでのほんのひととき。
私は、早坂さんとの距離を拳ひとつ分まで縮めることができた。
それもこれもこの雨のおかげだと思えば、止んでしまうのが少し、惜しいような気もしていた。
END




